其ノ四
まだ、春の中に僕ら二人が取り残されていた時の話だ。その頃の僕はまだノックしたくなる気持ちを抑えて、ドアを開けなくてはいけなかった。彼女の言いつけに従って部屋に入ってきた僕を見るなり、咥えたタバコをプッと吐き出した。途端に雨雲で覆ったかのように部屋の気圧が下がり始める。僕は何か機嫌を損ねたのかと思って、恐る恐る「どうかしたの」と訊いた。すると彼女は「なんでそんなもん着てるの?」と言った。ジョン、ポール、リンゴ、ジョージの顔がそれぞれプリントされたTシャツだった。
「父親のお下がりだよ。結構なファンなんだ」そう言って、僕は改めてプリントを見た。「まぁ、別に僕は興味ないんだけどね」僕がそう言ったのを聞くとライターを鳴らして、「あぁ、そう。それならいいや」と言った。そして「じゃあこれからドレスコードを作るよ」と言った。そしてその日から、”ビートルズのTシャツを着てこない”というルールができた。
「アタシがビートルズ嫌いなのは知ってるはずだろ」彼女は呆れたようにベッド上で僕に言った。僕はその下で過去からようやく帰ってきたところだった。
「そういえばそうだったね」僕はだんだん現在に焦点があってくるのを感じていた。
「でも、なんでそんなに嫌いなのかは聞いたことない」彼女は灰を缶に落とす。
「別に理由なんてないよ。ただ嫌いなだけさ」タバコの先の火が燻る。
「音楽好きな人はみんなビートルズが好きなのかと思ってた」
「なら君はシェイクスピアが好きかい?」大きな煙を吐いた。僕はそのニコチンの匂いで中毒を起こしそうになる。「いや、別に好きではないけど」
「そういうこった。君は詩を書くのが好きだ。少なくとも、ノートにいくつも書き残すくらいには。でも、君はアカデミスムにのめり込む気はない。羊飼いに“お勉強”が要らないのと同じで、君にシェイクスピアは必要ないし、私にビートルズは要らない」タバコを挟んだ指で頬を押さえた。
「よくわかんないな」僕の側を煙が抜けていく。
「イエローサブマリンはもうずっと潜水してんのさ」そういって彼女はベッドに沈み込んだ。天井を向いた彼女の口からはヤニの潮が噴き出している。
「そんなのを追いかけるのはアタシの趣味じゃない。いつまで経っても60年代から抜け出せない奴らに乗らせときゃいいのさ」そう言って、またどこからか出てきたライターで新しいタバコに火をつける。でもそれはいつも見る、安っぽいターボライターではなくて、色褪せたヴィンテージ物のジッポライターだった。




