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其ノ五

彼女が煙草に満足してしまうと、缶をゴミ袋に放った。そして「じゃあ、寝るよ」と言って立ち上がった。僕はこの時このまま夜を明かすものだと思っていた。でも彼女の日常はそう簡単には崩せない。たとえ、いじけた家で少年が前にいたとしても。

 僕は勝手にガラクタの山から毛布を掘り当てると、それをかぶって、テーブルの横のスペースに寝転んだ。でも洗面所から出てきた彼女に蹴り飛ばされた。

「こんなとこで寝ないでよ。朝起きて踏んづけたらどうするの」今僕を蹴り飛ばしたのはいいのかよと思ったが口には出さなかった。

「帰れってこと?」僕は投げやりに聞いた。

 彼女はベッドの上でドボンと飛び込むと、「ここで寝ればいい」平然とそう言って、彼女は自分の横に空間を作った。僕は彼女の隣を見つめてどうするべきか迷った。17の詩人はまだ女を知らなかった。ここで、今夜彼女と語り合うことになるのか。確かに、ここまでの道のりを考えてみれば、平安貴族の夜這いとやっていることが同じではないかと思った。ちょうどその時古典の授業で源氏物語をやっていたのだ。そんなパニック混じりの妄想に、産なニキビ面の青年は一喜一憂する一方で、やはり彼女は冷静だった。

「何今更緊張してんだよ。ほらおいでって」そう言って、いじらしい笑みを浮かべる。考えてみればそうだった。今の今まで手を出せたタイミングなんていくらでもあった。それを何事もなく超えてきた僕たちに、男女の結び目を作れるはずがない。僕は諦観に押し倒されて、ベッドに入った。初めて横になる彼女のマットレスの感覚はとてもいいもので、彼女が中々起きてこられない理由がわかったような気がした。 

彼女は灯りの紐に手をかけて2回引っ張ると部屋は真っ暗になった。

「全部消しちゃうの」

「こういう時は暗くしたほうが安全ってね」カーテンを貫く、青い月光が彼女の火照るような笑みを映し出した。  僕たちは二人で天井を見た。暗闇の中で密閉された空だった。その空に、星が流れる。彼女はそれを見て「あ、また流れた」と言う。中には赤色の星も流れていった。大都市の空に見える流れ星なんて、僕たちが見ていた、排気ガスと流れる星以外になかった。

「すごい綺麗だ」僕はそういうと、隣で甘い息を吐いて彼女はクスッと笑う。

「なにを願ったのなんて聞かないから安心しなよ」そう言って彼女は僕に背中を向けて、空を見るのをやめた。それでも僕は一人で空をずっと眺めていた。何度も何度も心で何かを唱えていたような気がするけど、それがなんであったかは、思い出せない。すっかり僕の願いも流れていってしまったみたいだった。

 

 隣を見ると彼女の背中が縮んだり膨らんだりしている。丸まった背筋には下着の跡がクッキリと浮かび上がっている。僕はそれをなぞろうとする指先を抑える。すると次には彼女の後ろから覆い被さりたいという叫び声が聞こえてくる。でも僕はやはり耳を塞ぐ。 

 生きた温もりを感じる。それは僕の体を伝ってきて、四肢に絡みついてくる。そしていつの間にか僕の心臓に手をかけ、そのリズムを狂わそうとしてくる。僕は彼女の隣でひたすらに耐えていた。僕が僕でいられるように。詩人が詩人でいられるように。彼女がミュージシャンでいられるように。

 さっき僕の願ったことはこんなんじゃない。もっとささやかで、それでいてとても価値あるものなんだ。そう口の中で唱えていた。


 気がつくと、一筋の光がカーテンを貫いた。4畳半に鳴り響く、遠い蝉の鳴き声。それは窓から差し込んでくる暁光の産声にも聞こえる。僕は結局一睡もできなかった。 

 僕は身を起こしてベッドの上に座った。彼女は丸まって、寝息を立てている。芳しい姿で、僕を今にも捕食者にでもしてしまいそうだった。僕は目を逸らして、テーブルにあった、アメリカンスピリットを見つめた。気がつくと僕はそのハードケースに手を伸ばしていて、中にあったタバコを一本口に咥えていた。僕はライターを手探りで探すと、ブランケットの間から見つけ出した。安っぽいフリント式の青いライターだった。僕は顔の前で見様見真似でライターをつけた。唇に挟んだタバコと火の距離が思っていたよりもだいぶ近く、僕は顔を顰めた。火をかざしても中々つけられなかった。今までの時間が、たったの数秒で打ち壊されていく気がしていた。でも、そんなビジョンはたちまち消え去った。 

 後ろから伸びてきた手が、僕のタバコをもぎ取ったのだ。「全く」という声と共に、彼女は僕の手のライターを奪い、自分の口元に持っていった。一息吸うと彼女は

「こんなもん吸うんじゃない。寿命が縮まんぞ」と言った。僕は全身から力が抜けて、彼女の隣で横になった。

「なんだよ。自分は吸ってるくせに」いじけた声が僕から溢れた。

「いいんだよアタシは。もうずいぶん生きたから」 

 見上げた空にもう星はなかった。僕は腕で自分の顔を隠していた。本当に馬鹿らしい気分だった。僕はきっとこのまま何者にもなれないんだろうだなと思った。僕から出てくるのは言葉だけ。そしてそれは決して形にはならない。「なんで僕と寝てくれないんだ」

「アハハ、だって君はまだ17なんじゃなかったのか」 

 僕は力が抜けて、片腕を顔の上に乗せた。誰にも今の顔を見られたくなかった。僕も一応は男で、それなりにプライドを持っていた。でもそのプライドは手綱を握っていなければ、飼い主を襲う猛獣であることを僕はまだ知らなかった。僕は気がついたら食われていた。食われてしまった後ではもう遅い。あとは消化されて排泄されるのを待つだけだ。無力感が僕を飲み込んだ。 

 急に何かの力で腕がどかされた。目を開けるとそこには天井はなかった。霞みがかった視界の中で、淡い色の花が咲いている。唇に仄かにその花弁の感触と、香りが舞い込んでくる。そして花はすぐに枯れてしまう。

「通報するなよ、少年」彼女の声が頭の奥の方で聞こえてきた。僕にとってこれが酩酊の意味を持つ事象だった。そしてそのまま僕は花盛りにはまだ程遠い世界から落っこちていく。短命に咲いた花は、苦くて甘い香りを残して散っていった。 


 僕が目覚めた時、もう夕方だった。そしてまたあのギターの音が聞こえてきた。僕は夢見心地のまま、時間のズレを調整していった。テーブルの前で何かを書いていた彼女は僕が起きたのを見ると

「おい、ねぼすけ。もうこんな時間だぞ」と言って、時計のない腕を叩いた。

「君には言われたくない」僕はそう言い返した。

 彼女は車で僕を家の近くまで送っていった。僕は車の中で、いつもと変わらないの世界を見ていたはずだった。でもそれは若干違う形で僕に現れる。まるで覗いていたカメラのフィルターが切り替わって、違う色の世界を写し出しているようだった。僕の目はまだ新しいフィルターに慣れることができずに、サイズの合わないスウェットの中でもがいていた。 

 彼女は僕を車で家まで送ってくれた。やはり世界には違和感があった。日暮の太陽は早朝の朝日に見え、駅から飛び出してくる人々は、家に出勤するかのようだった。やはり僕たちのいる世界は狂っていた。

そして信号待ちの時、突然僕は言った。


結婚しよう

 

 太陽が雷鳴をあげる。空に亀裂が入る。雲は後退りする。鳥は飛び立つ。時間は振動する。空間は歪む。そして世界は今、一瞬だけ、僕のために歩みを止める。 

 あれは反射的に飛び出した言葉だった。あの言葉を放った動機も覚悟も僕にはない。ひたすらに無装飾の言葉。それが車内を貫いた。そして余韻だけを残して車は走り出す。すると世界も同じように、足をまた一歩踏みだす。彼女は笑みを浮かべてハンドルを握ったままだ。この時の僕に欲しかった返事はない。結婚という言葉の意味だって知らない。ただ僕が言いたかったことを言いたいと思った時に言っただけだった。

 車が家の近くの駅に着いた時、彼女はサイドブレーキを引いて言った。「いいよ」太陽に透かされたサングラスの下の瞳がよく見えた。僕は笑みを彼女に示し、車を降りて、走り去るシティターボを見ていた。クラクションが鼻歌を歌う。まだ、大して暗くもないのに、空気に赤いテールランプが尾を引いていくのが見えた。

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