プロローグ
「あれからもう二年か……」
ジェイル・アールデルスは執務机に積み上げられていたすべての書類に目を通し終えると、ふと一人つぶやいた。
誰もが見惚れる眉目秀麗な容貌ながら、無愛想ゆえにいつも不機嫌そうと評される顔を窓の外へ向ける。
その美しい紺青の瞳には、ジェイルが治める領地であるサウザンド王国・アールデルス領の広大な景色が映っていた。
王都から遠く離れたアールデルス領は山や海などの自然に恵まれた広々とした辺境地だ。
良く言えば緑豊かな領地。悪く言えば片田舎である。
そんな領地を二年前から領主として治めているのが侯爵位を持つジェイルだった。
……まだまだ二年前の賑わいに戻るには程遠い。復興の道は長いな。
ジェイルは人知れず長いため息を吐き出す。
心なしか彼の端正な顔にはここ数年の疲れが滲んでいるようだった。
それもそのはず。
ジェイルは二十四歳という若さで領主に就任し、この二年寝る間も惜しんで執務に励んできた。
しかも元々王都で第一王子の護衛騎士を務めていたジェイルにとって、領主の職務は畑違いであり、周囲の支えがあっても大変であったことは疑いようがない。
艶やかな黒髪や騎士然とした精悍な顔立ちに陰りは見えないものの、まだ二十六歳であるというのに、苦労を重ねた者が放つ威厳や貫禄が備わっている。
もちろんジェイルとて、いずれは父親から領主の座を引き継ぐことも視野に入れていた。
しかしながら、それはもっともっと後の予定であったのだ。
それなのになぜジェイルが今領主に就任しているのか。
その理由は、二年前にアールデルス領で発生した流行病のせいであった。
領地全体で蔓延した流行病により、当時の領主夫妻――ジェイルの父と母が命を落としてしまったのだ。
多くの領民も亡くなり、経済活動は滞り、領内はズタボロの状態となった。
……流行病の収束後、二年かけてようやく安定はしてきたが、まだまだ問題は多いからな。
家臣達と協力して内政に勤しんできた甲斐あって、現在は一時期の酷い状況からは脱しつつある。
だが、未だに風評被害は著しい。アールデルス領へ向けられる外からの目は非常に厳しい状態だ。
ジェイルは窓から視線を外すと、指先で眉間を揉みほぐす。
そして再び悩ましいため息を零したのであった。
◇◇◇
「及川さん、うちの新入社員が作成したプレスリリースをプロの目で添削してくれない?」
「及川、温泉地のPRを前に担当してたよな? リゾートホテルを運営する企業の仕事取るために来月コンペに出ることになったから、以前の経験をもとにPR戦略の立案お願いしていいか?」
「及川ちゃん、雑誌社からクライアントへの取材依頼が来てるから調整してもらえる?」
「及川先輩、自治体から依頼されてる地域活性化のためのPRのイベント、リアルとオンラインどっちがいいと思います? アイディアを一緒に考えてもらってもいいですか?」
……あ~忙しいっ! 目が回る!
ジェイルが物思いに耽っている同日同時刻の日本。
及川玲奈もまたオフィスで小さなため息をこっそり吐いていた。
なぜなら、クライアント、上司、先輩、後輩から矢継ぎ早に次々と仕事を依頼されるからだ。
玲奈は、都内のPR会社で働いている。大手PR会社で数々の実績を積んだ社長が立ち上げた社員数約二十名の会社だ。
小規模ながら社長の知名度や人脈により、幅広い企業や自治体からのPR支援の依頼が入る。
そのおかげで、新卒での入社から二十六歳の現在までの約三年間で玲奈も様々な経験を積んでいた。
玲奈がスキルアップのために自己研鑽を怠らない働き者であることもあり、周囲から頼りにされる存在だ。
それゆえに、玲奈に仕事が集中するのも必然と言えるだろう。
仕事を依頼されるということは、それすなわち自身の仕事ぶりが評価され、信頼されている証でもある。とても光栄なことだ。
そのことを玲奈自身も重々承知している上に、なんだかんだで頼られると嬉しくなる性格のため、こうして仕事が集中してもニコリと笑顔で応えている。
……仕事は楽しい。でも最近忙しすぎて、全然趣味の時間も取れてないよぉ……!
心の中で少しばかりの弱音を吐きながら、そんな思いは表につゆほども出さない。
鎖骨下まで伸びたセミロングの髪を一つに結び直して気合を入れた玲奈は、今日も明るく元気な笑顔を浮かべて膨大な仕事量をサクサクとこなすべく尽力していた。
そうしてようやく迎えた金曜日の夜。
「あぁ、今週も疲れた……」
長い長い一週間を終えた玲奈は仕事終わりに息抜きのためカフェに立ち寄っていた。
ホットのカフェモカに口をつけると、マグカップを両手で包み込んで目を瞑る。
温かさとほろ苦い甘さが疲れ切った身体に染み渡っていき、ホッとした心地だ。
……明日から三連休かぁ。本当なら私も休みなんだけど、この三連休はPRイベントがあるから出勤なんだよねぇ。代休いつ取れるかな?
窓の外を眺めれば、街ゆく人々は明日から連休ということもあってどこか足取りが軽い。
スーツケースを引いて空港へ向かうような人もいて、きっと旅行を前にワクワクした気分なのだろうと思うと羨ましくなる。
……私もたまには旅行に行ってのんびりしたいなぁ~! なんなら最近流行りの地方移住とかしちゃう? 田舎でスローライフを送りながらリモートワークする生活もいいかも!
現実逃避のように、そんな妄想に浸ってみる。
現実問題、今のPR会社の仕事ではフルリモートが難しいことは分かりきっている。
それに決して今の会社や仕事が嫌というわけではない。
忙しすぎて時折ちょっぴりここではないどこかに行って、仕事から完全に離れぼーっとしたくなるだけだ。
……現実逃避はやめやめっ! もう帰って明日に備えて早く寝ちゃおう。
玲奈は残りのカフェモカを飲み干すと、その場を立ち上がった。
マグカップを返却口に戻して出入口へ向かう。
そしてやって来る人とすれ違いながら自動ドアを潜り抜けようとした、その時だ。
ふとまぶたに明るい光が過った気がした。
なんだろう?と思い目を細めると、信じられない光景が飛び込んでくる。
なんと、玲奈は光輝いていた。
虹色のキラキラとした光が全身を包み込んでいるのだ。
……なに、なに、なに⁉︎ なんで私光ってるの⁉︎
ネオン街のようなレインボーではなく、目を奪われるような幻想的な美しい虹色の光だ。
でもこの光の正体が謎すぎて頭が混乱する。
思わず歩みを止めて立ち止まった。しかし立ち止まっても依然としてまばゆい光はそのままだ。
さらに次の瞬間、今度は足元に影のようななにかの模様が現れる。
それはファンタジー映画で見たことがあるような魔法陣のように見えた。
……光の次は、魔法陣⁉︎ なにこれ⁉︎
残念ながらその問いに答えてくれる人はいない。
仮に答えられる人がいたとしても、聞く暇なんてなかっただろう。
なぜなら、魔法陣を目にするやいなや、玲奈はその場から跡形もなく消えてしまったのだから。
玲奈の体感としては数分の出来事だったが、実際はものの数秒。
周囲にいた者にとっては、「なにか光ったな」と思う程度の時間で、閉店間際で人が少なかったこともあり誰も気がついていなかった。
玲奈の最後の記憶は、虹色の光と魔法陣。
それは仕事に忙殺される毎日の終わりを告げる合図となったのだった。




