8章 音だけの花火
霧の中に上がった花火は、自分達が見ている世界とか違う場所では、はっきりとその形が見えているのかもしれないと思うと、音だけが大きく聞こえる夜空の少しむこうを眺めていた。
大学の図書館でぼんやりと本のタイトルを眺めていた凪は、也に貸した本を見つけた。
貸したままになっている風車男の本は、きっと忘れられてどこかへいってしまったんだろう。ついこの前まで、ただ大人に不満をぶつけていたあの頃が、なんだかとても遠い昔の様に感じる。
何もできない自分の無力さを実感すると、黙って世の中に組み込まれてしまった方が、ずっと簡単な事なんだと思った。風車がどんな風に回っているかなんて知ろうとしなくても、そんなもんなんだと思って生きていれば、この先、風が流れるまま、ぼんやりと暮していける。
「凪ちゃん。」
澤村がやってきた。
「取ってあげるよ。」
澤村は高い棚から1冊の本を取って凪に渡すと、
「これ、読んでみるといいよ。」
そう言った。
「実話なの?」
凪が本をパラパラと捲った。
「そう、実話。」
澤村は貸し出しのカウンターに凪を連れて行くと、
「よう!」
近くにいた学生が澤村に手を振る。
「澤村さん、久しぶりですね。」
男性が澤村の近くにやってきた。
「松川、この子は1年。サークルに入れてやれよ。」
澤村の言葉に、凪は首も手も振って、その誘いを断った。
「凪ちゃん、サークルなんて名ばかりなんだ。集まってダラダラと話したり、テニスなんか時々してみたり。こいつはさ、映画とかいろいろと詳しいから、好みの話しを探してもらうといいよ。」
澤村から紹介されたその男性は、
「俺、3年の松川祐治。毎週水曜日の夕方、13教室に集まってるからおいでよ。」
そう言って凪の肩にポンッと手を置いた。
澤村が松川と何か話している間、凪は2人から少し離れて手に持っている本を少し読み始めた。
〚 老人ホームに勤めていた若い介護士の女性は、夜勤の見回りをしていると、昨日入所したばかりの99歳の女性から手を掴まれた。
高齢の女性は自分が幼いの頃、貧しかった家を助けるために、当時は女郎小屋と呼ばれる店で、働いていた過去を話し始める。恋愛なんて無縁の人生は、誰かを好きになる事どころか、人を信じるという事さえも知らず、このまま終末を迎えるのかと思っていた。
昨日、病院からこのホームへやってきた時、若い介護士の男性の事が、気になって仕方ないと言う。高齢の女性はその事を介護士の女性に打ち明けた。
99年目にして初めて覚えた恋という感情は、大好きな男性が自分の下の世話をするためにズボンに手を掛けた時、恥ずかしくて、このまま死んでしたいと思ったという。
いっそボケてしまえば良かったのに、神様は最後まで意地悪だ、高齢の女性はそう言って、自分の胸に手をあてた。 〛
「ごめん、待たせたね。凪ちゃん、これから花火が上がるんだよ。一緒に見に行こうか。」
入り口の席に座って本を読んでいた凪に澤村が言った。
「花火って、こんな季節に?」
「そう。町の商店街がやるイベント。どこから上がるかわからないから、毎年見晴らしのいい大学の屋上に人が集まるんだ。」
普段は入る事のできない屋上に続く階段の前には、立ち入り禁止の立て看板がなくなっていた。澤村の後をついて行った大学の屋上には、もうすでにたくさんの人が集まっている。
「こんなに曇っているけど、中止にはしないの?」
凪は空を見上げながら澤村に聞いた。
「雨は振ってないだろう。だからきっと上がるよ。」
澤村は手すりの近くまで凪を連れて行くと、次から次にいろんな人から声を掛けられて話しをしていた。
ついこの間まで、ここへ通っていたと言っても、こんなに知り合いの多い澤村の人柄に、凪の気持ちが少し後ずさりした。
「宗!」
綺麗なパンプスを履いた女性が宗の前にきた。
「おぉ、元気か?」
澤村はそう言って女性に少し微笑んだ。
「紐、解けてるよ。」
女性は凪のスニーカーを指さすと、
「宗の新しい彼女?」
澤村に聞いていた。
しゃがんで紐を縛っていた凪には、澤村がどんな顔をしたのかはわからないけれど、立ち上がると女性が去っていく後ろ姿が見えた。水色のワンピースの裾がヒラヒラと風に舞っている。
「寒くない?」
澤村が凪に言った。
「うん。大丈夫。」
凪は女性の後ろ姿を眺めながら答えた。
「小雨が降ってきたね。」
澤村はそう言って空を見上げた。
ボンッボンッと音だけなる花火は、ぼんやりとした色が見える度にため息に変わる。
「どうしても、今日じゃなきゃダメだったの?」
凪は澤村に聞いた。
「ダメだったんだろうね。」
澤村はそう言って笑った。
「家まで送るよ。俺、車だから。」
「大丈夫です。最終のバスにまだ間に合います。」
凪は澤村から少し離れた。
「同じ方向だろう。遠慮しないで乗っていきなよ。」
「ううん。大丈夫。本、帰って読みますね。」
凪は後ろを振り向くとバス停まで歩き出した。
小雨に濡れた前髪から、小さな雫が目に落ちた。
本の中の女性が言うように、抱えてきた思い出なんて全部忘れてしまえば、こんなにぎこちなく人と距離をとろうとする事もないのに。誰かを想う感情なんか、初めから必要ないものだったんだよ。
凪はさっきの女性の綺麗なパンプスを思い出し、紐が解けているどうしようもない自分の事を笑った。
也とはずっと一緒だったから、離れるなんて信じられなかった。お父さんも、自分にとってはいつもお父さんで、男の欲望なんてさっさと手放したものだと思っていた。なんの躊躇いもなく手を繋ぐ事ができたあの頃にもう一度戻れるなら、この先もずっと笑っていられる関係でいようと約束をしたのに。大人になんか、なるんじゃなかった。
「凪ちゃん。」
澤村が後を追ってきた。
「ちゃんと送るから、乗って。」
澤村は凪の腕を掴んで駐車場に向かった。
「誘ったのはこっちだし、けっこう冷えてきたから。」
澤村の車の助手席に乗ると、急に冷え切った体がカタカタと震えた。
「ほら、やっぱり寒かったんだろう。」
澤村はヒーターを全開にした。
「すぐに温まるから。」
車が走り出すと、雨が本降りになった。
「危なかったね。あのままバス停にいたら、ずぶ濡れになっていたよ。」
澤村はそう言うとワイパーを掛けた。
「大丈夫です。傘、持ってますから。」
「そんな優しい雨じゃないだろう。それに凪ちゃんの様にぼんやりしていると、傘を開く前にずぶ濡れになってしまうよ。」
澤村の言葉に、
「そうかも。」
凪は俯いて笑った。
「そういえば、片方の手袋はあった?」
「ありました。コートのポケットにちゃんと入ってました。」
「それは良かった。」
「あの、」
「何?」
「そんな価値のないもの、捨ててしまっても良かったのに。」
凪が俯いたままそう言うと、
「また、会いたいと思ってさ。」
澤村の言葉に凪は顔を曇らせた。
「おかしな人ですね。」
凪はそう言って、小さくため息をついた。
「凪ちゃん、お腹減ってない?」
「減ってないです。」
「だって、このまま帰っても食べるものなんてないだろう?」
「何かしらありますよ。」
「じゃあ、俺にもその何かしらを食べさせてよ。」
「ダメですよ。適当だから人にはあげられません。」
「適当でもぜんぜんいいんだけどな。」
「澤村さんは昨日のラーメン屋さんにでも行けばいいでしょう。」
「それがさ、今日は定休日なんだ。」
「じゃあ、コンビニにでも行ってくださいよ。」
「凪ちゃん、さっきの本の中に出てくる若い介護士はは俺の先輩。」
「えっ、本当に?」
「そうだよ。もう少し詳しく話しを聞きたいと思わない?」
「詳しく聞きたいです。」
「じゃあ、決まり。俺の家に行こうか。」
「今日ですか?」
「ご飯も食べさせてあげるから。」
「やめておきます。また今度。」
凪が言った。
「困ったなあ。どうやって誘ったら家にきてくれんだろう。」
車は信号待ちで停まった。
「帰ります。図々しいですけれど、家まで送ってください。」
困っている凪の様子を見て、澤村はそれ以上何も言えなくなった。
「わかったよ。せっかくの休みの日だったのに、ごめんね。」