17 安心
涙に滲んだ視界の中に、バルコニーに続く扉が見えていた。
たとえ、それが私に会いに来るためではないとわかっていても、不思議な緑色の目を持つイーサンが来てくれるようになって嬉しかった。
今夜、もし彼が来てくれても……私はきっと会えないと思う。
ドナルドが手首を掴んで乱暴に引っ張っている間も、私はぼんやりとあの扉を見て居た。
「ふん。騒がないようになって、面白くない……父上も母上も、お前が社交界デビューして、求婚者を募るようになったら、こうすることに決めていたんだ……人の心を折る一番良い方法は、希望を見せてそれを打ち砕くことだ。俺たちに、もう二度と逆らえなくしてやる」
……そうなのか……私が、誰かと出会っても、結果はこうなっていたのか。
それでは、私の考えていたこと、すべては何もかも無駄だったのかもしれない。
私をオブライエン侯爵家の財産を手に入れる方法としか思わない、叔父たちから逃げられるかもしれないなんて、そんな儚い幻想は……。
何もかもすべて諦めかけた、その時に……扉は開いた。
イーサンだ。
走って来ていたのか、彼は息を荒げていた。そして、私の手を掴んで引き摺るドナルドに気が付いて、目を大きく見開いた。
まるで、時がそこだけゆっくりと流れているかのようだった。私は目に映るものを、信じられていない。
「……は? 誰だ。お前は! 不法侵入だぞ!」
イーサンの存在に気が付いた半裸のドナルドが、近付いて来る彼へと怒鳴った。
「殺してやる」
そう呟いたイーサンは迷うことなく、ドナルドを殴った。そして、床の倒れた彼の身体の動きを片腕で封じ、何度も殴りつけていた。
私は目の前の光景が、本当に信じられなかった。
イーサンが、助けに来てくれた。そして、床に倒れているドナルドは、私をもう傷つけることは出来ない。
そして、あまりに信じがたい展開が起こりぼんやりとしていたけれど、私ははっとしてこのままではイーサンが何度も殴りつけ倒れたまま、言葉も発さなくなったドナルドを殺してしまうのかもしれないと思った。
ドナルドは傍流だとしても、貴族なのだ。
貴族を殺したとなれば、異国の冒険者である彼は、理不尽な目に遭ってしまうかもしれない。
「イーサン! ……待って」
私が彼の背中に抱きついたら、ようやくイーサンは我に返ったようにして動きを止めた。
「あ。レティシア……大丈夫ですか。すみません。どうしても、許せなかった……それに、この傷は」
私へと向き直ったイーサンは、頬の殴られた傷を見て悲しそうな表情になった。そっと頬に手を当てると彼の緑色の目は、不思議と輝いた。
精霊が棲むという緑色の目は内から、じんわりと光り綺麗だった。おそらくは、森の精霊の力を借りて、回復魔法を使っているのだろう。
「あ……イーサン。貴方の目、綺麗」
本当に、綺麗だった。
「いや、その……いいえ。お褒めいただき、ありがとうございます。どうですか? まだ、痛みます?」
イーサンはこんな状況で何を……と、言いたかったのだと思うけれど、私の頬に軽く手を当てて微笑んだ。
「凄いわ。痛みがなくなった……ありがとう。イーサン」
私は微笑んでそう言い無言のまま顔を歪めたイーサンに、強い力で抱き寄せられた。
「すみません。遅くなって……けど、良かった」
イーサンの声は、震えていた。おそらくは、間に合って良かったと、言いたかったのだと思う。
私がドナルドの餌食になる前に、間に合って……良かったのだと。
……私も彼の大きな背中に、手を回した。そうして、ようやく心から安心出来た。
助かった……良かった。もう、ドナルドは私に、手出し出来ない。
「ありがとう。私は大丈夫よ。貴方が助けてくれたから」
イーサンはより力を加えて抱きしめたので、私は息が出来なくなって、何度か彼の背中を叩いた。
「すみません! ああ。本当に、良かった。今日は、俺たちは偶然早く帰って、ヴァレリオからレティシア様の手紙のことを言われたんです。夕食前に、失礼かと思ったんですが……色々と、話したくて」
強すぎたと気が付いたのかパッと離してくれたイーサンは、私を連れたまま近くにあったベッドへと腰掛けることにした。
床には意識を失って、ぐったりとした半裸のドナルドが転がっている……本当に、異様な光景だった。
「まあ、そうだったのね。そうなの。イーサン……あの、私。手紙にはあんなことを書いたけれど、こういう事になって……私……どうしても、貴方以外に触れられたくないと思ったの」
私は彼の緑の目を、見つめて言った。それが、本当の気持ちだった。追い詰められて、もう逃げられないとまで思った時、一番に願ったのは彼との時間だった。
「はい。俺も……今日ヴァレリオから手紙の内容を聞いて、格好を付けてないで、早く色々と話せば良かったと思いました」
「え……?」
私はその時、イーサンが何を言わんとしているのかわからずに首を傾げた。
「すみません。俺はゴールセン王国で仕えている騎士ではあるんですが、実は貴族なんです。アイズナーは母の家名で、本当の名前はイーサン・ランチェスター。父はヘイスター王国とも国境のある領地を持つ辺境伯で、いずれは、俺がランチェスター辺境伯となります」
「イーサンは、ゴールデン王国の……辺境伯の跡取り、なの?」
辺境伯は危険な地域を任され、特別に強い武力を持つことも許されている。領地には自治権なども持つ、貴族の序列の中でも大きな権力を持つ爵位だ。
ゴールデン王国は大国で辺境伯ということであれば、イーサンの家はその中でもかなりの地位を持っていることになる。
……ランチェスター辺境伯という名前は、私も確かに聞いたことがある。広く国境を守り、国王にも信頼の厚い辺境伯なのだと。
そういえば、イーサンは王に仕える聖騎士だけど、王に褒められて自由を許されていると言っていた。おそらくは、彼の持つ身分もそれが許されている理由のひとつなのかもしれない。
「はい。そうです。ですが、そういった役割で、レティシア様に好きと言って貰いたい訳ではないと、俺の中の良くわからない気持ちが邪魔をして……もっと、早くに言えば良かったです。俺は君と結婚出来る程度の身分を持っていて、守ることが出来るんだと」
「イーサン……」
そうなんだ……いいえ。彼は好意をことある毎に示してくれようとしていたけれど、私が避けていた。決定的な言葉を伝えることを、避けていたのだ。
「ゴールデンでは政略的に他国の令嬢と結婚することは、ままありますし、実はヘイスター国王とは……話が既に付いているんです」
「国王陛下と……? そうなの?」
「ええ。ご自身の息子も執心らしい貴族令嬢なのでと、渋っていらっしゃいましたが……そこは、公平な状態での判断をということで……レティシア様にここで頷いてもらえれば、俺が貴女の後見人となりすべて解決出来ます」
「イーサン」
私は涙をこぼしてしまった。つい先ほどとは、正反対の理由で。
「レティシア……君と出会ってからごく短い間でしたが、恋に落ちた哀れな男をお救い願えますか」
「イーサン。イーサン。ありがとう」
感極まった私は、目の前に居る彼に抱きついた。
イーサンは他国の、高位貴族だった。そうなれば、私の法定相続人としての伴侶に申し分なく、それに国王陛下からのお墨付きありとあらば、反対出来る者も居ないだろう。
「いいえ。以前から話そう話そうと思って、完全に好意が向くまではと、黙っていた俺が悪かったんです。本当に後悔しました」
そう言って、床に倒れているドナルドに視線を向けたので、私は彼の目を見て尋ねた。
「……イーサン。あの、叔父たちの家族だけど」
彼らをこの邸から追い出すこと、それをしたかったのだけど、ドナルドが私を襲おうとして……また、話が変わってしまった。
「大丈夫です。レティシア。俺にすべて、任せてください。何もかも、すべて上手くいきます……本音を言えば、ここで殺したいくらいなんですが、それは……レティシアもこの部屋で眠れなくなるかもしれないんで」
「イーサン」
私は彼と抱き合って、ようやく……両親が亡くなってから、ずっと長い間不安に震えていた心が、満たされるような気がしていた。