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神の娯楽と凡人の挑戦①

 あの夕食で龍之介さんに「客人」と言われて以来、私たちの間には、どこか穏やかな気まずさが流れていた。


「客人として」この家でどう過ごせば良いのか。


 結局、私は日中、広い屋敷の中を書斎スペースで本を読んで過ごすことが多くなった。それは龍之介さんが勧めてくれたもので、壁一面の本棚には古典文学から最新の科学雑誌まで、あらゆるジャンルの本が収められている。知識の宝庫、という感じだ。


 そんな日々が数日続いたある日の午後。


 ふと、屋敷の奥の方から、控えめながらもリズミカルな電子音が聞こえてくることに気がついた。今まで立ち入ったことのない廊下の、突き当たりの部屋からだ。


 何をしているのだろう。


 好奇心に引かれ、私はそっとその部屋の扉に近づき、静かにドアを開けた。


 そして、室内の光景に、私は呆然と立ち尽くした。


 一歩足を踏み入れると、ひやりとした空気が肌を撫でた。無数の電子機器の駆動音と冷却ファンの唸り、壁一面のモニターが放つ青白い光。宇宙船のコックピットのようだ。


 そして、その椅子に座っていたのは、紛れもない龍之介さんだった。


 彼はヘッドセットをつけ、メインモニターを真剣な眼差しで見つめている。


 いつも穏やかなその指が、信じられない速さでキーボードとマウスの上を舞っていた。


 モニターに映し出されていたのは、『クリムゾン・ストライク』という、今世界で最も人気のある対戦型のシューティングゲームだった。私も名前くらいは知っている。


 光の弾丸が飛び交い、カラフルな爆炎が咲き乱れる、激しい銃撃戦の真っ最中だ。彼の操るキャラクターは、まるで未来予知でもしているかのように、人間業とは思えない精密な動きで、次々と敵を撃ち抜いていく。


 サブモニターには、有名プロゲーマーらしき若者の配信画面が映し出されていた。彼は頭を抱えて絶叫している。


『なんでそこにいるんだよ! ありえない! チートだろこれ!』


 チャット欄も「神降臨」「世界王者来たぞ」「『Z』が出てるぞ」「この動き、絶対ゼウスだ…」といったコメントで、ものすごい速さで流れていく。


 壁を蹴って宙を舞い、落下しながら三人の敵の頭を正確に撃ち抜くなんて、常軌を逸している。老人のそれとは到底思えない、神がかった反射神経と操作精度。


 いや、違う。これはただ速いだけじゃない。


 彼の動きには、無駄が一切ない。まるで、無数の選択肢の中から常に最短・最善の行動を選び続けているような、一種の美しさすら感じる効率性と正確性。


「……すごい」


 思わず漏れた私の声に、龍之介さんの指がぴたりと止まった。


 画面に「YOU WIN」という大きな文字が映し出される。


 彼はゆっくりとヘッドセットを外すと、穏やかな笑みで私を振り返った。


「ああ、花さん。そこにいたのですか」


 その口調は、いつもの品格のある、優しい龍之介さんのものだ。


 今しがたまで画面の中で激しい戦いを繰り広げていた人物と、どうしても結びつかない。


「あ、あの……今のゲームは……?」


「ん? ああ、eスポーツというやつですよ。少しばかり、昔取った杵柄というやつでしてね」


「昔取った杵柄って……旦那様、eスポーツっていつ頃からあるんですか?」


 私の素朴な疑問に、龍之介さんは一瞬言葉に詰まったような表情を見せた。


「え、えーと……それは……」


 確か、eスポーツが本格的に普及したのは、ここ十数年くらいの話のはず。ということは、龍之介さんが60代後半になってから始めたということ?


「もしかして、60歳を過ぎてからeスポーツを始められたんですか?」


「……そう、ですね」


 何だか歯切れが悪い。


「Zとかゼウス、って呼ばれてましたけど……」


 私の言葉に、龍之介さんは少しだけ驚いたように目を見開き、それから悪戯っぽく笑った。


「はて、何の事やら。私はただの隠居老人ですよ」


 そう言ってごまかすけれど、その楽しそうな表現が全てを物語っていた。


 78歳の、eスポーツ世界王者。鷹司財閥総帥。


 私の旦那様は、一体どれだけの顔を持っているのだろう。


 ただ一つ確実に言えるのは、この人は私なんかとは全く違う次元に生きている、ということだった。


「旦那様、私にも……何か教えてもらえませんか?」


「何か、とは?」


「えーと……」


 私は言葉に詰まった。具体的に何がしたいのか、自分でもよく分からない。ただ、この人みたいに、何かすごいことができるようになりたい。そんな漠然とした憧れがあるだけで。


「私、旦那様のこと知りたいんです」


 その時、突然球体のアルフレッドが現れた。


『リュウノスケ様、ゲームプレイ中の心拍数が平常時の1.2倍に上昇しておりました。楽しんでおられる証拠ですね』


「アルフレッド、余計なことを……」


 龍之介さんが慌てたような声を出すが、アルフレッドは容赦なく続ける。


『ちなみに、世界ランキング1位の『Z』というプレイヤーとリュウノスケ様の動きのパターンが99.8%一致しております。偶然は確率的に0.2%です』


「……偶然だよ、偶然」


 龍之介さんの表情が、見る見るうちに困ったものになっていく。


『さらに付け加えると、『ゼウス』というハンドルネームの語源は——』


「アルフレッド!」


「ぷっ」


 私は思わず吹き出してしまった。こんなに慌てている龍之介さんを見るのは初めてで、なんだかとても可愛らしい。


 しばらくすると、アルフレッドがくるりと私の方を向いた。


『マスター、私もeスポーツへの参加を希望いたします。勝率99.7%を想定しております』


「君は人工知能だろう?」


『完璧な判断と操作により、必ず勝利を——』


 そう言って、アルフレッドは意気揚々とゲームを開始した。


 確かに最初は完璧だった。一切の無駄のない動き。絶対に負けないはずの、機械的な精密さ。


 しかし、龍之介さんと対戦が始まると……


『エラー…想定外の結果…私ガ…ナゼ負ケルノデショウカ?』


 アルフレッドの球体が小刻みに震えている。


「君の動きは完璧すぎるんだよ、アルフレッド。人間は時々、非論理的な行動を取る。それを読むには、計算だけでは足りないんだ」


『統計的ニハ私ノ方ガ上ノハズ。ナノニ』


「それを『悔しい』って言うんだよ、アルフレッド」


『悔シイ…これが悔しい、という感情ですか?』


 アルフレッドがぽつりと呟く。


『私に感情はありません……ただ、リベンジマッチを強く要求します!』


「ほら、それも感情の一種だ」


 龍之介さんが優しく笑うと、アルフレッドはますます混乱したように宙をしゅるると漂った。


 この人たちは、いつもこうなのだろうか。


 そんな素朴な疑問が、ふと頭をよぎった。次の瞬間、その不思議な日常を、もう少しだけ見ていたいと思ってしまった自分に、小さく戸惑う。


 私のそんな表情の変化に気づいたのか、龍之介さんは少し驚いたような表情を見せてから、とても優しい笑顔を浮かべた。


「花さん、まずは、プログラミングから始めてみませんか?」

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