THE END
彼女と最後に過ごした日は、なんでもない日だった。宇宙人の侵略も、彗星の衝突も起きない。雨さえ降らない、本当にどうでもいいような日だった。空には千切れた雲が散りばめられていて、太陽でさえ、僕らの行く末を見ていなかった。
僕が”ぐびじん荘”に見送りに行ったとき、彼女はちょうどあの青年と一緒に車に荷物を積んでいるところだった。パンパンに詰め込まれた段ボールを持って、階段を行ったり来たりしている。
彼女は僕に気がつくと、笑顔で手を振った。僕は近くに行って、「全部持ってけんのかよ」と冗談混じりに聞いた。ピカピカの軽自動車に、あの混沌とした4畳半は入りそうになかった。 「
大丈夫さ」と言いながら彼女は額に手を当て、一度アパートの方を見た。そして「ほとんど捨てちまうからさ」と、安堵とも憂鬱とも言えない、息を口から漏らした。でも彼女の顔の表情は緩んでいた。まるで全てにケリがついてしまったみたいだった。
電子レンジを持って階段を降りてきた青年は僕をみると、「おう」と挨拶をしてきた。僕はそれに相槌で返す。電子レンジを積んでしまうと、一息ついて「これであと少しだな」と言って、汗を拭った。
「残りは俺が運んどくよ。二人で散歩でもしてくれば」と提案してきた。僕の前で彼女は青年の目を見て微笑む。そして、今度は僕の目を見て、「じゃっ、少し歩こう」と言った。
「別にここでいいだろ」という僕の不貞腐れた提案を置いて彼女は先に行ってしまう。そして振り向きざまにこう言った。
「もうこの辺も見納めだからさ。少し付き合ってよ」
僕は彼女に導かれて歩いた。彼女が濾過する風の匂いがいつもと違った。トリートメントの行き届いた、綺麗な色の麗しい髪が世界を新たに染めようとしている。靴が地面を叩く音がいつもと違った。彼女の足には、あの小綺麗なミドルカットのブーツがあった。僕はその違和感のなさに違和感を持った。香水と混ざったシャンプー、傷んだ金髪、死にかけのスニーカー、ソールのハゲたビーチサンダル。彼女を形作っていたものは、もう抜け殻になっていた。
僕らは公園のベンチに落ち着いた。最初に出会ったあの公園。僕らは結局ここに戻ってきてしまった。温かい息吹が緑をなぞり、春を攫っていく。色彩の季節は終わり、次は風が大地の香りを運んでくる時期だ。そんな予感を僕は木々から聞いた気がした。
彼女はセブンスターに火をつけた。天を仰いで白いベールをたなびかせる。彼女はそこに一生を見つめようとする。でも、それは馬鹿馬鹿しいことであるとすぐに気がつく。
「いつか見たさ、あの天井の星空のこと覚えてる?」僕は前屈みで、手を揉んであの夏休みのことを思い出す。「あぁ」と僕は彼女の方を見て言う。
「君はあれが本物よりもずっと綺麗だって言ってたけど」彼女は一口煙を入れる。
「まだそう思う?」彼女はニヤリと笑って、僕の顔を覗き込んだ。僕はそれから逃げるように「さぁ、どうだか」と言って、遠くのブランコを見つめる。
「やっぱり君は生まれながらにしての詩人だなぁ」と言って、彼女はタバコを咥えて、騒がしい滑り台の方を見た。 彼女はもうわかっていた。人間が空に自分の生涯を書き出そうとする時、そこに広がるのは詩的な世界であることを。妄想にインクを浸した過去という名のペンで、デッサンをしているに過ぎないことを。
そしてそれは決まって、現実には及ばない。たとえ俗世の空気がどんなに透き通っていようと、濁っていようと、花は咲き散る。その儚さや尊さ、美しさを言葉で作ることができても、その重さや香り、感触を形作ることはできない。詩の世界に決して花が咲くことなどないのだ。
僕たちは違う方向を見て、同じものを見ていた。でもそれもやがて、一つの点で巡り合ってしまうと、僕たちはベンチを立った。
アイドリングする車を背に彼女と僕は向かい合った。車内では何か音楽がかかっている。音はガラス越しに篭っているが、聞いたことのない音楽であるのは確かだった。
僕たちはクロスロードに立っている。言葉は出てこない。ここにきて僕は詩人の才を失った。
「じゃあ、バイバイ」そう言って彼女は僕に背を向けた。
先に足を踏み出したのは彼女の方だった
ドアが開いて、中の明るい音が漏れてくる。やっぱり知らない曲だ。こんな曲彼女は絶対に聞かない。こんな綺麗な車にも乗らない。セブンスターだって吸わない。ジャズマスターなんて弾かない。彼女は….
僕は溢れた。口からドロドロの未消化の感情が流れ出す。臭くて熱い。それが僕だった。僕はゲロまみれの詩人だったのだ。手で押さえても止まらない。自分でもそれがなんだかわからない。ニキビ面の青年の、吐瀉物を掃除してくれる人はいない。
走り出した車は一度止まった。吐き散らかした僕の最後をバックミラー越しに眺めてでもいるのだろうか。車のドアが開く。綺麗に染め直された艶々の髪が彼女を隠している。彼女は小走りで僕の方へ向かってくる。
「忘れるところだった」
そう言って彼女は丁寧に畳まれた布切れを僕に渡した。広げてみると、それは綺麗に洗濯されたあのビートルズのTシャツだった。
そして僕らは向かい合った。彼女は相変わらず僕を見て微笑んでいる。その優しい眼差しは、温情とも嘲笑とも区別がつかないくらい僕の視界はグラグラ揺れている。そんな僕を前に彼女は、どこに持っていたのか、何かのケースを取り出し、僕にさし出した。
それはあのひび割れたCDだった。僕が会いにいくたびにかけていたあのアルバム。ギターのカッティングから始まり、ディストーションとベースとドラムが衝突する。陰気なヴォーカルはAメロを口ずさみ、サビで欠落した感情を叫ぶ。そうやって全曲を駆け巡っていく。その旋律に従って、僕たちの夏が演奏されていく。
「アタシにはもう必要ない。でも君には必要だろ」
僕はアルバムを受け取った。軽かった。あんなにも濃密な日々は、たったこれだけの円盤一つに収まってしまったのか。「さらばだ。我が詩人よ」彼女はそれだけ言い残して車に戻った。僕はもう何も言えなかった。ただ車が過ぎ去っていくのを眺めていた。
そうだ。言葉なんかに何の意味もないんだ。
僕は溢れ出した唾を噛み締めながら、今にも崩れそうなぐびじん荘の前にしばらく佇んでいた。
こうして彼女は街を出て行った。そして二度と帰ってくることはなかった。僕のたった一人の、詩の読み手。でも彼女は結局、僕から何も持っていきやしなかった。全てを僕に押し付けていなくなってしまった。あの契約さえも、彼女は破り捨てて行ってしまった。
僕はその日、整頓された机の上で、ノートに向かった。真っ白いページを開くと、僕はペンを突き立てた。その下に広がる余った空白のページにも食い込むように、力を込めて詩を書いた。
君はシェイクスピアの乙女になるには、卑しすぎた
僕がキャメロットの騎士になるには、臆病すぎた
馬の嘶き ナイトの誓い 毒の香り 不義の契り
君を想い、刃を抱いて眠る 夜宵は君を鮮明にする
永遠の決別 一瞬の再会
君が高貴であったなら、僕は胸を刺して共に土となろう
僕が高潔であったなら、君を囚われの国から救いだそう
それが物語の行末であり、詩人の望むところなのだから
こんなにも痛い詩を描き上げて、僕はノートを閉じた。そしてそれを使い終わった参考書の山の上に置いた。紐は後で括ればいい。そう思って、ベッドに横たわった。そこにもう星空はなかった。あるのは窓から滲んだ電灯と、時折走り抜けていく車のヘッドライトだけだった。そして僕は現実から身を投げるように深い眠りについた。
僕はもう詩を書かなくなった。書けなくなった。こうして詩人は子供部屋で死んだ。17の詩人は死ななくてはならなかった。それは僕が18になる年だった。




