9章 落ち葉の道
道端にあふれた黄色い銀杏の葉は、雨に濡れてアスファルトに張り付いている。行き場のなくなった湿り気のあるその葉は、風も運ぶことができない厄介なゴミになる。足元を滑らせる大量の葉の上を慎重に歩きながら、凪の気持ちはバイト先へと急いでいた。
「凪ちゃん。」
呼び止められて振り向くと、以前澤村から紹介された松川が立っていた。
「なんでサークルにこないの?」
松川は凪の近くにやってきた。
「バイトがあるから。」
凪はそう言って、松川から逃げるように走り出そうとした。
「澤村さんとは会ってる?」
松川が凪の腕を掴んだ。凪は首を振ると、
「もうすぐバスがきちゃう。」
そう言って松川が掴んでいる腕を振りほどいて歩き出した。
「今度、映画でも観に行こうよ。」
少し後をつけてくる松川の言葉に動揺する事なく、凪はバス停に向かって走り出した。
一人暮らしを始めてから、会話もなくなり、心がどんどん荒んでいった。
澤村からの連絡は時々あったが、短い返信で返すだけにして、会って話そうと誘われても、理由をつけて断った。
誰かと言葉を交わすなんて、生きるためにする最低限のものでいい。きっとみんな嘘をついて、その場その場を取り繕って生きている。調子の良い澤村の態度は、凪は少し苦手だった。
以前、澤村が勧めてくれた本の中に出てきた女性は、家族の為に体を売り、やっとその仕事から開放されたと言っても、字を書く事や、生活する術を知らず、また体を売って暮らしていた。やがて、年老いてお金を手に入れる事ができなくなると、お節介な近所の人が役所に相談し、言われるままに生活保護を受給した。女性はこんなになってまでも死ぬ事のできない自分の哀れな人生を笑った。何より、体も心もボロボロになっていても、神様は辛い過去を忘れさせてくれる事もせず、しっかりとした記憶が今でも蘇ってくる。
いつまで待ってもあの世からお迎えにきてくれない。真っ当な生き方をしていない自分は、どう死んだら地獄に落ちるのかもしれないけれど、この世の中の以上の苦しみはないと思っていた。
歩く事も食べる事も1人でできなくなった今、恋という感情が、自分をひどく辛くさせた。誰かを好きになるという気持ちは、死ぬ事と以上に切なくて苦しい。人を縛りつけて、辛くさせる一方だ。
也が奪っていった自分の時間も、ずっと恨んでいる父の事も、日に日に黒く塗りつぶしたい気持ちになる。もう一度生まれ変わるなら、いや、生まれ変わるなんてまっぴらだ。
スーパーが閉店する22時。
ギリギリに中に入ってきた澤村が、レジを打つ凪に声を掛けた。
「すぐそこで、待ってるから。」
たくさんの野菜を買った澤村は、そう言って店を出ていった。
凪は澤村の車が、正面の近くで待っているのがわかったけれど、ミラーに自分の姿が映らないように俯きながら走って後ろを通っていくと、すぐに澤村に見つかり、車が後をつけてきた。
「凪ちゃん、ずるいよ。」
澤村は凪の横で車を止めた。運転席から降りてきた澤村は、
「どれだけ逃げても、その手袋でわかるから。」
そう言って凪を車に乗せた。何も話そうとしない凪に、
「なんでそんなに怒っているの?」
澤村はからかう様な笑顔で、凪が不機嫌な理由を聞いてきた。
「別に話すこともないし。」
凪が不貞腐れてそう言うと、
「話すこともがなくても、一緒にいたいんだよ。」
澤村が言った。
「私といても、つまらないですよ。」
凪は膝の上で手をギュッと握った。
「つまらないかどうかは、俺が思うことだろう。」
澤村はハンドルを握りなから、少し笑っている様に感じる。
「いつもそうやって女の人を騙してきたんですか?」
凪は握っている手を合わせて強く結んだ。
「騙したりなんかしないよ。凪ちゃんは、きっと最初から誰も信じていないんだろうな。」
「そうやって生きてきたから、どうする事もできない。」
「なんかそういうのって、俺と似てる。」
「澤村さんとは違います!」
凪が少し大きな声でそう言うと、
「凪ちゃん、お腹空いただろう。鍋でもしようか。」
澤村はそう言って話しを反らした。
「誰もそんな話しをしていませんよ。」
凪の怒った顔を見て、澤村は吹き出した。
「本当に子供だね。」
澤村のアパートの玄関の前で、凪は固まっていた。
「やっぱり帰ります。」
そう言って振り返ると、
「凪ちゃんの家には大きな鍋がないって言ってただろう?」
澤村は凪を引き留めた。
「鍋なんか食べなくてもいいですから。」
振り返った凪の腕を掴んだ澤村は、無理やり玄関の中に入れた。
「ちょっと、廊下で騒ぐと怪しまれるだろう。」
「怪しい事をしてるのは澤村さんでしょう!」
「ただ鍋を食べようとしてるだけだろう。別の事を妄想してるのは凪ちゃんの方。」
真っ赤になって俯いた凪を覗き込んだ澤村は、
「凪ちゃんがそうやって妄想してるんなら、それを現実にしてもいいんだけど。」
凪の頬を触れ、凪の唇に近づいた。
後ずさりをした凪の頭を撫でると、
「おいで。」
そう言って部屋の中に凪を引っ張った。凪はバラバラになった靴をしゃがんで揃える。
逃げ出したい気持ちと、澤村の手の温かさにもう少し触れていたいと思う気持ちが交差する。揶揄われているのはわかっているし、澤村にとっては大勢の中の1人で、時間潰しに自分を誘っているのだろう。それでも、それを振りほどけない今の自分は、寂しさが体中から悲鳴を上げているのかもしれない。
「凪ちゃん?」
凪の背中を触る澤村の手のひらに、騒ぎ出した感情が知られない様に、凪は顔を覆った。
澤村は青い手袋で包まれた凪の顔を覗き込むと、
「野菜、切ってくれる?」
そう言って凪を立たせた。
「ごめん。どうしても鍋が食べたくてね。こういうのって1人だとつまらないだろう。帰りはちゃんと送って行くから、少しだけ俺のわがままに付き合ってよ。」
澤村の言葉に凪は手袋を脱いでコートのポケットに入れた。
「こっち。」
案内された澤村の部屋は、とても綺麗に整頓してあった。
「お手伝いさんでもいるんですか?」
凪は澤村に聞いた。
「物がないんだよ。何かを置くと、気になってしまうから。」
「厳しい家で育ったの?」
「違うよ。うちは父親と弟の2人。」
「お母さんは?」
「幼い頃に出ていってそれっきり。」
「もしかしてそれも嘘?」
「ひどいなぁ、凪ちゃんには何を言っても嘘だって思われてるのか…。」
「本当の事?」
「そうだよ。だから、俺は誰かと付き合っても、どこか冷めてる自分がいる。」
「もしかして、女の人に仕返しをしてるんだとか?」
「そうかもしれないね。そんな風にはっきり言ったのは凪ちゃんが初めてだけど。」
凪はコートを脱いでキッチンへ向かった。はっきりと澤村の気持ちを聞いたら、なんだかホッとした。この人はきっと自分と同じだ。
「食べたら帰ります。私もけっこう貪欲な奴だから。」
凪の隣りに並んだ澤村は、袋から出した野菜を凪に渡した。
「切ったらこれに入れて。」
「洗いましょうよ。ザルはどこですか?」
「ここにある。」
2人で話しながら作った鍋は、どんな味がするのか想像ができなかった。味がしなければ、ポン酢でもかければいいと澤村は言ったが、水に浸しただけのまだ硬そうな野菜達は、これでもいいのかとこっちを見ている様だった。
「もう少し待った方がいいんじゃない?」
凪が言うと、
「俺はいいけど、凪ちゃんは?」
澤村は壁に掛かっている時計に指を差した。時計の針は22時を回っていた。急いで用意をしたようでも、バイトが終わったのは21時だった。これから、食べて後片付けをすると、23時を回ってしまう。
「もうすこしだけ、待ってみます。」
凪はそう言うと、もう一度鍋を火に掛けた。
「明日の授業は何時から?」
「11時です。澤村さんこそ、仕事にいかないとダメなんだし。」
「そうだね。俺もそろそろ寝ないとダメかも。」
「澤村さん、私帰ります。鍋は澤村さんが1人で食べてください。一緒に作って、それだけで楽しかったです。」
凪が立ち上がると、
「馬鹿言うなよ。食べないで帰るなんてなんのために2人で作ったんだ。」
「だってもう遅いし。」
「じゃあさ、俺、風呂に入ってくるから、凪ちゃんは鍋を見ててよ。」
「わかりました。」
凪は渋々、鍋の前でもう一度座ると、私だって帰ってお風呂に入りたいのに、そう思いながら澤村の背中を見ていた。
鍋の野菜が柔らかくなったので、凪は火を止めた。
バンバンと窓を風が叩く音がして、カーテンを少し開けると、今にも体が持っていかれそうなくらいの雨交じりの風が吹いていた。
「降ってきちゃったか。」
お風呂から上がってきた澤村が言った。
「凪ちゃん、早く入っておいでよ。」
澤村は凪を浴室へ案内した。
「タクシー呼んで帰りますから。」
凪が言うと、
「無茶言うなよ。ここら辺は呼んでもなかなかタクシーはこないって。」
俯いた凪の顔を覗いた澤村は、
「早く入ってきてよ。俺、腹減ってるんだ。」
そう言った。
用意してあったTシャツと短パンに着替えた凪は、澤村が待っているテーブルの前に座った。
「ちょうどいい頃だよ。」
澤村が鍋の蓋を開けると、温かい空気が、部屋の真ん中に広がった。久しぶりに見た大きなの鍋は、凪の心にも温かい湯気を立てた。
「美味しそうだね。」
凪は自然と顔がほころんだ。
「食べようか。」
「うん。」
後片付けを終えた時には時計はもう0時を回っていた。
「ここで寝るといいよ。」
澤村はベッドに凪を案内した。
「澤村さんは?」
「俺はソファーで寝るから。」
「明日仕事があるんですから、澤村さんはこっちで寝てくださいよ。私がそっちで寝ますから。」
「誘ったのはこっちなんだし、俺は凪ちゃんを騙す事はできないよ。」
凪はソファーに横になると、肘掛けに頭をつけた。
「澤村さん、何か掛けてください。思ったよりも少し寒いから。」
凪が言った。澤村は凪の頭を撫でると、
「凪ちゃん、もしかして、俺に仕返しているのかい?」
そう言った。
「私の父は、しばらく家には帰って来てません。だったら結婚なんてしなきゃ良かったのに、そう思います。」
凪はそう言うと、澤村に背中をむけた。
「それじゃあ、凪ちゃんは生まれなかっただろう。」
「生まれなきゃ良かったんですよ。」
凪は背中を丸くした。
「こっちにおいで。俺は何もしないから。」
澤村は凪をベッドに連れていった。
澤村の腕の中に優しく包まれると、
「好きな子がそばにいるのに、一晩中何もしないなんて、けっこう辛いんだよ。」
澤村はそう言って凪のおでこにキスをした。
「今の話し、全部嘘ですよ。軽蔑してください。」
澤村は目を合わせようとしない凪の顔を見つめた。
「わかってるよ。凪ちゃんは嘘をつけない人間だってね。」
澤村はすこし笑うと、凪をきつく抱きしめた。
次の日の朝。
何かが頬にあたった気がして凪は目を開けた。
先に起きていた澤村が、さっきから凪の頬を手で触っていた。
「おはよう。」
澤村が凪を見つめて微笑むと、凪は急に恥ずかしくなって俯いた。
「凪ちゃん、いい加減大人になれよ。」
澤村は凪の顔を自分にむけた。
「おはようございます。」
凪が小さな声で言うと、
「眠れたかい?」
澤村は言った。
凪はどうやって答えたらいいのかわからず、ベッドから起き上がると、澤村から見えない場所で服を着替え始めた。
「帰ります。」
まだベッドにいる澤村にむかって言った凪は、玄関に向かった。
「送っていくっていっただろう。」
澤村が玄関にやってきた。
「楽しかったです。考えたい事がいろいろあるから、歩いて帰ります。ありがとうございました。」
凪は玄関を出た。
早朝の秋の風は、手袋をしていても指先を冷たくした。2人でいた温かさが、急に1人になった体を冷やすと、あの本の女性の最期を思い出した。
施設で最期を迎えた女性は、大好きな人に看取られて天国へ旅立った。女性の手を握っていた若い介護士の男性は、少女の様な顔の女性の髪を梳かした。
女性の人生は幸せだったのか、不幸だったのか。
忘れる事は、辛そうに思えるけれど、神様がくれる贈り物だと女性は言った。もし、自分にも神様が贈り物をくれるなら、憎んでいる人なんて誰もいなくなる。今すぐに贈り物の箱を開ける事ができるなら、澤村の前で、もっと素直に笑っていられるのに。