其ノ五
「こんな感じでどうよ」彼女は煙の向こう側で僕を覗き込む。
「いいと思う」いつもの返事だった。この一連の作業が、17の詩人と30手前の歌い手を繋ぐ唯一の弦だった。 僕は彼女の隣に置かれたノートを取るために、ベランダの方に向かった。そしてノートに手を伸ばすと、彼女はタバコの口を僕に向けて「ん」と勧めてきた。僕はそのタバコの口先をじっと見てから、「いや」と言って元いた場所に戻る。彼女は「文学に耽る者ははタバコを嗜むもんでしょう。いい加減君もはじめなよ。創作に役立つかもよ」と言って煙を吐いた。
「喘息持ちなの。知ってるでしょ」
「そんなの吸やぁ治るよ」
「んなわけないだろ。それに僕は」”タバコの匂いが嫌いなんだ”と言いかけた。
「それに?」すぐに煙が僕たちの沈黙を埋めてしまう。僕は喉の奥にさっきのセリフを押しやって
「僕はまだ17だ」と言った。
彼女はそれを聞くと、タバコを指に挟んで笑った。サイズのあっていないTシャツが、揺れる肩から落ちて、鎖骨を渡る下着のストラップが顕になった。
「そう言えばそうだった」と言って、微笑みながら煙草を燻らせる。
「あんな綺麗なブーツ持ってたっけ」ちょっとした仕返しのつもりで嫌味を込めて訊いた。彼女はしばらくの間、宙を舞う煙に目を泳がせていたが、やがてそこに何かを見出したかのように「あぁ」と声を出した。
「あれね。あれはケンジが昨日くれたんだよ」
「ケンジ?あれ、前のオサムとかいう人はどうなったの」僕が聞くと、彼女は灰を手に持っていたビールの缶に落として
「あぁ、あいつとはもう別れた」と言い、もう第一関節ほどもない煙草を思いっきり吸った。
「なるほどね」と僕はさして興味を示さずに、ノートの新しいページを開いた。彼女には男がいつもいた。彼らは数ヶ月のうちには入れ替わり、早いペースだと週単位で男の顔は変わった。出会った次の日には別れて、また違う男がその代替になっていたという話も聞いたことがあった。
別に彼女は恋愛が上手い方ではなかったと思うし、男好きというわけでもなかった。彼女には男女の駆け引きというものが全くなかったし、そこにスリルや生臭い肉欲も求めたりもしなかった。ただ今夜隣に寝ているのが男だったくらいの感覚だったと思う。彼女にとって男の顔と名前を覚えることは、すれ違う野良猫の顔をいちいち覚えて、名前をつけることくらいのものだったのかもしれない。
ただ彼女は不思議なくらい男を引き寄せた。どこかにマタタビでも隠し持っているのかも知れなかったし、あるいはチェシャ猫みたいに何か神秘的な力を有しているせいかもしれなかった。いずれにせよ、彼女はモテまくっていたし、寄ってくる男を拒んだりすることもなかった。だからと言って男の背中を追いかけることもなかった。彼女はただ立って、彼らを胸元に迎え入れ優しく愛撫し、腕から離れて行く時はその後ろ姿を見送るだけだった。
「もうバンドはやらないの」彼女は僕の質問を煙と共に、夏の日差しに放ってしまおうとしたが、また息を吸い込んで
「やりたくはあるよ。でもやっぱりアタシには向いてないのさ、そういうの」そう言って、煙草を窓の外に放ると、網戸を閉めた。
「メンバーの人たちはどうしてるの」彼女はまたベッドの方へ戻ってきた。「うーん」と唸りながら、枕の下に手を突っ込んで何かを探している。僕はまたやってるよと思いながら、止まるペンを齧る。
「みんな元気にやってるよ。この前も飲みに行ったし」そう言って枕の下の手を引き抜くと、一枚のCDを掘り当てた。彼女はパッケージを開けて、小さい薄型テレビの下にあるデッキにディスクを入れた。ひび割れたアルバムを僕の前のテーブルの上に置くと、歪んだエレキギターの唸り声の後に、ダウナーなヴォーカルが歌い始めた。
「またこれかよ」と僕が騒音の中で言うと、彼女は「これがないと1日が始まんないのよ」と言って、頭を振った。首元までかかった髪が踊り狂っていた。
「もう昼の3時だぜ」と僕が呟くと、彼女はベッドの上にまた座った。男の汗の匂いと、埃が部屋に舞った。
「まぁね。みんなはまたやりたいって言ってんだけどね。でもあたしもうギター持ってないから、ライブなんてできないよ」
「ギターならここにあるじゃん」と言って僕はまた本やレコードに埋もれた”エクスカリバー”を指した。
「アタシはエレキのこと言ってるのよ。あれはアコギ」
「そのくらい僕でもわかるさ。あれで出ればって言ってんの」というと彼女はしばらく洗濯の山に埋もれた聖剣の方を見つめていた。
「あれじゃあ、迫力ないでしょ。あれは”語る”楽器だから。ライブには”叫ぶ”楽器がないとね」と言って、クシャクシャになったセブンスターを、ベッドのどこからか拾ってきて、火をつけた。香水とタールの匂いが部屋の中でモッシュを起こす。互いに打ち消しあうその硝煙の亡骸を拾うのが今の僕の役目になった。