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其ノ四

「何、つまんないことだよ。時間のせいさ。みんな卒業の後のことで手詰まりになったんだ。楽しかったけど俺は自分に音楽で食っていけるほどの才能はないと思ってたし、何よりもその度胸がなかった。アイツはそのまま続けよう、ステージの上でくたばろうって言ってたんだけど、結局最初にドラマーが抜けちまった。俺も迷った末に、とりあえず普通に就職することにしたんだ」言い切ると夥しいほどの水滴のついたカップに手を伸ばした。「

でも、アイツとの関係は続いてた。飲みに行ったり、セッションしたり、それこそ他のバンドからドラマー捕まえてきてライブやったりもしてた。一応インディーズまで行ったんだぜ?すっげぇ楽しかったよ。みんなでレコーディングしたり、対バンとかしてさ。でもそんな時だったな、アイツの声が気に入られてメジャーデビューの話が出てきたのは」彼は広げたページを一枚捲る。彼は恐る恐る、煤汚れて黄ばんだページに目を落とす。

「でもアイツは嫌がったんだ。ってのもさ、組織の人たちはこう言うのを歌ってくれっていうのを前もって俺たちに提示してきたんだよ。すげぇ金の匂いのする奴らだった。でもあの人たちの言うことは間違っちゃいない。アイツの声は万人受けする。新しい流れを作れるって。それは俺でもわかってた。だから何度か話会って、説得しようとしたんだ」彼はラテを一口飲んで、口の中でそれをしばらく嗜んでいた。

「でも結局無理だった。アイツは」彼は遠く見て、記事に載っていない出来事を見ようとする。

「そんなのホンモノじゃない」自然と言葉が出ていた。まるで僕の意識の四阿に住む彼女が、一人で喋ったようだった。

「そう。そう言ってた。それで何度も喧嘩したよ。俺はこれからもバンドやるなら趣味気分でやってくつもりはない。このままデビューしないならもう辞めるってね」彼は苦笑して一服する。

「それで俺は抜けて、アイツはあそこに残った」額を抑えてテーブルに置いた灰皿にタバコを振る。

「でもあなたは戻ってきた。それでまたやり直そうとしている」僕は付け足した。

「そうさ。アホだよなほんと。自分でもそう思うよ。でも働いているうちに何もかもが嫌になってきてね。アイツの歌がどこかで聞こえてくるんだ。今日もきっとアイツはどっかで歌ってんだろうなって。そうやって毎日過ごしてたら、仕事はうまく行かねぇし、ダメだこりゃってなってね。そんで職場を飛び出したんだ」彼は煌めくように笑うと、頭の後ろを描いた。太陽よりも眩しい表情をしていた。

「あなたは多分」僕は言い淀んだ。彼はその間にタバコを立て続けに2回吸った。

「多分彼女に恋をしているんだ。どうしようもないくらいに」僕は硬い言葉を吐いた。別にそんなこと言いたくもなかった。でも、僕がそれを言ってあげなければいけない気がした。僕の中の彼女に諭されたのかもしれない。

「さすがだね。君に隠し事なんてできそうもないや」彼は重いものに腹を押された時のように、から振った笑い声をあげた。そして僕たちの横を通る小さな女の子とその手を引く母親を眺めながら

「アイツは俺にとって、メンバー以上の存在なんだ。アイツがいなきゃ俺はダメなんだ」そう言って、タバコを吸い終えた。

「だから、頼むよ。君みたいな忙しい年下の男の子に頭を下げるのもどうかと思う。でも、それでも、俺はどうしてもアイツといたいんだ」

 もう文脈から音楽のことが消えていた。まるで庶民のロミオとジュリエット。男はアパートの下から、ベランダに立つだらしない女に愛を叫ぶ。僕はそんな奴を哀れに思った。人生の長い時間をかけて、望みのないことをくり返えすのは愚かなことだ。僕は笑い飛ばしてやりたかった。彼の上に立って諭してやりたかった。でもそのシニカルな白い歯には、持ち主の下唇を噛むアイロニーの牙がある。すでに僕は仄かに血の匂いを口の中で泳がせている。

「わかった。できるだけやってみよう」

「まじか!?本当に助かるよ」彼は僕の手を握る。表面は硬いが、弾力のある優しい温かい手だった。

「その中身はベース?」僕は何気なく聞いた。すると彼は「あぁ、これね」と笑いながら、ケースのジッパーを開けた。中には黒いピカピカのギターが入っている。

「このジャズマスターあいつにあげようと思ってね。大金払って買ってきたんだよ。今度はこっちがこれ弾けっ!て言う番だな」そう言って、ギターを僕に見せてきた。何が何だかわからない僕は表面だけ見て「すごいね」とだけ言った。

「まぁ、こんなんで説得できるかはわからないけどね」そう言って、彼はギターをしまった。

僕も立つ時に「確かにね」と言った。彼は同意の笑いを示す。でもそこにある期待を見過ごすことはできない。僕は席を立った。

「君。忘れ物だよ」テーブルの上にある青いライターを僕に差し出した。

「これあいつのライターだね。よく失くしては同じのをコンビニで買ってたよ」彼は手の中のライターをどこか懐かしそうに見ている。

「それあげる」僕は勢いよく言葉を飛ばした。

「いいのかい?」僕は半分背を彼に向けた。

「いい。火がないと困るでしょ。それに僕にはそんなもの必要ないから」僕はそう言い残してライターを置いていった。僕はポケットに手を突っ込んで歩いた。そこには久遠に広がる空白があった。それを埋めるものは僕には到底ないように思えた。

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