04 日常
「お帰りなさいませ。レティシア様」
もう日が暮れて夜と言える時間になった頃、オブライエン侯爵邸まで辿り着き馬車の扉を開ければ、そこにはお父様とお母様が生きていた以前よりも、我が家に長く仕える中年の執事エーリクが待っていた。
……エーリクは、私の数少ない味方だ。けれど、彼はあくまで我が家に仕える使用人で、出来ることには限りがあった。
「ええ……叔父様たちは?」
私は彼の手を借りて馬車から降り、窮屈な手袋を外し始めた。お行儀が悪いけれど、仕方ない。涙で濡れてしまって、乾くと小さくなってしまった。
「皆様、食堂にいらっしゃいます。レティシアお嬢様も、共に食事を?」
「……いえ。今日は疲れたから、後で軽食を部屋に運ばせて……私は着替えてすぐに眠ることにするわ」
「かしこまりました。では、そのように」
エーリクは胸に手を当てて頷くと、私の指示を伝えるために足早に去った。
「おや……レティシア。帰ったのかい?」
そして、二階の自室へと向かうため階段を上がりかけた時に名前を呼ばれたので、息をついて私は振り返った。
食堂へ行かない選択肢はあるけれど、こうして見つかってしまっては、無視をするわけにもいかない。
「デボラ叔母様。ただいま戻りました」
そこには私の叔父の妻、デボラ・オブライエン。黒髪黒目で赤いドレスを纏い、妖艶な空気を放つ女性。
……本来なら、この邸に立ち入ることもなかったであろう人。
「レティシア。そろそろ私を、お母様と呼んでくれないかね。貴女がドナルドと結婚してくれたら、それが一番良いんだけどね」
ねっとりとした猫撫で声を聞いてから、不快な気持ちで自然と眉が寄ってしまった。
現在オブライエン侯爵の代理人であるジョス叔父様は、私生児で腹違いとは言え、元侯爵の亡くなったお父様の弟ではある。
けれど、こちらのデボラ叔母様に関しては、叔父様の妻というだけで、私と全く血の繋がりはない。
ジョス叔父様と結婚して傍流貴族位を得た平民出身だから、礼儀作法など言葉遣いがなっていないことは仕方ない。
……そうはわかりつつも、この人の存在は、私にとってどうしても受け入れがたいのだ。
「……申し訳ございませんが、私の結婚相手については、私に選ぶ権利があるとお聞きしています。それは、ジョス叔父様も認めておられることと思いますが」
「だから、従兄弟のドナルドを選べば良いんだよ! あの子だって、貴族の血が流れていることに間違いないだろう! 何度、これを言わせるつもりだい!」
ご機嫌をとるように笑顔だった顔が醜く歪み、突然甲高い声で怒鳴ったので、私を出迎えるために近くに居た使用人たちは一斉に顔を伏せた。
私は無言のまま、豹変した彼女を冷静に見ていた。
このように怒鳴られることはこれまでに何度も何度もあったことなので、特に取り乱したりもしない。
両親が亡くなってしまい、唯一正当な継承権を持つ私の後見人として、数少ない近い肉親である叔父夫婦はオブライエン侯爵家へとやって来た。
その時、幼かった私には、そんな彼らを追い出すことが出来なかったし、彼が祖父の息子であることは間違いなので、親戚たちも口を出せなかった。
ジョス叔父様はお祖父様の私生児で、侯爵位の継承権は持たない。
正当継承件を持つ直系の私が居なくなってしまえば、オブライエン侯爵家は断絶する。国王陛下より与えられた爵位の条件が記された勅許状には、そう書かれているからだ。
ついこの前に社交界デビューをした私は、貴族社会で成人として認められた。あとは相応しい身分の結婚相手さえ見つかれば、叔父夫婦をこの邸から追い出すつもりだった。
そうよ……そのつもりだった、けれど。
「あの……叔母様。このお話はまた次の機会にさせてください。私は今日は疲れているので……」
それは嘘ではない。今日は本当に、色々なことがありすぎた。心の許容量一杯だった私は、小さな声で挨拶をしてから階段を上がりかけた。
「……ふん。うちのドナルドと、結婚するしかないのにさ」
吐き捨てられた言葉に私は何も言わずに、足を動かして階段を上った。
……別に驚くこともない。これが私の日常。
未来に絶望しないためには、彼らの言葉に無闇に心を動かさないようにするしかない。
社交界デビューする年齢を迎え王家への拝謁を済ませ、貴族社会での成人として認められた私は、法定相続人としての条件をようやく満たすことが出来た。
後は結婚相手さえ決まれば、終わりのない悪夢のようなこの生活から……抜け出すことが出来るのに。