16 名前
私は部屋の中に逃げ込んで扉に鍵を掛けたけれど、すぐにドナルドは来てしまうだろう。
何もかもがもう……すべては、時間の問題だった。
すぐには追い掛けずゆっくりと近付いて来る余裕を見れば、私の部屋の鍵だって既に手に入れているはずだわ。
ああ……とんでもないことに、なってしまった。それに、自分のことがとても情けなかった。やるべきことに背を向けて、変に感傷的になって、これまでの自分の頑張りを全て無駄にしてしまう。
どうにか彼の侵入を防ぎたい私は扉の前に、自分の動かせそうな机を置いた。けれど、こんなのただの気休めでしかない。
もうすぐ、ここにドナルドはやって来るだろう。そして、私を……。
ああ……イーサン。
自分勝手に切り捨てなければと思っていた、あの彼のことを思った。こんな風に都合の良い時だけ、私を助けて欲しいなんて……そんなこと。
呆気なく鍵がかかっていたはずの扉は開き、机が倒れる大きな音がした。
私の抵抗なんて、こんなものだ。それに、もう逃げ道はない。ドナルドは私が逃げられないから、余裕なのだもの。
室内へと足を進めたドナルドは冷ややかな眼差しで、私を見つめた。追い詰めた獲物の価値を推し量るような、嫌な目だった。
「……レティシア。お前は本当に、馬鹿な女だな。両親が亡くなり唯一の継承権を持っているとはいえ、自分が非常に弱い立場にあることは知っていただろうに。俺たちからどうにかして逃げられるとでも思っていたのか」
私の思惑なんて、何もかもすべて無駄だとするような、嘲るような眼差し。
「私に近づかないで……」
毅然としていなくてはいけないと思ったけれど、声が震えてしまった。
ああ……お父様、お母様……エーリク。
……イーサン。
どうか……どうか、助けて欲しい。けれど、イーサンがヴァレリオの言いつけに逆らって、もし来るとしても、数時間は後になるだろう。
私はその間に、誰にも言えないような目に遭ってしまうのだ。
「弱い立場に居る女が……俺の結婚は嫌だとのらりくらりと断り、いきがりやがって。オルランド様がいくらお前を気に入ろうと、処女ではない女が王族に嫁げるはずもない。お前はもう……終わりだ。レティシア」
ドナルドの言葉を聞いて、目の前が真っ暗になりそうだった。いいえ。もうすぐ、私が叔父家族から逃れれるかもしれない……そんな微かな希望は、ついには断たれてしまう。
「……っ……」
ここでドナルドに犯されれば、私はもう……彼以外には嫁げなくなってしまう。
時間を巻き戻したい……いいえ。あの不思議な時魔法を使って時間を巻き戻したところで、この人に無惨に犯されたという記憶は残ってしまう。
それに、彼ら三人にどう説明すれば良いかわからない。『セーブポイント』の時魔法は、私のためのものではないのだから。
イーサンに助けを求めても、彼に負担が掛かる。叔父たち家族を追い出すには、確固たる理由と大きな権力が必要なのだ。
「ふん。泣いているのか。何を泣くことがある。俺と結婚して、オブライエン侯爵家は再興だ。お前は妻として、俺を支えれば良い」
ドナルドは私へゆっくりと近付きながら、そう言った。ジャケットの釦を外して、服を脱ごうとしている。
これからここで、何行われるかを考えれば、どうしても涙が止まらない。
「……イーサン」
イーサンに会いたい。
助けに来て欲しい。私を……私をここから、連れて出して。悪夢のように思えるこの生活から、どうか解き放って。
本当はオブライエン侯爵家なんて、捨ててしまいたかった。彼と共に行けるならと、心の奥ではそう思った。けれど、ヘイスター王国の貴族として生まれた矜持が、それを許さなかった。
こんなことになってしまうのなら、彼に好きと伝えれば良かった。ほんの少しの間だとしても、一緒に居れば良かった。
……たとえ、すぐに離れることになってしまっても。
「は? 誰だ。その男は。この前に送って来たという男か? ははは。傷物になったお前を知れば、すぐに居なくなる。わかるだろう? お前の価値はその程度しかないんだよ。レティシア。哀れな女だ。何かを期待しても、すぐに無駄に終わる。俺たちから逃げられるはずがないだろう?」
「イーサン……! イーサン。助けて! 助けて……!」
私はどうしても我慢出来なくなって、彼の名前を何度も呼んだ。
それを聞いたドナルドは顔を歪めて、私の頬を思い切り打った。大きな衝撃が走って一瞬、頭が真っ白になった。
強い力で身体を飛ばされたと気がつき、私は床に横たわっていた。手を当てた頬には痛みが走り、じんじんとした熱を帯びていた。
……その視界には、バルコニーに続く扉が見えた。
ここ最近はあの扉を見つめて、イーサンのことをいつも待って居た。毎夜、私の元へと彼はやって来る。役割を果たすために。
「イーサン……」
助けて……私は自分勝手で、考えが甘くて、これまでにいつも誰かに助けてもらえていたから、きっとこれからもそうだと思って……私をすぐに喰らうことの出来る野獣と、共に暮らしていたのに。
「やだ……イーサン」
涙がこぼれた。あの人以外に、触れられたくない。
自分から『来て欲しくない』と手紙に書いたのに、そう思ってしまった。自分勝手だと思って、より涙が流れてしまった。
大きな足音をさせて近付いたドナルドが、倒れた私の手首を乱暴に掴んだ。けれど、彼のことを見たくなかった。
これから自分のことを陵辱する男の人の姿なんて、見たくなかった。