第一章:黄昏の境界線
空気が、どこまでも白く冷たい。
東京から遠く離れた地方都市の駅前。ロータリーを抜けた先にある古びたアパートの扉を開けると、そこには生活の匂いがほとんどしない、殺風景な空間が広がっていた。散らかった雑誌の山もなく、甘い芳香剤の香りもない。ただ整然と机の上に積み上げられた参考書と、青白いデスクライトの光だけが、この部屋の主の存在を証明している。
蓮、十七歳。県内でも有数の進学校に通う高校二年生。
彼は今、一人で暮らしている。
「親の自立教育」という名目のもと、高校入学と同時に実家を追い出されるようにこの街へやってきた。だが、それは聞こえのいい独立などではない。ただの放任であり、実質的な育児放棄に近かった。仕送りという名の最低限の生活費だけが毎月口座に振り込まれ、その代わりに両親から送られてくるのは、決まって電子メッセージだった。
——『次の模試の順位は学年トップを維持しなさい』
——『医学部合格以外の選択肢は我が家にはない。遊んでいる暇などないはずだ』
画面越しに突きつけられる冷徹な数字と文字。幼い頃から、彼の感情や「青春」という名の寄り道は、すべて勉強という名の巨大な歯車にすり潰されてきた。友達と遊びたい、くだらない冗談を言い合って笑いたい——そんなごく普通の願いは、親の期待という重圧の前には虫けらのように踏みにじられた。
(……また、これだ)
スマートフォンを机に放り投げ、蓮は自分のこめかみを押さえた。頭の奥がガンガンと痛む。睡眠時間は毎日四時間ほど。鏡に映る自分の顔は、青白く、どこかやつれていた。
「俺は、何のために生きているんだ……」
声に出した言葉は、誰に届くこともなく、狭い部屋の壁に吸い込まれて消えていった。胸の奥底に澱のように溜まる孤独感と、息が詰まるような閉塞感。自分の人生なのに、まるで他人のレールの上を走らされているような感覚が、毎日のように彼の心を削っていく。頼れる人間など、この世界には誰もいなかった。
翌朝の教室は、いつものように騒がしかった。
窓際の席。蓮は頬杖をつきながら、ぼんやりと外の景色を眺めていた。黒髪は少し伸びて額を隠し、伏し目がちな瞳は常に冷ややかな光を帯びている。その整いすぎた顔立ちは、少女漫画から抜け出してきたかのように端正で、どこか儚げな「美少年」の雰囲気を纏っていた。
しかし、そのルックスとは裏腹に、クラスでの彼は「近づいてはいけない氷の彫刻」として扱われていた。
「ねえ、見て……またレンくん、一言も喋ってないよ」
「あんなにカッコいいのにさ、なんか怖いよね。いつも冷たい目をしてるし」
「私なんて、目が合っただけで凍りそうになった。絶対、他人のこと見下してるんだよ、あいつ」
女子生徒たちのひそひそ声が、風に乗って微かに聞こえてくる。
だが、それは誤解だった。蓮が冷酷な人間だからではない。ただ、どう人と接していいのか分からないのだ。幼い頃から人とのコミュニケーションを禁じられ、勉強だけに縛られて生きてきた彼にとって、学校とは「ただ息を潜めてやり過ごす場所」でしかなかった。
自分に自信がない。こんなに不器用で、親の操り人形のような自分が、誰かと心を通わせられるはずがない。その劣等感を隠すための防衛本能として、彼は無意識に周囲を寄せ付けない「冷徹な仮面」をかぶってしまっていたのだ。
「おっ、レン! お前、昨日の数学の宿題やったか? 見せてくれよ、頼む!」
気さくに肩を叩いてきたのは、クラスメイトの男子だった。だが、蓮はわずかに眉をひそめ、無言のまま冷たい視線を返す。
「……勝手にやれ」
ぶっきらぼうな低い声。それだけで男子は「うわ、機嫌悪っ」と引き下がり、気まずそうにその場を去っていった。
(……まただ。どうして、いつもこうなるんだ)
心の中では、もう少しうまく返せばよかったと後悔している。冷たくするつもりなんてなかった。ただ、どう言葉を返していいのか分からなかっただけだ。なのに、周囲の人間は勝手に「蓮は高慢で、人を寄せ付けない嫌な奴だ」と決めつける。
放課後も、彼の日常は単調だった。
登校し、席に座り、授業を受け、淡々と黒板の文字をノートに写す。休み時間は誰とも話さず、ひたすらイヤホンで外界の音を遮断する。そして帰宅しては、深夜まで机に向かう。
そんな毎日を過ごす中でも、彼の整った外見目当てに連絡先を求めてくる女子は後を絶たなかった。
「あの……レンくん、よかったらこれ……私のLINE、交換しない?」
廊下の曲がり角で、クラスでも目立つタイプの華やかな女子が、頬を赤らめながらスマホを差し出してきた。周囲の生徒たちが息を呑んでこちらを見守っている。
蓮は、差し出された画面と、その上気した少女の顔を交互に見つめた。
心臓がうるさく脈打つ。どう反応すべきか分からない。頭の中で思考がフリーズし、結果として彼の口から漏れたのは、極めて事務的な一言だった。
「……いらない。興味ないから」
「え……?」
少女の顔から血の気がスーッと引いていく。蓮はそれ以上何も言わず、ただ無表情のまま彼女の横をすり抜けて歩き出した。背後から「なんだあいつ、調子にのってる」「せっかく勇気出して告白したのに最低!」という冷ややかな声が聞こえたが、振り返ることはしなかった。
スマートフォンの中には、実はこれまでに声をかけてきた女子たちの連絡先がいくつか保存されていたりする。だが、それは彼がナンパ目的で集めたわけではない。ただ押し切られて登録させられただけであり、一度も自分から連絡したことはなかった。
むしろ、彼女たちの態度の変化が、蓮の心をさらに深く傷つけていた。
近づいてくるときは甘い声を出し、ちやほやするくせに、少しでも冷たくあしらったり、自分の思い通りにならないと分かると、途端に冷たい目を向け、陰口を叩く。あるいは、「どうせ私なんか相手にされないんだ」と勝手に絶望して去っていく。
(やっぱり、女なんてみんな同じだ。顔や見た目に惹かれているだけで、俺自身の中身なんて誰も見ていない。近づいてくるのは、ただの気まぐれか、あるいは俺を試しているだけだ)
「……めんどくさい」
スマホの画面を強く握りしめ、蓮は小さく吐き捨てた。
誰にも愛されない。誰にも理解されない。自分の美貌は、ただ周囲を威圧し、孤独を深めるための枷でしかなかった。人間なんて信用しない。恋愛なんて、弱い人間が現実逃避のために見る幻覚のようなものだ。
蓮は心を完全に閉ざし、孤高の仮面をさらに分厚くしていくのだった。
季節は初夏へと移り変わり、学校は最も残酷なイベント——「期末試験」の時期を迎えていた。
「おい、聞いたか? 今回の数学、赤点続出らしいぞ……」
「やばい、親に知られたらスマホ没収確実だわ……」
クラス中が焦燥感とピリピリした空気に包まれる中、蓮だけは机に向かい、まるで機械のようにペンを走らせていた。問題用紙をめくる音が、教室に小気味よく響く。彼の頭脳は、極限のプレッシャーと睡眠不足によって研ぎ澄まされ、すべての問題を淀みなく解き進めていた。
(早く終わらせて、この息苦しい空間から逃げ出したい)
試験終了のチャイムが鳴り響くと同時に、蓮は誰よりも早く答案用紙を提出し、カバンを掴んで教室を飛び出した。
その直後、ポケットの中でスマホが激しく振動した。見なくても、誰からの連絡か分かっている。実家の母親だ。
通話ボタンを押すと、耳障りなほど甲高い声が飛び込んできた。
——『レン! テストはどうだったの? もちろん学年トップよね? あなたなら当たり前よね、だって私たちの期待を背負っているんだから! 決して気を抜くんじゃないわよ!』
「……分かっているよ。解けたから、切る」
——『ちょっと、待ちなさい! 模試の復習はもう始めたの? 時間の無駄遣いをしていないでしょうね? あなたが怠けるとね、お父様が……』
プツッ。蓮は容赦なく通話を切った。
耳の奥で、母親の責め立てるような声がいつまでも残響のようにこびりついて離れない。胸のあたりが締め付けられるように苦しい。息ができない。頭が割れそうに痛い。
ストレスと疲労が限界を超え、感情のダムが決壊しかけていた。
「……はぁ、はぁ……っくそ……!」
家に帰る気力すらなかった。彼は足取り重く、街のコンビニエンスストアに立ち寄り、冷え切った缶コーヒーを乱暴に掴むとレジでお金を払い、そのまま町外れの薄暗い坂道を登っていった。
目指すのは、街を一望できる小さな丘の上にある公園だった。
その丘には、地元でまことしやかに囁かれている古い言い伝えがあった。
——『夕暮れの黄昏時、丘の上の公園には、神様から遣わされた「黄昏の境界を守る者」がいる。その少女は、世界の境界を維持するために、人間と深く関わってはならない。もし人間が彼女と出会い、その存在を一日以上覚えていれば、世界が歪んでしまう。だから彼女に出会った人間は、翌日には彼女に関するすべての記憶を失ってしまうのだ』
子供だましのおとぎ話。大人たちは誰も信じておらず、退屈な都市伝説の一つとして片付けている。もちろん、蓮だってそんなオカルト話を本気で信じるほど子供ではなかった。
(黄昏の境界を守る者、だっけ……。馬鹿馬鹿しい)
坂道を登りきり、息を切らせながら公園の古びたベンチに腰を下ろす。
プルタブを乱暴に引き抜き、苦い液体を喉に流し込んだ。冷たさが胃の腑に染み渡るが、心の中の荒んだ澱は微動だにしない。
夕日がゆっくりと沈みかけ、空全体が血のような赤と、群青色のグラデーションに染め上げられていく。世界がまるでセピア色の古い写真のように寂寂として見える。
「……ふっ、バカバカしい。もし本当に神様がいるなら、どうして俺をこんなところに一人ぼっちで放り投げたんだ。恋愛だと? 守る者だと? そんなもの、人間の現実逃避の妄想でしかない。俺には関係ない……関わりたくもない」
自嘲気味に呟き、空を見上げたその瞬間だった。
「――ふふ、そんなに冷たい顔をしてちゃ、美味しいコーヒーも台無しだよ」
「……っ?」
突然、すぐ隣から鈴の音のように透き通った、しかしどこか現実感のない声が降ってきた。
ハッとして視線を横に向ける。
そこには、いつの間に現れたのか、見慣れないオフショルダーの淡いワンピースを纏った少女が座っていた。夕日に照り映える長い髪が風に揺れ、その瞳には、この世のものとは思えないほどの深い慈愛と、どこか切なげな光が宿っていた。
蓮は息を呑んだ。言葉が出ない。
冷徹な仮面の下で、彼の心臓が激しく、狂おしく跳ね上がった。
すべてが灰色に見えていた世界に、突如として鮮やかな色が流れ込んでくるような感覚。
——この瞬間から、彼の凍てついた運命の歯車が、音を立てて狂い始めることを、彼はまだ知らなかった。




