07. 辺境地での生活の始まり
「ヴィムと申します」
「アンネです」
領主館の敷地内にある屋敷に案内され、いよいよ念願のスローライフが始まろうとしていたその日の夕方。
オリバーさんに連れられて二人の人物が私のもとにやって来た。
ニコリと感じの良い笑顔を見せる糸目のヴィムと、無表情でクールな感じのアンネだ。
オリバーさんによると、この二人が私のお世話を担当してくれるという。
といっても、最低限の人数でと伝えた私の希望もある程度汲んでくれたようで、同じ屋敷内に常にいる使用人はアンネだけだそうだ。ヴィムは何か困った時の相談役ということらしい。
「領主であるジェイル様も家令である私も領地運営でなかなか忙しくしておりますため、レイナ様がお困りの際にすぐ対応できない可能性がございます。ですがヴィムは私の直属の部下ですので、何かあればヴィム経由でご遠慮なくお申し付けください」
オリバーさんからのその説明に私はなるほどと深く頷く。
……領地を会社に置き換えるなら、領主様が社長、オリバーさんが副社長みたいなものだものね。で、たぶん私は親会社から頼まれて受け入れた期間限定の研修生みたいな感じかな。
社長や副社長が預かった研修生の面倒を直接見るわけにはいかないけど、無碍にはせずそれなりに扱おうとしてくれているのだろう。
そこで常に傍にいて世話をしてくれる担当アンネと、何かあった時の相談先として社長や副社長に話も通せる部下ヴィムをつけてくれるというわけだ。
ヴィムは二十歳、アンネは十八歳だそうだ。二人とも私より若く日本では大学生くらいの年齢なのに、ベテラン社員みたいな貫禄と落ち着きがある。
……貴族に仕える使用人は日本と違ってきっと若い頃から働いて経験を積んでるんだろうなぁ。仕事歴は私より長いのかも。
オリバーさんから二人の紹介を受け、それぞれとの挨拶が済むと、オリバーさんとヴィムは領主館へと戻って行く。
屋敷に残されたのは私とアンネだけだ。
「改めてよろしくね、アンネ」
「はい。よろしくお願いします」
「あの、最初に一つアンネに伝えておきたいことがあるの」
「はい。なんでしょう?」
「せっかくメイドとして付いてくれた中申し訳ないんだけど、私、身の回りのことは全部一人でできるから基本的に放っておいて欲しいの」
「は……」
はいと言いかけたアンネが不自然にピタリと止まり、不可解そうに眉を寄せ、そのクールな顔に困惑を浮かべる。
一人暮らし歴が長い私にとっては自分でやるのが当たり前のことだ。ただ、この世界ではそうではないらしい。ましてや私は客人という立場だ。
だが、あまりに干渉され、なにもかもお世話されるのではきっとスローライフは楽しめない。
「朝起こしてくれる必要もないし、ベットメイクや身支度を整える手伝いもいらないわ。一人で大丈夫!」
「………私は何をすれば良いのですか?」
「う~ん、屋敷の掃除をお願いできると助かるかな? あと、食事もゆくゆくは自分で作るつもりだけど、今はキッチンの使い勝手や食材がよく分からないから、最初はお願いできると嬉しいかも」
「掃除に食事、ですか。しかも食事も追々はレイナ様ご自身でされる予定ということは、私の仕事は基本的に掃除だけになりますね」
「そうかも。だからアンネも私に構わず好きなことしてくれていいからね! 領主館での仕事があるならそっちに行ってくれても全然構わないから」
「承知しました。………まぁ、護衛に集中すると思えばいいか」
最後何かをボソッと呟いたのは聞き取れなかったが、とりあえずアンネは私の意向を理解してくれたようだ。
ふと窓の外を見れば、もう外はすっかり暗くなっている。
アールデルス領で初めて迎える夜だ。
「ではさっそく私は夕食の準備をしてまいります。レイナ様はどうぞごゆっくりお過ごしください」
私の視線の先に気付いたらしいアンネは、そう言ってキッチンへ向かって行った。
夕食まで手の空いた私はとりあえず屋敷内を見て回ることにする。
領主館の本館から離れた場所に佇むこの屋敷は、本館ほどではないが立派な洋館の建物だ。
二階建となっており、一階には居間や応接間、キッチン、使用人部屋がある。
そして二階は寝室や衣装部屋、書斎、シャワー室など、この屋敷の主用のプライベートスペースといった感じだ。
……当たり前だけど、日本で私が一人暮らししていたワンルームの部屋と比べ物にならないくらい広いなぁ。
つい数日前まで処分されるかもという身の上だった事実を忘れてしまいそうな好待遇だ。
これも私を王都から遠ざけ、客人としてアールデルス領に受け入れる調整をしてくれた国王様のおかげ。本当に命の恩人だ。
残念ながら私にはなんの力もないから役には立たないけれど、国王様のために、この国のために、もし私にできることがあるならば力になりたいなと思う。
……それにしても……やっぱりないなぁ。
私は屋敷内を一通り見終えて、軽くため息を吐いた。
お目当てのものが見当たらなかったからだ。
その時ちょうどアンネから夕食の準備が出来たと声が掛かり、私は居間に向かう。
居間に入ると、すぐに食欲をそそる良い匂いが漂ってきた。
「こちらへどうぞ」
アンネに案内されたのは一人分の食事が置かれたテーブルだ。
夕食は具沢山のスープとパンのようだった。
「一人分? アンネは一緒に食べないの?」
「メイドが主と一緒に食べないのは当たり前です。傍で給仕させて頂きます」
「え? 給仕? う~ん、食事も一人で大丈夫だから、アンネも私と一緒に食べてくれない? こんな広い家で一人で食事ってのも寂しいしね。それに傍に立って見られてるのもなんだか落ち着かないから」
食事をする時に給仕される習慣なんてない私にとってはごく当たり前のことを述べたに過ぎないものの、アンネは面食らった顔をしている。
それくらいこの国の感覚と差があるのだろう。
……自分の感覚を押し付け過ぎるのも良くないよね。でも家の中では気を張らずにのんびりしたいしなぁ。
「外ではちゃんと私もアンネに給仕をお願いするようにするから、この家の中だけはお願い! ね?」
一応の妥協案を提示して、私はやや強引にアンネに自分の分の食事を持って来させて一緒に食卓を囲む。
言われるがままにとりあえず席についたアンネは冷静さを装いつつも、先程から瞬きがやたら多くて明らかに動揺している。
その様子に気づきながらも私は慣れてもらうしかないとあえて無視して、食事をしながらアンネに気になっていたことを問いかけた。
「アンネに一つ聞きたいことがあるんだけど」
「何でしょうか?」
「この屋敷にはお風呂はないの? 本館にはあったりする?」
「……オフロ、ですか?」
そう、お風呂だ。
さっき見て回った時に、この立派な建物の中に見つけることができなかった。
この世界に来てから、一度も入っていないし、見かけていない。
エンゲル公爵の屋敷ではシャワーだけ、王宮では使用人部屋で濡れた布で身体を拭くだけ、そして王都からこの地への移動途中に利用した宿屋でもシャワーしかなかった。
この屋敷にはなくても、もしかしたら本館にならあるかもと淡い期待を抱いて問いかけた次第である。
……ここの世界はそこそこ発展しているし、生活レベルも低くはないものね。魔道具っていう日本にはない便利グッズも多いみたいだし。それにラノベにありがちな食事がマズイってこともないから、きっとお風呂だって権力者の屋敷にはあるはず!
王宮にだって王族が使う場所にはあったのではないかと踏んでいる。それなら貴族の当主が住む本館にならありそうだ。
だけど、その予想は外れていたようだ。
なぜならアンネがこう言ったからだ。
「あの、お答えしたいのは山々なのですが、そもそもオフロとは何のことでしょうか?」
「えっ……」
アンネは冗談を言っている風でもなく、至って真面目な顔で私に聞き返してきた。
この感じはアレだ。
……なんと、もしやこの世界にはお風呂は存在しないってこと、かな⁉︎
「えっと、身を清めるのはどうしてるの?」
「? シャワーですが? 平民ですと濡れた布で身体を拭きますね」
その答えに私はガックリと肩を落とす。
お風呂が存在しないことを確信してしまったからだ。
……なんてこと。お風呂にゆっくり浸かってのんびりしたかったのにっ……!!
日本にいた頃、仕事で忙しい日々を過ごす私にとっての癒し、それがお風呂だった。
たっぷりお湯を張って、良い香りのする入浴剤入りのお風呂に浸かる時間が、ささくれた心と疲れた身体を癒してくれたのだ。
お風呂と同じくらい温泉も大好きで、全国の温泉巡りが私の趣味でもあった。
その趣味が高じて、仕事でも温泉地のPRを担当させてもらったくらいだ。
……あーあ。スローライフにはお風呂が欲しかったところだけど、存在しないならしょうがないかぁ。残念すぎる。
初っ端を挫かれた形だが、お風呂がないからといってスローライフがダメになるわけではない。
食事を終えると、自分にさせて欲しいと言い張るアンネに片付けをお願いし、私はシャワーを浴びる。
その後書斎に立ち寄って、目についた本を数冊手に取ってそのまま寝室へ足を運んだ。
窓の外はもう真っ暗で、すっかり夜深い時間になっている。
私はベッドの中に潜り込む。フカフカとしていてとても心地よいベッドだ。
……さぁてと。やっと住むところも決まって落ち着いたことだし、今日は夜更かししちゃおっかな!
明日の予定は特に決まっていない。
つまり、好きな時間に寝て、好きな時間に起きられる。
時間に振り回されないってものすごく贅沢だ。
記念すべきアールデルス領での最初の夜、私はベッドの中で気の向くままに時間も気にせずゆっくり読書を楽しんだ。
そして瞼が重くなってきたタイミングで、眠りについたのだった。