神の娯楽と凡人の挑戦②
龍之介さんの「プログラミングから始めてみませんか?」という言葉が、私の中にすとんと落ちた。
彼のことを知りたい。私はこくりと、深く頷いた。
「はい。頑張ります」
口から出た声は小さかったけれど、自分でも驚くほど強い決意が籠っていた。龍之介さんは嬉しそうに目を細めると、私を促して隣の部屋へと案内してくれた。
そこは、先ほどの彼の司令室のような部屋を少しだけ簡素にしたような部屋だった。私の体のサイズに合わせて調整された椅子と、真新しいキーボードが静かに私を待っている。いつの間に用意していたんだろうか。
『ハナ様の学習進捗の管理、およびエラーのデバッグサポートを担当します』
いつの間にか背後に控えていたアルフレッドが、いつも通りに話す。アルフレッドの存在が、なんだか心強く感じられた。この時の私は、まだ、その認識が甘かったことに気づいていない。
学習が始まって、わずか十分後。私は、目の前のモニターに並ぶ文字列を前に、完全に動きを止めていた。
「へんすう……かんすう……もどりち……?」
教科書に書かれた日本語のひとつひとつは理解できるのに、それらが組み合わさって出来上がった文章は、私の脳を素通りしていく。意味を持つ記号としての役割を放棄した文字列が、ただの黒い染みとなって視界を滑っていく。見様見真似でキーボードに指を置いてみるが、一行打ち込むごとに、新たな疑問符が頭の中に浮かんでくる。脳がぷすぷすと悲鳴を上げ始めている。
なんとか最初の数行を書き上げ、震える指で実行キーを押した。
画面に、鮮やかな赤い文字が躍った。
『エラーを検知。3行目、セミコロンが不足しています』
「セミコロンって何?」
私の声に、アルフレッドが即座に反応する。指摘された箇所を修正し、もう一度。また、赤い文字。
『エラー。15回目です。変数名に誤りがあります』
修正しては実行し、またエラーが出る。その繰り返し。キーボードを叩く指先の感覚が、少しずつ鈍くなっていく。
『エラー。32回目です。カッコの閉じ忘れを検知しました』
アルフレッドの報告は、どこまでも正確で、悪意のかけらもないことは分かっている。だからこそ、その無機質なカウントが私の自信を削っていく。
『励ましの言葉を検索中……「諦めたらそこで試合終了ですよ」』
「それバスケ漫画だし……ああ!もう!」
窓の外の光が橙色に変わる頃、肩はガチガチに凝り、目がチカチカして、キーボードを叩く指先もジンジンと痺れていた。些細な打ち間違いを延々と繰り返し、モニターに灯る赤い警告表示を、ただぼんやりと眺めることしかできない。
そして。
『エラー。100回目です』
アルフレッドが、静かに告げた。
『ハナ様の学習効率は、平均値を著しく下回っています。このペースでは、単純な自己紹介プログラムの完成までに、推定172時間を要します』
その無慈悲な分析が、私の内でかろうじて繋ぎ止められていた何かを、ぷつりと断ち切った。
キーボードの上に置かれた指が、動かない。
やっぱり、私には才能なんてないんだ。住む世界が違いすぎる。旦那様を知ろうだなんて大それたことだったんだ。胃のあたりがきゅうっと小さくなるのを感じ、私はエラー画面の前から動けなくなった。俯いた視線の先で、キーボードの文字が涙で滲んでいく。
その時、ふわっと、優しいお茶の香りがした。
顔を上げると、いつの間にか龍之介さんがお盆を手に、部屋の入り口に立っていた。彼は何も言わず、アルフレッドに静かな視線を送る。アルフレッドは小さく会釈するように球体を傾けると、しゅるると部屋から出ていった。
龍之介さんは私の隣に、ゆっくりと腰を下ろした。
失敗を責める声も、慰める言葉もない。ただ、彼がそこにいるという事実だけが、空間を満たしている。彼は私が格闘していたモニターのコードを、静かな眼差しでじっと見つめていた。
やがて、ぽつりと言った。
「少し、休憩しませんか」
その声は、驚くほど穏やかだった。
「機械と話すのは、案外、疲れるものです」
彼の言葉の本当の意味は分からない。けれど、その声に含まれた温かさに、私は堰を切ったように、ぼろぼろと涙をこぼしていた。