其ノ五
外に出て、錆びついた階段を登った。僕の先を行く、彼女のサンダルの足取りは軽い。でも、屋上に出てみても、やっぱり何も見えなかった。どこかで、男女の笑い声がした。そしてそれに混じって、パチパチと鳴る火花の音が聞こえてくる。
「ほら言った。あんなしょうもないの見えるわけないだろ」僕は呆れながら、鉄柵にかじりついている彼女の背中に向かって言った。どこかのカップルのささやかな線香花火に興味なんてなかった。
仮に、花火大会が行われていたとしても、ここから見えるはずなんてなかった。“ぐびじん荘” よりもずっと背の高いビルに周りを囲まれているのだ。空に打ち上がっても、地上で芽吹いても、こんなところからは拝めない。もっと高いところに行かなくては。
でも彼女の肩は落ちなかった。彼女は微かにまだ明るい真夏の夕に、小さな花を口元で咲かせた。僕は煙の中にいる彼女のそばに行って、一緒にコンクリートの背中を見た。
「花火買ってくればよかったな」彼女は自分の後悔を笑った。
「花火って柄でもなさそうだけど」僕は彼女を軽くつねって、どこかに沈んで言ってしまうのを止めた。彼女は「まあね」と言って、自分を笑い飛ばした。
「でも、君とだったら楽しめそうだな」と言って、タバコの灰を、近くにあった灰皿に落とした。なんて返していいのかわからなかった僕は、柵から下を覗いた。
「ほら、見てごらん」彼女は口にタバコを咥えたまま、僕らの頭上を指差す。
「星空だ」僕は彼女の指す方を見上げた。そこにはうっすらと、無数の小さな白い点が、今にも消えてしまいそうな勢いで輝いているのが見えるだけだった。もはやどれで三角形を作っていいのかすら分からない。
「何も見えないよ」僕は彼女がまたふざけているのかと思っていた。でも彼女の横顔は神々しく光明に揺らめている。その恍惚とした眼差しは、都会で光る幻影の星を追う。
「いや、綺麗な空だよ」彼女は本当に星空を見ていた。僕も同じようにまた見上げる。よく目を凝らして、ダークブルーに染まったシルクのようないつもの空に、美しさをみようとする。でもそこになんの魅力もなかった。
「やっぱり見えないよ」僕は空を見るのをやめた。僕だけが何も見えなかった。先に肩を落としたのは、何も期待していなかったはずの僕の方だった。彼女は僕の下がった肩に肘を置いた。
「まだ、君には早かったかね」彼女の息が僕の頬を伝う。
「そのうち見えるようになるさ」そう言ってまた空を見上げた。そして彼女はタバコを吸って、煙を吐き出した。
「嫌でも見えるようになっちまうのさ」
きっとどこかで、花火は打ち上げられて満開を迎える。どこかで、星々はつなぎ合わされて絵になる。でも僕たちのいるところには、人混みの隙間を縫ってやってくる轟音と、燻る火薬の匂いだけで、空を見ても光の花の蕾は閉じたままだった。
僕が帰る時、彼女は玄関の手前で僕のポケットに何かを突っ込んだ。なんだと思って、探るとそこに千円札と小銭がいくらか入っていた。あまりいい気持ちがしなかった僕は”?”で顔を歪ませた。僕の後ろに立った彼女は
「大人はこういう貸し借りしないんだよ」と言って、新しいタバコに火をつけた。
「そしたらこれは僕への貸しじゃないか」とぼくは彼女に突きつける。
「少年。君は大人じゃないだろ、まだ」彼女はニヤリと笑う。僕は感情だけが先走って、未消化の言葉を吐きそうになった。
でも、僕がそれを抑えるのに必死になる前に彼女は「いつかビールでも奢ってもらうさ」と言って部屋に戻っていった。タールのボンネットを被った、決して貴婦人とは呼べない女。彼女はいつもその帽子の影の中で、まるで僕を幻術の中の虚像かのように眺めていた。




