サキはランコと語らう
部屋のドアがノックされた。
ベッドから立ち上がりながら「はい」と返事をすると、中学生ほどの年頃の少女が入ってきた。
艶やかな長い黒髪を黒いリボンでポニーテールにしている。眉のすぐ下でまっすぐに切りそろえた前髪は、意志の強そうな大きな目を引き立てていた。身に着けているミニドレスのようなワンピースも真っ黒だ。フリルとレースをふんだんにあしらったもので、黒一色だというのに華やかな印象を受ける。
少女はワンピースが皺になるのを気にする様子もなく、窓辺に置かれたビロードの一人がけソファーにどかりと腰かける。無言のまま、観察するようにサキのことを凝視した。
観察するようにではない。観察しているのだ。今日のサキはどんな様子なのかと。
サキは自分の状態を簡潔に知らせるため、少女の名を呼ぶ。
「ランコ」
ランコが満足したように口角を上げた。
「そう。私はランコ。あなたは?」
幼い見た目に似合わない低く落ち着いた声色だ。
「私は、サキ」
「ここはどこだかわかる?」
「ランコの別荘」
「まあいいだろう。正確には私の父の別荘だけど。今は子孫の誰かが管理はしているけど、使う者はない」
「そうだったわね。大丈夫。今日は覚えてる」
ランコは満足そうに頷いて、ソファーの肘掛けに寄りかかって頬杖をついた。
「いい調子だ。思い出すのが早くなってる」
「うん。まだ目が覚めた瞬間は頭が混乱しているし、体もうまく動かないけどね」
「日を追うごとに馴染んでいくだろう。今は再構築の期間だ。初日なんて言葉も話せなかったから期待していなかったのに」
「そのあたりのことは思い出せないの」
「あの状態では脳が機能していなかったのかもしれないな。あいつらと同じような状態だったから。あれは人じゃない。獣だ」
「あいつらって、死せる者?」
「ほかに誰がいる……まあ私たちも死せる者だがな。こういう例外もあるってことだ」
サキは頷いた。脳裏には、ランコに連れられて遠目に見た動き回る屍の姿が浮かんでいた。ランコは獣にたとえたが、獣の方がずっと知的に見るほどだった。自分もほかの死せる者のようになっていたかもしれないと思うとおぞましい。助けてくれたランコには感謝しかなかった。
「また夢を見たわ」
「事故の時の?」
「うん。たぶん。それと、はるか昔の思い出。でもよくわからない。海で溺れていたようでもあるし、記憶に溺れていたようでもあるの」
事故の瞬間はスローモーションのように感じるだなんて、誰が言ったのだろう。交通事故で車に跳ねられ宙を舞ったのを呑気に自覚していたりだとか、階段で足を滑らせた時に落ちてしまうと冷静に考えられたりだとか、いったいどれだけ肝が据わった人物なのよ、とサキは掃出し窓を開きながら悪態をついた。
窓の外には夜の海が広がっているはずだ。高台に建つこの洋館は、海を見下ろす崖の上に建っている。掃き出し窓の外はテラスになっていて、そのまま庭へ出られる。庭といっても住む者がいないという蘭子の言葉を裏付けるように、花壇には枯れた花さえなく、ただ芝生が広がるだけだった。
サキの話を聞いていた少女が、あははと笑う。
「ということは、サキはスローモーションじゃなかったのか」
自分より二十は若く見える少女に呼び捨てにされても、サキは少しも気分を害することなく、一緒になって笑った。
「うん。そうじゃない、そうじゃない。スローモーションどころか、一瞬にも満たないわよ。ショートカットよ。気付いたらここにいたって感じ。走馬灯なんて見る暇もなかった」
「でも、『その瞬間』はあったわけだろう? 苦しくなかったのか?」
「うーん。どうだろう? やっぱりよく覚えてないんだよね。というか、たぶん覚えていたんだろうけど、日に日に忘れていくの。それはもう、ものすごい速さで」
「へえ……」
「生きていた頃の記憶はどんどん薄らいでいって、入れ替わるように、死んでからの記憶はだんだん定着していく感じがする」
「へえ……」
「へえって、ランコはそうじゃなかったの?」
「私はどうだったか……忘れたな。なにしろ、はるか昔のことだ」
そう言って、ランコは裸足のまま庭に出た。芝生の上を海に向かって歩いていく。サキも裸足で後を追う。
低い柵の手前で立ち止まっているランコの隣に並ぶ。隣に目をやると、頭一つ分身長の低いランコの頭頂部が見えた。
まるで歳の近い親子のようではないかと思う。けれども実際はランコの方がずっと年上だ。サキの親より前に生まれていたのかもしれない。いや、それとも生まれたのが早かろうとも、ここに来た時点で時間が止まるのなら、やはりランコは幼い時点で止まっているのだろうか。
「忘却ってやつは、私たちに残された貴重な能力だと思うんだよ」
ランコは時おり老成した表情を見せる。肉体は時の流れから外れても、精神までもが留まるわけではないようだった。




