其ノ三
「少年。こんな昼間っからサボタージュかいぃ?」後ろから声が飛んできた。
振り向くとそこには一人の若い女が風に揺られるように立っていて、缶ビール片手に重そうな瞼をこちらに落としている。僕が「いや」とだけいって、他に何も言えずにいると、彼女は「こんな時代にもいるんだねぇ」と吐いて僕の隣にあったもう一つのベンチに座った。
世界の主導権が僕の手から離れてしまい、さっさと帰ろうと思ったが、なぜだか腰が上がらなかった。まるでベンチに釘で打たれたみたいだった。動けずにいる僕の横で相変わらず酒を啜っている生々しい音がする。
諦めて、僕は少しの間彼女の様子を伺った。彼女はまるでつむじ風にでも運ばれてきたかのようだった。缶ビールの淵に紅色の唇を吸いつかせながら、昼下がりの日光を浴びて酔に興じている。彼女のピンク色の髪は、光に当たると金色に透けた。隣に大きな影が見えたので、他にツレでもいるのかと思ったが、よく見るとそれはただの一本のギターだった。
大都市の営みのこだまの裏で、僕たちはやけに静かだった。目を瞑ってコンクリートとガソリンの匂いさえ誤魔化してしまえば、どこか空気の澄んだ山奥にでもいるみたいだった。でも彼女のアルコールの匂いが僕をこの現実とどまらせた。
「それで、君はここで何をしてたの」彼女は缶を歯で噛んだまま僕に言った。
「別に。ただ座ってるだけさ」スカした奴みたいに僕は言った。その威勢だけのセリフは、風が少しでも吹けば簡単に飛んでいってしまうくらい、薄っぺらかった。でも何を言うべきかわからなかったし、そもそも何かを言うべきなのかさえわからなかった。そんな躊躇の崖で繕った言葉に、敬意なんてあるはずもなく、ただ身を投じる一瞬の覚悟のみあった。
彼女は「そう」と言って、また酔いの世界に戻った。でもしばらくするとまるでこちらに何かを忘れてきたように、そこから抜け出してくる。
「君の膝にあるのはなんだい」黒革のジャケットの下に着た白いセーターの袖の中から、ノートを指刺して言った。分けられた前髪からこちらを覗いている。その時、初めて僕は彼女の顔を見た。酔ってる割に頬は青白く、目元はアイシャドウなのかクマなのか、黒く渦巻いている。
「ただのノートだけど」僕は言った。
「それは見ればわかるよ。アタシはそれに何書いてたのって言ってんの」
僕は自分の膝の上に目を落とした。そこには訳のわからないことが書いてあるだけで説明のしようがなかった。そもそも一体これがなにを指しているのかさえ僕にはまだわからなかった。
でも、僕はもう彼女と会話の中にいる。そのまま放っておいて、帰ってしまってもよかった。でもあの時、僕の胸には何か高鳴るものがあった。きっとそれは青年の淫猥な期待であり、詩人の高慢な予感だった。