10 恩恵
カタンとバルコニーから音がして、反射的にパッとそちらの方向を見たけれど、しんと静まり返り何かが風で動いただけのようだった。
今夜もここへと、やって来るはずの……イーサンでは、なかった。
そう思ってガッカリしてしまっている自分に気が付き、はあと大きくため息をついた。
イーサンは、素敵な男性だ。彼は聖騎士で精悍で凜々しく整った容姿を持っているし、誠実で泣いている私を放っておけないほどに心優しい人だ。
これで、心惹かれるなと言う方が難しい。
……けれど、私は彼とは結婚することは出来ない。これは、決定事項だった。
道楽で冒険者をしている彼が、どこかの国に仕える優秀な騎士だとしても、ヘイスター王国でオブライエン侯爵家を継いでくれる男性でなくてはいけないから、恋に落ちても結婚は出来ないのだからどうしようもない。
私自身がそこをわきまえていたなら、素敵な男性に憧れているだけで終われるはずよ。きっと。
必要以上に意識することは、避けなければ。
「……それにしても、遅いわ。何かあったのかしら」
壁掛け時計の針が差す数字を見て、まだここに来ない彼を不思議に思った。
就寝前の私に気を使ってか、イーサンはこれまで、あまり遅くならない時間に来てくれていた。
私たちの住んでいる王都の地下にある『ヘイスターの地下迷宮』は、どうやら彼らの話を聞くところによると、最下層50階までの階層があり1階1階攻略しては下の階層へ下がっていくという手順らしい。
だから、彼ら三人はそろそろ帰ろうかという時間になると、適当なところで切り上げて帰って来るらしい。
何故、冒険者たちが『ヘイスターの地下迷宮』に集まるかというと、初心者は比較的浅い場所で経験値を積めるし、中級者も自分たちのレベルに合った階層で、新しく組んだパーティのチームワークの確認などをしたりするらしい。
もちろん、イーサンたち三人が受けるSSランク昇級試験にも使用されるくらい強い魔獣も棲んでいるけれど、下の階層まで降りなければ出会うことがない。
つまり、強くなる鍛錬に丁度良く、かつ各階にあるワープゾーンに入れば、すぐに王都の街へと転送されるのだった。
そして、どんな構造でそうなっているのかわからないけれど、攻略した階については、いつでもワープゾーンを使用して行くことが出来るらしい。
私は行くこともないし必要のないことだったから、全く内部の様子などを知らなかった。
けれど、こんなにも便利に設備の整ったダンジョンならば、世界中から冒険者が集まって来るというのも頷ける。
だから、ヘイスター王国王都には冒険者の姿をよく見かけたわけだった。
Sランク保持冒険者であるイーサンたちパーティは、気ままにクエストを受注してこなしていて『ヘイスターの地下迷宮』には、これまで来たことがなかったらしい。
だから、彼ら三人がとても強いとは言っても、1階から順にクリアをして階層を降りて行く必要があるそうだ。
とても時間が掛かるから、SSランク昇級試験をこれまでは避けていたのだけど、せっかくならば昇級したいと特別に時間を取ってからヘイスター王国へとやって来たらしい。
そんな訳で、彼ら三人はまだ余裕あるダンジョンを攻略をしているし、夜は私に会う予定もあるから帰って来ているという訳だった。
……けれど、こういった彼らの詳しい事情を私が聞いた時に思ったのは、まだ『セーブポイント』を使用しないといけないくらいに、危険な場所には行かないのではないかということだ。
つまりは、まだイーサンは私の所に来る必要はないのではないかと……もしかしたら。
私は頭に浮かんだ浮かれた幻想を振り払うように、頭を横に振った。いけないいけない。何を考えているのかしら。
イーサンは『あの時、何故私が泣いていたか』を知りたがっていたし……彼は優しいから気になったのだわ。
「大丈夫かしら」
他に誰も居ない部屋の中で、私はぽつりと一言呟いた。
カーテンの隙間から外を覗けば真っ暗で雨が降りそうな空模様で、もしかしたら、イーサンがこちらに向かっている間に、降られてしまうかもしれない。
そして、雨音がし始めたと思ってから、雨足が高まるまでそれほど間はなかった。
そんな中でバルコニーからガタガタと音がしたので、私は慌ててバルコニーへと続く扉へと駆け寄った。
「あ……ヴァレリオ? なの?」
そこに居たのは、黒いローブもびしょ濡れになってしまっているヴァレリオだった。しかも、彼はとても真剣な表情をしていた。
イーサンに何かあったのかもしれないと、彼を見て悟った。もしかしたら、ここに来られないような、何かがあったのではないかと。
心臓はバクバクと高鳴り、身体から変な汗もじんわりと滲み出て来たような気がした。
……怖い。
「レティシア様。今日は、セーブではなくて……ロードしに来ました。昨夜に戻るために」
「え? あの……何かあったの?」
これまでにないくらい深刻な様子のヴァレリオを見て、私は高まる動悸を抑えようと胸に両手を当てた。
「それは……是非本人の口から、お聞きになって下さい。ああ、本当にあの魔法書を使っていて良かったと思う日が、こんなにも近くにあったとは思いもしませんでした。レティシア様のご温情にも感謝しています……どうか、お手をお貸し下さい」
「ええ……」
ヴァレリオは苦笑しつつ、私の差し出した手を取った。
「ロード」
彼の声が聞こえた瞬間に、私は昨夜……イーサンが私の手を持っている、あの瞬間へと戻っていた。
「……イーサン?」
「レティシア。ああ……そうか。ごめん。戻ってきたんだ。俺がダンジョンで、怪我をしてしまったんだ。それで、どちらかがロードを使いに、君へ会いに行ったんだな」
イーサンは何度か目を瞬いて、頭を右手で押さえていた。
「もしかして、大きな怪我をした? ……大丈夫だったの?」
イーサンが見せる妙な様子に、私は心配になった。こうして、時間が戻って、彼は大丈夫だとわかっていても……。
「ああ。高所から落ちて足を折ったので、二人に抱えられて宿まで戻った。それで、鎮痛効果のある薬を飲んだから、眠ってしまって。さっきのロードした時、眠っている状態でここに返ったから……なんだか、不思議な感じに陥ってしまって、心配をかけてすまない」
「まあ……そういうことだったのね」
先ほど動きがおかしかった、あのイーサンの様子の理由を聞いて頷いた。眠っている時にいきなり覚醒状態に戻されるのだから、驚いてしまったのね。
「レティシア様、ありがとうございます……足を折ったら、治療魔法を使っても、完治するまで時間掛かるので助かりました」
イーサンは優しく微笑んで、私への感謝の言葉を口にした。
色々と助けてくれる彼の役に立てたみたい。私もほっと大きく息をついた。
そして、帰る直前だった彼は、そのままバルコニーへ出て行ってしまった。
そして、翌日の朝。
目覚めた私は朝食の席で朝帰りをした従兄弟のドナルドが、暴れ回る記憶が蘇った。部屋付のメイドへ今日は朝食を部屋で取ると言えば、あまりない事なので彼女は戸惑いつつも頷いた。
昼頃には、執事エリックがドナルドの事について報告をしたので、私は過去がロードされるという魔法により、自分の嫌だった事を回避出来てしまい、なんだか不思議と充足感があった。
こんな事が出来るなんて……本当に、凄いわ。
最上級な、特別な時魔法。私も偶然だけど、その恩恵に預かれてしまったようだった。




