19 予感
そして、ゴールデン王国の高位貴族イーサンを後見人とすることの出来た私は、ようやく安心出来る生活へと戻った。
オブライエン侯爵家については、法定相続人である私が、執事エーリクを代理人とすることにした。これまでも実務については彼が担当してくれていたので、当分は何の問題も起こらないだろう。
むしろ、叔父たちに邪魔な余計な口出しをされず、のびのびと職務が遂行出来ると喜んでいた。
エーリクは、忠実な執事だ。そこまでしてくれることについて、何故かと聞けば、私の亡き父に命を救われたらしい。
叔父たちのように誰かの尊厳を踏みにじっても特段何も気にせず生きていける人たちもいれば、ただ一度救われたことを覚えていて、その後の多くの時間を捧げてくれるエーリクのような人も居る。
どちらかになりたいかと言われれば、私は考える時間は要らなかった。
……イーサン。彼が見付けてくれて居なければ、私は不幸のままで、一生を過ごして居たことになる。
何日か前には考えられなかったくらい、私は夢のような生活を送っていた。緊張感のある抑圧されていた日々が終わりを告げて、のびのびと息をすることが出来る。
……ああ。ドナルドから聞いた話によると、私はイーサンに出会わなければ、きっとあの生活から抜け出せなかったのだ。
たとえ、オルランド様がどうしてもと望んだとしても、王族に嫁ぐ娘が純潔でなくて許されるはずもないのだから。
夜毎、私の元に来てくれていたイーサンが居てくれて、私は救われた。
◇◆◇
就寝前の準備を済ませた私は、いつものようにバルコニーから現れるイーサンを待っていた。
もうオブライエン侯爵邸の正面入り口から堂々と現れても良さそうなものだけれど、気楽な冒険者生活を好む彼は、毎晩の訪問が仰々しくなるのは嫌だと言っていたので、私もバルコニーからで良いと頷いた。
冒険者として日々を過ごしていることから分かるとおり、イーサンは自分が高位貴族であることを、あまり好んで居ないように思えた。
私はイーサンを待つことには慣れていたし、待つのも楽しいと言えるくらいに、彼のことがもう好きになっていた。
けれど、ある日……いつも来る時間を大幅に過ぎても、彼は現れない。
バルコニーに続く扉を開けても、そこには光が少ない静かな夜があるだけで、人の気配などはなかった。
どうしたんだろう……いつまで経っても、イーサンは現れない。それに、何かの理由でイーサンが来られなくても、その他の二人がやって来るはずなのに。
おかしい……。
いよいよ、真夜中と言える時間になって、私はネグリジェを脱ぎ、動きやすい服へと手早く着替えることにした。
……何故かしら。不穏な胸騒ぎがやまない。
こんなことは、今までになかったのに。
理由のない焦燥感に追われて着替えを済ませた私が階段を降りていると、そこにはそろそろ自室に戻ろうとしていたのか、疲労を隠さずネクタイを緩めていた執事エーリクが私を見付けた。
「レティシアお嬢様! どうかなさったのですか? ……それに、そのお姿は?」
私がネグリジェでもなく、いつも着用するようなドレスでもないと気が付いたのか、エーリクは眼鏡の奥の目を見開いていた。
「エーリク! あの、イーサンに会いに行きたいの。なんだか、胸騒ぎがして……」
「……あ。そういうことでございましたか。かしこまりました。すぐに、馬車をご準備します」
エーリクは私がただ夜に、恋仲の彼と会いたくなったのだと誤解してか顔を少し赤くしていたけれど、そんな詳しい事情なんて説明している時間はなかった。
馬車に乗り込んで、彼らの滞在している『レンガ亭』へと急ぐと、宿の主人に聞けば三人はまだ帰って来ていないらしい。
そろそろ『ヘイスターの地下迷宮』の制覇も近いと聞いていたから、まだ三人は難しいフロアを攻略中なのかもしれないとも考えられる。
ただ単に、私が心配し過ぎなのかもしれない。
……けれど、どうしてなのだろう。この、良くわからない不安は。
宿屋に居ないと聞いて、邸へ帰るべきかと考えた。
危険な仕事を持つ彼らを、あまりにも、心配し過ぎていたのかもしれないと。
私はこの胸騒ぎをどうしても抑え切れなくて、ヘイスターの地下迷宮の入り口へと向かうことにした。
そこは世界から集まる冒険者向けに観光地化されていて、とてもとても有名な場所で、こんなにも夜遅いというのに、煌々とした照明が照らされてとても明るかった。
複数ある受付は時間的に、たった2つしか稼働していなかった。
「あのっ……Sランクの冒険者で、ヴァレリオとジョセフィン、そして、イーサンという三人は、まだ帰って来ていないですか?」
ダンジョンの入り口では、出入りに冒険者証の提示が求められる。だから、彼らが入って出ていったかどうかは、受付が知っているらしい。
「あー……あの、有名な三人ですね。実は、その……」
頭に手を当てて困った表情で男性は言いにくそうに言い、私は胸を押さえた。ああ……嘘でしょう。
「私は関係者なんです! 教えてください! ……何かあったんですか?」
本当は聞きたくない。けれど、聞かなければ前には進めない。
「実は、大怪我をした一人は助け出されたんですが、あとの二人は行方不明らしいです」
「そんな……っ!」
悪い予感が当たってしまい、口を両手で押さえた私は、その場でふらりと倒れそうになった。
……いいえ。怪我をした一人は、街へと戻って来ている。
そうしたら、私に触れて、『ロード』を使えば良い。
昨夜へと、戻れるはずよ……そのために、彼ら三人は最上位にあるという、あの時魔法を使ったのだから。
「……あのっ! 怪我をした人は、何処にいるんですか!? 教えてください!」
私は受付の人に詰め寄り、彼は驚いた様子で、近くにある白い建物を指さした。
「あっ……あそこです! 怪我をした冒険者は、皆あの場所に運び込まれますので!」
受付の男性の言葉を聞いて、私は何も考えずに走り出した。背後から御者の制止の声が聞こえたけれど、多くの人の中をすり抜けて白い建物へと向かった。
私はスカートの裾を掴んで、懸命に走った。怪我をしていると言っていたけれど……怪我はどの程度なの?
嫌……死なないで。お願いだから。
……こんなことを言いたくはないけれど、息のあるうちに……ううん。言葉が口に出来るまで、私は急がないと……昨夜へと、戻れるんだから。
運良く戻って来られたのは、三人の内の誰なんだろう……大怪我をしていたと聞いたけれど、後の二人は何処に行ったの?
出入り口の受付がああ言うならば、ダンジョンにまだ残されたままだということよね。
嫌な想像が頭を駆け巡ることを、止められない。あまりにも、今の状況が悪すぎるもの。
私が目指す白い建物の近く、数人の男性が何かを話し合っているように見えた。
……それは、ただの勘だった。
私は近くに居る物陰から彼らを窺い、怪しげな相談をする数人を見て居た。なんだか、見て居るだけで眉を顰めるような、嫌な予感で……そう。本当に、嫌な予感だった。
だって、Sランクの冒険者たちが、いきなりダンジョンで三人とも帰還不能になるなんて、やっぱりおかしい。何かの不意な状況に陥っても、三人同時に帰れないなんて……これまでに数々のダンジョンを切り抜け、経験豊富な彼らが、そんなミスを犯すだろうか。
それに、建物の前のあの人たちは一体、誰なの……?
私はその時、邸まで戻って、オブライエン侯爵家の護衛騎士たちを伴って出直すべきかもと思った。
けれど、それはそれで大騒ぎになりそうで……大怪我をして帰還したという三人の内の一人に会うまでに、時間が掛かってしまうかもしれない。
もしかしたら、一刻を争うかもしれない。けれど、正面からはあの建物に入れそうにない。
私は……どうしたら。




