小さな成功、大きな一歩
龍之介さんの「機械と話すのは、案外、疲れるものです」という言葉に含まれた温かさに、張り詰めていた何かが、ぷつりと切れた。
堰を切ったように、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。彼の前で泣くなんて、みっともない。そう思うのに、涙は止まらなかった。
「ごめ……なさい……私……っ」
しゃくり上げる私の背中を、龍之介さんの大きな手が、ためらうように、そっと撫でた。その手は少し乾いていて、長い年月を生きてきた人の、静かな温かさがあった。失敗を責める声も、慰める言葉もない。ただ、彼がそこにいるという事実だけが、私の凍えた心を少しずつ溶かしていく。
しばらくして、私の嗚咽が少しだけ小さくなったのを見計らい、彼は言った。
「……少し、場所を変えようか。ここより、もう少し風通しの良いところにしよう」
彼は私の返事を待たずに立ち上がると、そっと手を差し伸べてくれた。私はおずおずと、その手を取る。彼の手に引かれるまま学習室を出て、私たちは夕暮れの光が差し込む縁側へと向かった。
ひんやりとした木の床の感触が、心地よかった。龍之介さんは、先ほど持ってきてくれたお茶を私の前に置き直してくれる。
「何が、そんなに君を苦しめているのかな?」
彼の穏やかな声に促され、私は俯いたまま、ぽつりぽつりと話し始めた。モニターに並ぶ意味不明な文字列のこと。何をどうすればいいのか、さっぱり分からないこと。
「何が書いてあるのか、分からなくて……まるで、宇宙の言葉みたいで……」
私の情けない告白に、龍之介さんは静かに頷いた。
「そうだろうね。外国語をいきなり話せと言われても、誰だって戸惑う。それと同じことだよ」
彼の声には、私を責める響きは一切ない。ただ、事実を事実として受け止めるような、静かな肯定のみ。彼は湯呑みを手に取り、遠くの庭木に目を向けながら、ゆっくりと口を開く。
「花さん、エラーメッセージというのはね、機械からの対話なんだよ」
「対話……ですか?」
「ああ。事務的だが、親切なものなんだ」
彼は私の方へ向き直り、その深い湖のような瞳で、まっすぐに私を見つめた。
「機械が君に送ってくれた、手紙のようなものっていうのかな。『あなたの書いた文章の、この部分が間違っていますよ』と、丁寧に説明してくれている。まずは、相手が送ってくれた手紙を、先入観なくじっくりと読んでみることが大切なんだよ」
手紙、という言葉。
その一言が、私の頭の中にこびりついていた「エラー=拒絶」という固定観念が、ガラガラと音を立てて壊れていく。
私はもう一度だけ、と決意して、再び学習室の椅子に座った。
モニターの赤い文字列は、相変わらずそこに存在している。けれど、今度はそれを睨みつけるのではなかった。まるで初めて見る外国の地名を読むように、辞書を片手に、そこに書かれている文を一つ、また一つと、辿っていく。
『セミコロンがないよ』
『定義されてない変数名なんだよね』
それは、機械からの、実に具体的で分かりやすい指摘だ。ただ、手紙に書かれた指示通りに、キーボードを叩く。消しては、打ち直す。その地道な作業を、何度も、何度も繰り返した。
そして、どれくらいの時間が経っただろうか。
ふと、モニターから赤い文字列が消えていることに気がついた。
代わりに表示されたのは、私が震える指で最初に入力した、感謝の気持ちを込めた、たった一行のシンプルな言葉。
『Hello, Ryunosuke-san』
その文字列が、なぜだか少し、滲んで見えた。
「……できた、できました!!」
背後で、静かに扉の開く音がした。様子を見に来てくれた龍之介さんが、モニターの画面を見て、柔らかく目を細めるのが分かった。
彼が称賛したのは、プログラムの出来栄えではなかった。
「エラーから目を逸らさず、相手の言うことを素直に聞く。そして、諦めずに何度も対話を試みる。花さん、それはプログラミングに限らず、何よりも大切な才能だと私は思うよ」
その言葉は、冷えていた指先にまで、熱を灯す。私の、諦めの悪さだけが取り柄の、この不器用なまでの愚直さを、彼は「才能」だと言ってくれたのだ。
私は、プログラミングの専門家になりたいわけじゃない。
ただ、この成功は、私の心に小さな、けれど確かな光を灯してくれた。「私でも、諦めなければ何かできるんだ」という、ささやかな自信。
龍之介さんという人の、深く温かい人間性の一端に触れられたこと。そして、彼にちょっとでも認められたという事実が、私に自信をくれる。
私はこれから、この家で、何ができるだろう。
いや、違う。
私は、この家で何をしたいのだろう。
龍之介さんの役に立ちたい。アルフレッドともっと上手に付き合えるようになりたい。そして何より、この温かい日常を、私自身の手で守れるような人になりたい。
借金のカタとして連れてこられた私だったけれど、今は違う。ここは、私が自分の意志で居たいと思える場所。
初めて、自分の意志で、未来に目を向けることができた、そんな気がした。