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5章 重い冬服

 10月。

 久しぶりに袖を通した冬服のブレザーは、こんなに重かったのかと錯覚するほど、肩が凝って仕方なかった。学校全体が重く暗い景色に変わると、いよいよこの町で暮らすのも、あと僅かだという実感が湧いてくる。


「藤澤、願書は明日までだからな。」

 担任にそう言われた凪は、とっくに出来上がっている願書をもう一度カバンにしまった。

 本当はまだこの町にいたいのに。

 自分が選択できる数少ない道を、何度も振り返りながら進もうとしている。それが、心から選んでいない道だとしても、後ろに続く道がない以上、なんとか歩いていくしかないのだろうか。

 父に対する仕返しと、母の意地のために選んだ学校は、よほどの失敗をしない限り、確実に入学ができる学校推薦での受験。悪あがきをしようにも、自分のせいでいくつかの信用が消えてしまうのかと思うと、素直にそれに従うしかなかった。

「学校に行かしてもらえるだけ、ありがたいと思え。」

 進路指導の教師はそう言った。たいして頭がいいわけでも、勉強への情熱があるわけでもなく、ただ、大学に行った方が就職に有利だとか、生涯賃金が高いとか、そんな理由で前に進む。

 希望と現実を履き違えた世の中の事情は、自立とは名ばかりの風が吹いている。男女平等と言いながら、女なんかとか、男のくせにとか、結局誰かのせいにして生きているじゃないか。

 働いたって自分の事だけで精一杯の世の中は、卵を産むために飼われた鶏と同じ。いつしか役に立たなくなって、硬い肉だと罵られ、そのままゴミ箱に捨てられていく。

 

 職員室に入学願書を持っていった凪は、

「受験料、ちゃんと振り込むんだぞ。」

 そう担任に言われた。

「はい。」

 凪が職員室を出ようとした時、

「藤澤、明日からの面接の練習するから、答えを頭にいれておけ。」

 進路指導の先生が凪にプリントを渡した。

 当たり障りのない答えなど、感情をなくしてしまえばすぐに演じられるっていうのに。私の被っている仮面を馬鹿にしないで。


 2年になって進学クラスに編入した凪は、入学してからずっと特進クラスにいた生徒達とは、なかなか打ち解けられずにいた。唯一、遥だけが、クラスの中で凪に話し掛ける存在で、2人はいつも、一緒に過ごしていた。

 1年の頃、遥と仲が良かった進学クラスの友人は、自分と入れ替わりで通常クラスへ移動になったのだと、遥から聞いた。本当なら凪を嫌ってもおかしくないのに、育ちのいい遥は、1人でいる凪に優しくしてくれた。

 也と同じクラスに入った遥の友人は、案外すぐに皆に溶け込んで、あっという間にクラスの中心的な存在になっていると也から聞いた。通常クラスに移動になった事を、かえって良かったと思っているようだった。

 自分だって、あのまま也と同じクラスで過ごしていたら、もう少し楽しい高校生活を送ることができたかもしれないのに。

 1年の終わり、進学クラスへの移動を聞いた母は、すぐに学校へ連絡を取った。石橋を叩いても渡らない性格の母にとって、少しでも、人よりも多くの安心を手に入れる事は、その先が明るく見えた気持ちになったんだろう。

 母に反発したのは、その時くらいだったのかも。周りに言われるまま流されて、何もかも中途半端な自分。誘われて入ったソフトボール部では、後輩に冷やかされながら、3年間ベンチを温め続けた。

 自分をソフト部に誘ったその子は、途中で好きな先輩ができたからと、さっさとテニス部に転部し、自分は辞める理由が見つからないまま、レギュラーになれる見込みのない立場で、ダラダラと3年間をやり過ごした。もし、本当にやりたい何かを選んでいたら、もう少し前向きに生きていけたかもしれないのに。時々無性に泣けてくる夜があった。本当はやりたい事もないくせに、できる事もないくせに、自分の可能性をまだ信じようとしている情けない心が、急に溶け出して涙になる。

 選んできた道の先は、どんどん暗くて細くなっていく。その先に道がなくても、大丈夫だと笑って歩いていく日が、もうすぐやってくる。

 

 月曜日の休み時間。

「藤澤さん、席変わってくれない?」

 後ろの席の女子が凪に言った。

「うん。」

 凪はその子の席のある一番後ろへ移動した。

「ありがとう。ここなら、居眠りしてもバレないでしょ。」

 その子はそう言うと、凪の隣りの席だった男の子に、問題集を見せて解き方を聞いていた。

「あの2人は医大に行くらしいよ。」

 遥が言った。

「へぇ~。」

 難関校を受験しようとしているクラスメイト達は、受験を知らずに進学する凪に、どこか冷ややかな態度だった。元々、場違いの自分の存在は、とうとう最後まで、このクラスの邪魔でしかなかったのか。

 

 受験の日の朝。

 1人で泊まっていたホテルから、駅に向かって歩いていた。地元にはめったにない高いビルや、少し歩くだけでいろんなコンビニがひしめき合っている町の風景は、自分の様な田舎者の存在をクスクスと笑っている様だった。

 一辺倒だった面接試験を終えると、バスの時間までまだ少し時間があるので、凪は大学の図書館に入った。高校の図書室とは比べものにならない本の多さに、凪は歩いて本棚を1列ずつ見て回った。出会って事のない専門書や、たくさんの資料。本棚の上を呆気に取られて眺めていると、

「取ってあげようか?」

 そう声を掛けられた。

「いえ、私は…。」

 凪が慌てて図書館を出た。

 バス停まで走って行くと、乗るはずのバスが停まっているのが見えた。

 あっ、手袋。

 凪はコートのポケットに入っていた手袋がない事に気がつくと、片方だけ残った手袋を、もう一度ポケットにしまった。周りに聞こえない様に小さくため息をつくと、目を閉じて手すりにもたれた。

 どこで落としたんだろう。買ったばっかりの手袋だったのに。


 12月。

 共通テストが近くなると、クラスの雰囲気が一層ピリピリしていた。

 そんな中、遥は雅紀と也と4人で、クリスマスパーティーをしようと凪を誘った。

 終業式の後、遥の家で集まる事になった4人は、その日は遅くまで話し込んだ。

 最終の汽車になんとか間に合った凪と也は、乗客なんてほとんどいない冷え切った座席に座ると、走り続けたせいで息が上がっている胸を押さえ、凪は呼吸を整えた。

「凪、足、遅っせーよ。」 

 也が笑った。

「それね、佐藤くんにも言われた。」

 凪は也に釣られて笑った。

「楽しかったな。」

「うん。」

「みんな離れ離れになると思ったら、4人とも同じ町の大学に行くなんて、びっくりしたよ。今度は遅くなったら、誰かの家に泊まる事もできるんだよな。」

 也が言った。

「そっか、これからみんな一人暮らしになるんだっけ。」

「凪、寂しくなったら家にこいよ。」

「私は遥の家に行くから大丈夫。」

「佐伯の家には雅紀が行くだろう。それを邪魔するなって。」

 也の言葉に、凪は少し変な気持ちになった。

 そっか、これからは自分達を見張るものがなくなるんだ。好きな時に会って自由な時間を過ごせる。遠くに思えていた男と女の体の関係も、そのうち越えて、また別の欲望が生まれてくるんだ。

「なんか、そういうのって嫌な感じ。」

 凪は自分の想像を隠すように也に言った。

「いい加減、大人になれよ。」

 也は凪の頬を包んだ。静かに近づいてくる也の顔を寸前で避けると、

「バカ。」

 そう言って也の肩を両手で押し返した。

「なんだよ、こっちは本気だったのに。」

 俯く凪の顔を也は覗き込んだ

「友達はずっと友達。」

 凪は也と目を合わせず、そのまま窓を見つめた。

 少し沈黙が生まれた。

 早くなった鼓動が也に聞かれているかもしれないと、凪は息さえも恥ずかしくて止めた。

「凪の彼氏になるやつはどんなやつなんだろうな。」

 也の言葉は重い空気を壊した。

「さあね。」

 凪が息を戻して也にそう言うと、

「お前が変な本を読んでいる間、黙って待っててくれる奴は草々いないぞ。」

 也は笑っている。

「だから変な本じゃないって。」 

 凪が也に視線を合わせると、

「空想の世界と現実の間にある話しって、けっこうタチが悪いよ。」

 也は凪の肩にポンっと手を置いた。

「もしかしたら本当にこんな事が起こるかもしれないって、不安にならない?」

 凪が言った。

「そうだな。」

「ねぇ、あの本、面白かったでしょう?」

「あっ、あれ、俺の家に置いたまんまだった。」

「全部読んだの?」

「ああ、全部読んだよ。あの話しってさあ、結局、風車男なんていなかったって事だよな。若者達は止まっている風車を、自分達で回し始めてしまったんだ。」

「えー、そう?そっか、そんな考えもあるんだ。」

 凪は也の顔を見て少し微笑んだ。

「現実の世界だって同じ様な事が起きてるだろう。たくさんひどい事が起きているのに、みんなそれに気が付いていないだけ。」

 凪は也の話しを聞いてまた少し俯いた。そんな事ないよ。気がついていても、自分達ではどうする事もできないだけ。

「凪。」

「何?」

 也は凪に近づくと、一瞬、凪の唇に自分の唇を重ねた。驚いた凪が逃げようとすると、

「ごめん。」

 そう言って凪の頭に軽く手を乗せた。 

 力が抜けた凪は、也を拒絶する言葉も、也に近づこうとする言葉も見つからない。

「凪、ずっと好きだったんだよ。」  

 也はそう言って凪の手を握った。

「嘘ばっかり。途切れる事なく彼女がいたくせに。」

 凪の目に涙が湧いてくる。

 なんでだろう。  

 ずっと今まで、自分はこの日を待っていたのかな。

 也は下をむいている凪に目を合わせると、もう一度、凪に唇を重ねた。 



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