08. 念願のスローライフ
――トントントン
遠慮気味にドアをノックする音が辺りに響く。
同時に「レイナ様、大丈夫ですか?」と私に呼び掛ける声も耳に飛び込んできた。
布団に包まれて心地良い眠りを貪っていた私は、その音と声でゆっくりと意識を浮上させる。
うっすら瞼を開けると、カーテンの隙間から差し込む陽の光が目を直撃した。
……まぶしいっ! この陽の明るさ、朝というより昼間に近い感じかな? 昨日寝たの朝方だったもんね。
私はのろのろとした動きで起き上がると、手を真上に上げてグッと伸びをする。
ようやくはっきりと目が覚めてきたところで、声のする方へ近づき、寝室のドアを開けた。
「おはよう、アンネ。どうかしたの?」
ドアの前にいたのはメイドのお仕事着をきっちり身に纏ったお仕事モードのアンネだ。
寝起きでややボンヤリしている私とは対照的である。
そしてそんなアンネはなぜか私の姿を目にしてホッとした様子を見せた。
「おはよう、ではございません。レイナ様、もう昼食の時間もとっくに過ぎました。一向に寝室から出てこられないので心配になり、放っておいて欲しいとのご要望に反して、こうしてお声掛けさせて頂いた次第です」
まさか心配させていたとは。
聞けば、この世界の人たちは基本的に朝が早いらしい。
昼過ぎまで寝ているような人は珍しいらしく、なかなか居間に降りて来ない私にアンネは何かあったのではと気を揉んでいたそうだ。
……それは悪いことしちゃったなぁ。でも私としては久々に時間を気にせずゆっくり惰眠を貪れて最高だった!
夜更かしと昼過ぎまでの睡眠は、忙しく働いていた頃にはなかなか出来なかったことだ。
寝たいだけ思う存分に眠れたことで私の心の充足度はすっかり満たされている。
「心配してくれてありがとう。たぶんアールデルス領に到着したばかりで身体が疲れていたのね。ゆっくり寝て身体を休めることができたわ! 明日からはもう少し早く起きるとは思うけど……まぁ今日みたいに昼過ぎまで眠っていることもあるかもしれないから、あまり気にしないでね!」
今後もまた同じことをする可能性はあるので一応予防線を張りつつ、私はアンネに笑顔で感謝を述べる。
ちょっと呆れた顔をしたアンネは何か言ってもしょうがないと判断したのか、それ以上は特に口を挟まず、昼食はどうするかと尋ねてきた。
あまり空腹感がなかったため、飲み物だけ貰うことにし、私は着替えのためにもう一度寝室へと引き返す。
寝室のカーテンを開ければ、アンネの言った通りもう昼過ぎなのだと一瞬で分かるほど、太陽が明るく輝いていた。
……すっごくいい天気! これはあれね。日向ぼっこに最適!
そう思い立った私は、着替えが終わると、一階の居間からフラットに繋がったテラスへ向かう。このテラスは庭と面していてとても開放感がある。
ただ、庭といっても、花壇があるような手入れされたものではない。
屋敷のすぐ傍に森があるからか、無造作に芝生が広がっているだけだ。
……でもこの眺め、森林浴気分に浸れるよね! 癒されそう~!
私はテラスに小さめのテーブルと椅子を持ち込み、ゆったりと椅子に身を預け、陽だまりの温かさを楽しむ。
刺すような日差しではなく、包み込むような柔らかな日差しは、じんわり身体を温めてくれて、とても心地良い。
テーブルと椅子と一緒に持ち込んだ飲み物を時折飲みながら、私はぼーっと目の前に広がる森を眺めた。
こうしているだけで、雑念が消えて心が軽くなっていくようだ。
あの忙しかった日本での目まぐるしい日々がまるで遠い昔のような気がしてくる。
まだつい二週間前くらいのことなのに。
……これこれ! 私が求めていたの~んびりした生活! まさにスローライフ!
結局、この日の私は日が暮れるまでテラスでひたすらぼーっと景色を眺める時間を満喫した。
そして翌日。
お昼前まで再び二度寝を楽しんだ私は、昼食をアンネと共に食べた後、今日もテラスへ向かう。
昨日あの場所での日向ぼっこが最高にのんびり過ごせたからだ。
今日も天気は良好。まさにテラス日和だ。
昨日の私はただぼーっと景色を眺めて過ごしたけど、今日は読みかけの本をテラスに持ち込んでいる。
そう、ここでゆっくり読書を満喫するのだ。
寝室のふかふかしたベッドの上で読むのもいいけれど、森林浴気分に浸れる外で読むのもきっと格別に違いない。
さっそくテラスの椅子に深く腰掛けて、ペラリペラリと指でページを捲り読み進める。
ここ数年、利便性を重視してもっぱら電子書籍派だったから、こうして紙の本を読むのは新鮮だ。
……やっぱり今の生活にスマホがないのが大きいなぁ。どれだけスマホに私が支配されていたか痛感するかも。
読書のことだけではない。
電話、メール、SNS、映画やドラマ鑑賞、写真撮影、調べ物、情報収集、スケジュール管理、家計簿、ネットバンク、アイディアメモ……生活や仕事におけるほとんどの事項をスマホまたはタブレットでこなしていた。
二十四時間のうち寝ている時以外はなにかしらスマホを触っていたように思う。
……そう思うと、スマホがない、いわゆるデジタルデトックスするだけで、十分スローライフ実現かもね。
ちなみにスマホはこの世界へ召喚された時に消えてなくなっていた。
正確には、カフェを出た時に持っていた所持品がすべてなくなっていたから、物はこちらの世界へ転移できなかったようだ。
身に付けていた下着や服だけは、身体の一部とみなされたのかそのままだった。
裸にされないで良かったと後からホッとしたものだ。
「アイスティーでもいかがですか?」
その時、本に視線を落としながら召喚時のことを思い出していた私に、背後からふいに機械的な声が掛かる。
振り返るとそこにはティーポットと氷入りグラスを載せたトレイを持つアンネ。そしてその隣にはニコニコした笑みを浮かべるヴィムが顔を覗かせていた。
ヴィムはさっそく私の様子を見に来てくれたようだ。
「ええ、せっかくだから頂くわ! ありがとう!」
私は一度本を閉じると、アンネとヴィムにも席を勧め、一緒にお茶をしようと誘う。
その私からの申し出にヴィムは目を丸くしていたが、アンネは昨日の今日でもう私に少し慣れてきたらしく何も言わずすんなり腰を下ろした。
……一人で読書予定だったけど、身近にいる人との交流は大切にしたいもんね! 木漏れ日の中のお茶会なんてちょっとオシャレだし!
アンネはティーポットから紅茶をグラスに注いで私の目の前に置いてくれる。
その後、一度席を立ってキッチンへ行き、グラス二脚と焼き菓子を手に戻ってきた。
どうやらアンネはもしかしたらこういう展開になるかもと多少予想して準備していたのかもしれない。
ついでに立ったままのヴィムに、耳元でコソコソと何か囁いた。
その結果、二人は今、共に椅子に座っていて、私とテーブルを囲んでいる。
「……レイナ様、使用人の僕達がこうして席につかせて頂くのはこの屋敷の中だけですからね。くれぐれもお忘れなく。それにしても食事もアンネと共に摂られているらしいですね?」
「私が頼んだの。私が言うのもなんだけど、アンネって適応力が高いわよね。もう慣れてきたみたいだし」
ニコリと笑顔を作りながらも居心地悪そうにしているヴィムに対し、アンネはすまし顔だ。
昨日初めてお願いした時は多少面食らっていたが、ヴィムほどではなかったように思う。
……なんていうか、アンネってちょっとサイボーグっぽいよね。職務に忠実で有能そうだけど心が無な感じ。
だからこそ私みたいな異世界から来た人間の担当にさせられたのかもなぁなんて想像する。
そんなことを内心思いながら、私はアンネが淹れてくれたアイスティーに口をつけた。
茶葉の豊かな香りが薫り、ほのかに渋く、ほのかに甘く、とても爽やかな口当たりだ。
「このアイスティーすごく美味しい! アンネって紅茶を淹れるのが上手いのね!」
思わずそう感想を口にしたくなる美味しさだった。やっぱり手間暇かけて淹れたものは違うなぁと妙に感心してしまう。
なにしろ日本にいた頃に私が飲んでいたのは、水出し用のティーバッグでササっと作ったものばかりだった。
それにそもそもコンビニでペットボトルの清涼飲料を買う方が多かったから、日常においては丁寧に淹れた飲み物を口にする機会が少なかったと言える。
「ありがとうございます」
紅茶を淹れる腕前を褒められたにもかかわらず、アンネはというと、特に嬉しそうな顔をする様子はない。無機質にお礼を述べるだけで、やっぱりサイボーグ並みにクールだ。
「そういえば何の本を読んでいたのですか?」
アンネの様子に若干苦笑いを浮かべたヴィムは話題を切り替えることにしたようだ。テーブルの上に置いた本に視線を向け、私に質問をしてきた。
「サウザンド王国を旅した商人の旅行記よ。ちょうどアールデルス領について書かれているところを読み終わったところなの」
私は読みかけの本のページを広げて二人の方へ差し出す。
紙面を目にした二人は、この本を読んだことがあるのか「ああ、これか」という表情だ。
「旅行記によると、アールデルス領は山と海に囲まれ、冬は降雪量も多い土地みたいね。木材や薬草などの自然資源が豊富で、辺境地ながらそれを目当てに来る商人もそれなりに多いんだってね。商人の護衛や資源採取の依頼があるから冒険者ギルドもあって冒険者の出入りもあるんでしょ? 王都や主要都市のような華やかさはない田舎だけれど、人々の温かな笑顔が溢れる心がホッとするような領地だって書かれているわ」
私は本で知った内容を口にする。
ただ、改めて言葉に出してみて、その内容に微妙な違和感を覚えた。
……王都からこの領主館に来る時に少し見ただけではあるけど、とても商人が多そうには見えなかったよね? 閑散とした感じだったしなぁ。
そんな私の疑問に答えてくれたのはヴィムだ。
ヴィムはにこやかな顔のまま少し眉を下げると、「この旅行記は三年前に書かれたものです」と告げる。
「レイナ様もどこかでお聞きになっていませんか? この国のとある領地で二年前に流行病が蔓延したと。それがここ、アールデルス領なのです。流行病以前は確かに旅行記に書かれたような領地でした。ただ、その後は……。多くの人が亡くなったので領民の数は減り、商人などの人の出入りも激減しました」
「そう、だったの……」
「ジェイル様が領主に就任されたのもその時です。先代の領主夫妻も流行病でお亡くなりになられましたから。現国王様の側近を辞任され、王都から領地にお戻りになったのです。ジェイル様が二十四歳の頃でした」
……そういえば、国王様もお父様を流行病で亡くして国王就任されたって。つまり、ここのあのイケメン領主様も同じような状況だったのね。
二十四歳で領主、日本に置き換えるならば、父の跡を継いで社長就任という状況だろう。
国王様の話を聞いた時にも思ったけど、さぞや大変だったに違いない。
……ていうか二年前に二十四歳ってことは……今二十六歳? 同い年じゃない! てっきり年上だと思ってた!
無愛想で不器用そうな感じではあったが、鋭い眼差しが印象的な貫禄のある人だったのを覚えている。
「この二年、ジェイル様は流行病からの復興に尽力されてきました。お忙しくされていることもあり、未だ未婚でいらっしゃるんですよ。あの容姿なのに。もったいない。レイナ様もそう思いません?」
「まぁ、でも男性は別に適齢期と言われる二十五歳を超えても問題ないんでしょ? それなら落ち着いた時に若い奥さんをもらえばいいんじゃない? 私の国では二十六歳で未婚の人なんて山程いたわよ。それに私は領主様と同い年だけど、この国では女性は二十五歳で完全に行き遅れだって聞いて驚いたもの!」
私はいかにその話を聞いた時にカルチャーショックを覚えたかをヴィムに力説する。
ヴィムはやや苦笑いを浮かべて引き気味の様子になっていたが、領地について語っていた時に見せていた暗い表情は消えていた。
そのことに安堵する。
……アールデルス領も色々あったのね。大変な皆さんに余計な迷惑をかけないよう、私は大人しくひっそりここで過ごさせて頂こう!
親会社から来た研修生がしゃしゃり出て、子会社の人たちに負担をかけるわけにはいかない。
アールデルス領の内情を聞き、私はそう決意を胸に刻んだ。