夜の風景 〜海辺〜
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今宵は雲が多い。薄雲に覆われた満月が朧げに灯り、浜辺をそぞろ歩きする人影を見下ろしている。
防風林の向こうの国道は夜更けでも交通量が多いが、砂浜に降りれば、連なり疾走する人工物の騒音など絶え間なく打ち寄せる波音に容易く飲み込まれる。夜と海が世界を覆い尽くしているかのようだった。
遠くを見やれば、湾の対岸の明かりが薄雲に覆われた星々の代わりのように瞬いている。
人影の歩みが止まり、上げた視線は夜空に並ぶ星に向けられる。
すいと伸びた手が宙に浮かぶなにかを捕まえるかのように握られる。しかし、開いた手にあるのは磯の香りだけだった。たとえ近く見えようとも、手に取ることは叶わない。小さな明かりへ続く道を隔てるのは、粗暴な波音が満ちる黒暗々たる世界。
風が鳴る。雲が流れ、月があらわになり、波頭が白く光る。
間を置かずして、単調だった波音に乱れが生じた。
人影は、音につられて岩場に顔を向けた。
砂浜の一端は磯になっており、その岩場の先で波を乱す水音が聞こえたのだった。波音に紛れるかすかな音ではあったが、空耳ではない。
岩の影になって月の光が届かない場所があった。遠目にも、その黒い波間から光る杭のようなものが突き出しているのが見える。光るように見えるのは、薄月の明かりに照らされているだけで、それ自体が発光しているのではないのかもしれない。
光るものの正体を近くで見極めるべく、人影はゆらりと磯へ向かって歩み始める。
杭は波が打ち寄せるたびに揺れ、浮沈を繰り返し、やがて消えた。とぷんと音が聞こえそうな沈み方だった。
人影は疾風のように夜を走り、光る杭を追って波間に身を沈めた。
寸刻の後、闇色の人影が浮上した。人の形をしたものを抱えている。光る杭と見えたものは人の腕だったようだ。
闇色の人物の腕の中で、面と腕が月光に白く浮かぶ。ガクリと折れた首筋は一段と映えている。その白い首筋に、黒い人影が覆い被さる。
風が吹く。流れてきた厚い雲が月にかかると、夜の海は再び闇に飲み込まれる。二つの人影も闇に紛れ、後には荒ぶる波音だけが残された。