若き帝王と老いた象
「ハナ様、お美しいです」
アルフレッドの球体が、私の前でゆっくりと一回転する。いつもの機械的な声音にも、どこか感動めいたものが混じっているような気がする。気のせいかな?
「ドレスのカラーはハナ様の肌色に合わせ、髪型とのバランスも黄金比に基づいて計算されております。美的評価値は95.4ポイント。過去のデータと照合した結果、間違いなく『美人さん』の範疇です」
「美人さんって……」
思わず苦笑いが漏れる。このAI執事の褒め方は、やっぱりどこかズレている。
でも、確かに今夜の私は、いつもとは違っていた。深い青のイブニングドレスは、龍之介さんが用意してくださったもので、鏡に映る自分が別人のように見える。
「花さん」
振り返ると、龍之介さんが廊下の向こうから歩いてくる。いつものように品格のある佇まいだけれど、今夜は正装姿がより一層その威厳を際立たせていた。
「とても、素敵です」
彼はそう言って、穏やかに微笑んだ。アルフレッドのように数値で表現されるよりも、その一言の方がなぜか心に深く響いた。
「ありがとうございます」
頬が熱くなるのを感じながら、私は小さく頷いた。
『リュウノスケ様、お二人の美的評価値は97.8ポイント。パーティー会場で注目を集めること間違いありません』
「アルフレッド、そういうのはもういいから、車を頼む」
龍之介さんが少し照れたように手を振ると、アルフレッドはしゅるると玄関の方へ向かっていく。
「行きましょうか、花さん」
龍之介さんが差し出した腕に、私はそっと手を添えた。
***
ホークアイ財団の創設五十周年記念パーティー。
会場のざわめきが、まるで遠い世界のことのように聞こえた。きらびやかなシャンデリアの光が、人々の笑い声やグラスの触れ合う音を反射しては、曖昧な輪郭となって私の視界に映る。
龍之介さんのエスコートで会場に入ると、確かにアルフレッドの予測通り、多くの視線が私たちに注がれ、龍之介さんの横で、私はただ小さく息を潜めていた。
「花さん、少し疲れました?」
私の顔色を察したのだろう、龍之介さんが穏やかな声で尋ねる。
「いえ、大丈夫です。でも少し、人が多すぎて……」
「そうですか。少しあちらで休みましょう」
そう言って、龍之介さんが私を促そうとした、その時だった。
「あぁ、噂をすれば。旧時代の遺物のお出ましだ」
声が聞こえた方へ顔を向けると、黒いタキシードを完璧に着こなした若い男性が、挑戦的な笑みを浮かべて立っていた。年齢は二十代後半だろうか。切れ長の目が鋭く光り、彼が放つのは、この場に似つかわしくない、むき出しの敵意だった。
「『A.N. Corporation』のCEO、成宮彰です」
男性は自己紹介すると、龍之介さんに向かって一歩踏み出した。
「龍之介さん……この方って」
「…………」
龍之介さんは、私の問いには答えず、ただ静かにその男性を見つめていた。その瞳には、初めて見る、硬く冷たい光が宿っていた。
成宮は、龍之介さんの視線に臆することなく、さらに一歩踏み出す。
「随分と若いお嫁さんを連れてきましたね、鷹司先生?まさか、過去の栄光だけでは飽き足らず、若い女を侍らせて悦に浸ろうと?」
嘲るようなその口調に、私の体が強張った。
「老いぼれが過去の遺物に固執する様は滑稽だな。あなたがかつて作り上げたシステムも、今や老朽化したガラクタも同然。まもなく、私の手によって崩壊するでしょう」
成宮の言葉が、パーティー会場の空気に毒を撒き散らす。周囲のざわめきが、ひそひそとした囁き声に変わっていくのが分かった。好奇心と憐れみ、そして侮蔑の視線が、龍之介さんに向けられる。
「やめてください!」
気が付くと、私は前に出ていた。
「龍之介さんが作ったシステムが、老朽化したガラクタなんかじゃありません! 今でもたくさんの人を!この国を支えているんです!」
私の声は震えていたけれど、その言葉だけははっきりと口にした。
「はっ!無知なガキがしゃしゃり出てくるな!」
成宮は、私を一瞥するなり鼻で笑った。
「ガキに何が分かる。お前は、やつの金に釣られた、ただの小鳥だろう?」
その言葉が、私の心臓を氷の刃で貫くようだった。
私がここにいるのは、借金のカタ、そして勘違いによるものだったと知っているのだろう。反論できる言葉を持たず、私は唇を噛みしめることしかできなかった。
その時だった。
私の隣で、今まで黙っていた龍之介さんの雰囲気が、一変した。
怒鳴るわけでもなく、怒りの感情を露わにするわけでもない。ただ、彼から感情というものが一切消え去った。
空気の温度が下がったような気がした。シャンデリアの光さえも、急に冷たい青白い色に変わったように見える。龍之介さんの瞳は、見る者の魂を凍らせるような、研ぎ澄まされた刃を宿していた。
成宮も、その静かな変化に気づいたのだろう。一瞬だけ、その顔から余裕の笑みが消え、明らかに警戒するような表情になった。喉仏がごくり、と動くのが見えた。
龍之介さんは、何も言わなかった。ただ、その氷のような視線で、成宮を見つめ続けた。
その沈黙が、どんな言葉よりも重く、恐ろしかった。
「……明日、あなたの過去の遺物が崩れ去る様を、その目で見てるがいいさ」
成宮は、明らかに動揺した声でそう言い放つと、踵を返し、人混みの中へと消えていった。逃げるかのように。
彼の背中が見えなくなっても、龍之介さんはただ、静かにそこに立ち尽くしていた。
「龍之介さん……」
私は、彼の顔をそっと見上げた。そこには、いつもの穏やかな笑顔を浮かべた龍之介さんがいた。
「帰りましょう、花さん」
やがて、龍之介さんが静かに言った。私は頷いて、彼の腕にそっと手を添えた。
会場を出る時、私たちを見送る人々の視線が、先ほどまでとは明らかに違っていることに気づいた。
好奇心や侮蔑ではない。
畏怖だ。
龍之介さんという人間の、真の姿を垣間見てしまった者たちの、本能的な恐れ。
私もまた、今夜初めて知ったのだ。
この穏やかで優しい老紳士の内側に、どれほど恐ろしい何かが眠っているのかを。
そして、その恐ろしさが、私を守るためだということも。