私の居場所①
アルフレッドとの珍妙なやり取りの後、私は勧められるがままにお風呂に入った。完璧な湯加減のお風呂は、強張っていた心と体を芯から解きほぐしてくれたような気がする。
少しだけ気持ちが落ち着くと、新たな決意が湧いてきた。
そうだ、私はこの家に、借金のカタとして来たのだ。AI執事がどれだけ有能だろうと、私が何もしないでいい理由にはならない。せめて、妻として、食事の準備くらいは。
そう思い立ち、私は部屋に備え付けられていた部屋着に着替えると、台所を探して廊下を歩き始めた。
「ハナ様。夕食の準備は既に完了しております」
背後から、しゅるると滑るような音と共に、アルフレッドの声がする。いつの間にか、私の行動は完全に把握されていたらしい。
「えぇ?そうなんですか?なんか私のすること残ってないんですか?食材切るとか、料理を運ぶとか」
「統計上、料理初心者の包丁事故など発生率は37.5%です。看過できません」
「そんな!」
「万が一、ハナ様が指を切るなどの怪我を負った場合、リュウノスケ様の心労は計り知れません。リスクは未然に排除すべきです」
有無を言わせぬその口調に、私はぐっと言葉に詰まる。アルフレッドは、そんな私を意に介さず、しゅるると食堂の方へ向かっていく。
『さあ、ハナ様。食堂へどうぞ。本日のディナーは、ハナ様の栄養状態を考慮した特別メニューとなっております』
結局、私はAI執事に促されるまま、巨大な一枚板のテーブルが置かれた食堂へと案内された。既にテーブルの上には、まるで高級料亭の会席料理のような、美しい料理の数々が並べられている。
中央の席には、龍之介さんが静かに座っていた。七十八歳という年齢を感じさせない引き締まった姿勢で、間違いなく上質なセーターを自然に着こなしている。
「ああ、花さん。ちょうど良かった」
低く響く声。彼は私に気づくと、穏やかに目を細めた。
「その……食事の準備をしようと思ったんですけど」
私がもごもごと口にすると、龍之介さんは少しだけ困ったように笑った。
「気持ちはとても嬉しい。ありがとう。でも、アルフレッドに任せておけば問題ない。君は客人のようなものなのだから、ゆっくりしてくれればいいよ」
「客人……」
その言葉が、ちくりと胸に刺さった。
やはり、私は妻として見られているわけではないのだ。この家に住まわせる代わりに、借金を肩代わりする。彼にとって、私はその程度の存在でしかない。
席に着くと、目の前の料理の完璧さに、また溜息が出た。
焼き魚は、皮はパリパリなのに、身はふっくらと瑞々しい。煮物の野菜は、一つ一つが宝石のように輝き、出汁の香りがふわっと立ち上る。お米の一粒一粒までもが、完璧な水分量で炊き上げられていた。
「……美味しい」
思わず、心の声が漏れた。
「そうか、それは良かった」
龍之介さんは、嬉しそうに頷いた。落ち着いた、それでいて妙な迫力のある声で続ける。
「アルフレッドは、世界中の料理レシピを学習していてね。素材の温度管理から火加減まで、0.1秒単位で調整しているらしい」
「は、はあ……」
もはや、人間の料理人が入り込む隙は微塵もないらしい。
気まずい沈黙が、テーブルに落ちる。
何か、何か話さなければ。夫婦として、当たり障りのない会話の一つでも。
「あ、あの、旦那様は、いつもこういうお食事を?」
「ああ。もう長年、アルフレッドの健康管理に付き合わされているよ」
彼は無造作にロマンスグレーの髪に軽く手を通しながら、苦笑いを浮かべた。
「お仕事は、もう引退されて……?」
「そうだね。今は悠々自適の年金暮らし、というところかな」
穏やかな会話。けれど、そのやり取りは、どこか他人行儀だ。
彼の品格と、揺るぎない落ち着きが、私との間に見えない壁を作っているように感じる。年の差だけではない、もっと根本的な、住む世界の違いのようなもの。
私はただ、この完璧な食事を、無言で胃に詰め込むことしかできなかった。
美味しいのに味気ない。借金のカタとして、これからこの人の妻として生きていく。
その覚悟を決めていたはずなのに。
この完璧すぎる家で、完璧すぎる食事を前にして、私は自分が、この完璧な世界に紛れ込んだ場違いな存在のように感じた。まるで高級レストランに普段着で入ってしまったような、そんな居心地の悪さ。
ここに、私の居場所は、本当にあるのだろうか。
ふと、実家のことを思い出す。
食卓には、いつも母さんの、少しだけ味の濃い煮っ転がしが並んでいた。醤油が多すぎて、私がいつも「しょっぱいよ~」と文句を言ってたっけ。事業の失敗で頭を抱える父さんも、食事の時だけは「花、ちゃんと食えよ」と、私の茶碗にご飯を山盛りによそってくれた。あの不器用な優しさが、今はとてつもなく恋しい。
どうして、あんなことになってしまったのだろう。
私の胸に、苦い後悔と悲しみがこみ上げてきた。
その時だった。
龍之介さんが、すっと静かに箸を置いた。
食器に当たる小さな音さえしない、洗練されたその動きに、私は思わず顔を上げた。
彼は、食事をそこで一度中断し、改めて私をまっすぐに見つめていた。あの、全てを見通すような深い瞳で。
「……無理に、話さなくていい」
彼は少し間を置いて、穏やかに続けた。
「花さんが、どんな想いでここに来たか。私には、本当の意味では理解できないだろう」
彼は少し間を置いて、穏やかに続けた。
「……だが、ここはもう君の家だ。もっと、気楽にしていいんだよ」
その声は、驚くほど優しかった。落ち着いた、それでいて妙な迫力のある声だった。
私は、何も言えなかった。ただ、こく、と頷くのが精一杯だった。
この人は、一体どんな人なのだろう。
ただの、物静かで品格のあるおじいちゃん。
それだけではない、何かがありそう。
私にはまだ、彼のことが何も分からなかった。