4章 ほどけた靴紐
気持ちとは裏腹に晴れ渡った空は、いつもよりも青色が濃い感じがする。少し大きいスニーカーにきつく結んだ靴紐は、しっかり結んだつもりでも、すぐにとほどけてしまう。この前まではピッタリだったはずなのに、今日は靴下のせいなのか、靴の中で足の指が笑っている様だ。
待ち合わせの図書館まで母に送ってもらう。
「お母さん、今日は仕事なの?」
凪は母に聞いた。
「これから不動産屋に行くの。」
母はそう言って深く息を吐いた。
「ふ~ん。やっぱり、家を売っちゃうの?」
「そうね。凪やお姉ちゃんには悪いけど、お母さん1人じゃ、あの家は広すぎるから。」
「こっちに戻ってきたら、どうすればいいの?」
「アパートを借りたらいいじゃない。それに、こんな田舎じゃあ、就職できる会社なんてどこにもないわよ。」
「そうじゃなくて、夏休みに帰ってきたら、私の寝る場所はどうするのかなって。」
「大丈夫よ。凪が泊まれる部屋があるアパートを探すから。」
「ねぇ、お母さん。お父さんとは離婚しないの?それってもしかして私のせい?」
「違うわよ。凪のせいじゃない。」
母はそれ以上何も言わなかった。
それぞれが新しい生活にむかって動いている。
自分だってあと少し経てば、社会に出て、期末テストを迎える前の苦痛なんて、なんてことない悩みだったと思うのだろう。
本当は嫌いなんでしょう?それなのに、繋がっている意味ってあるのかな。
「おはよう。」
先についていた遥が凪の隣りに並んだ。
「おはよう。」
凪はほどけていた靴紐をしゃがんで結んだ。
「凪、神様っているんだね。」
紐を縛り終えて立ち上がった凪が遥の顔を見ると、ほんのりと唇がツヤツヤとしたピンク色をしている。
遥のスカートの裾が風に舞ってふわりと開いた。
「遥、化粧してるの?」
「うん、少し。」
夏の高い青空の下は、映画のワンシーンみたいにキラキラとした瞬間が止まっている様に感じる。
灰色がかった自分のくすんだ感情は、重く立ち込める曇り空の方が恋しくなる。
「おはよう。」
也と雅紀がやってきた。
「腹減ったなぁ。図書館行く前にどっかで飯にしようか。」
也がそう言って4人は歩き出した。凪はまっすぐに図書館へ行かない事が不本意だったけれど、その場の空気を壊すわけにもいかず、遥の隣りを黙って歩いた。
「凪、紐ほどけてるぞ。」
也が振り返って遥の足元を見た。
「本当だ。」
凪がしゃがむと、也も一緒にしゃがんだ。
「紐が長いんじゃないのか?」
「そうかも。」
遥と雅紀が先を歩いている。凪は立ち上がって2人を見つめると、少し後ろからゆっくり歩き始めた。
「あの本、読んだの?」
凪は也に言った。
「半分までな。あの本を書いた人って、きっと劣等感の塊なんだろうな。」
「どうして?」
「人生がうまくいってたら、あんな話しなんて思い浮かばないだろうから。」
「そっか、そうだね。」
ファミレスについた4人は、結局ダラダラと話しを続け、図書館についた頃には午後3時を回っていた。
也と雅紀は遥から数学の問題を教えてもらっている間、凪は古い本の匂いの立ち込める本棚を眺めていた。いくつかの本を手にとっては、最後のページだけを読んで本棚に戻す事を繰り返した。
「四球なんか狙うなよ。三振して試合を終わらせてこい。」
そう言って監督から代打を任されたあの時の気持ちが時々蘇る。あの時と同じくらい虚しい気持ちが書いてある最後のページには、こんなにたくさん本があっても、なかなか出会う事ができない。
なんでこんな役割に選ばれたのかな。1年の時のクラスメイトから誘われて始めたソフトボールだったけれど、あの時、別の部活に入るからと断っていたら、辛くて消し去りたい思い出に縛り付けられる事もなかったのに。
凪がほどけた靴紐を結んでいると、也がそこにやってきた。
「雅紀達、もう帰ったよ。」
「えっ?」
「俺達もそろそろ駅まで行こうか。」
「うん。」
凪は一冊の本を手に取ると、
「これ、借りてくるから待ってて。」
そう言ってカウンターにむかった。
「凪。」
「ん?」
図書館から出た2人は、夕暮れの坂道を一緒に下っている。
「雅紀達、うまくいきそうだな。」
「そっか。」
凪にはコロコロと変わる遥と雅紀の気持ちが理解できなかった。
「凪はそれで良かったのかよ。」
「何が?」
「俺が雅紀に言ったんだ。凪の事が好きだったって。」
「何言ってんの?」
「お前の様な奴を想ってくれるなんてない事だぞ。それとも、俺の事が好きなのか?」
「勝手な話し。」
「否定はしないのかよ。」
「何を否定するの?」
「凪が俺の事を好きだって事。」
「そんな事、あり得ないから。」
也は突然しゃがむと、凪のほどけた靴紐を結んだ。
「こうして二重にすると取れないよ。」
也は2つの結び目を作ると、凪はもう片方、それを真似て結んだ。
「本当だ。もう大丈夫。」
「凪。」
「何?」
「ずっと一緒にいたから、離れるなんて想像できないな。」
也は真面目な顔で凪を見つめると、
「これからの時間の方が長いからね。ここであった事なんてすぐに忘れるよ。」
凪はそう言って歩き始めた。
「ねぇ、也はここから離れるの?」
「そうだな。ここでは希望する勉強ができないから。」
「何の勉強がしたいの?」
「俺はさ、生物とか自然とかそんな勉強がしたくてさ。」
「へぇ~、それってなんか漠然としてるね。」
「これから勉強するんだし、まだよくわからなくてもいいだろう。」
「それで、将来は何になろうとしてるの?どんな会社に入りたいの?」
「凪は少し先を見過ぎるんだよ。就職するためにいく大学もあるけど、勉強して、いろいろ考えて将来を選んだって、それはそれでいいだろう。」
「余裕がある人はそう言うんだよ。1人で生活できる様になるためには、社会に出て即戦力になれる知識を身に付けないとダメなのに。上の学校に行くって事は、そういう事だと思うけど。」
「凪は未だに、お国のために尽くすって思ってんのか?社会とか周りとか、そんな事に縛られないで、好きな事をやればいいじゃないか。」
「私はそうやって割り切る事ができないの。みんなに合わせて目立たないように生きてる方が、ずっと楽だと思っているから。」
「じゃあさ、幼馴染と結婚して、2人くらい子供作って、仕事は続けてもいいけど、子育て優先の約束で、家事はお互いに分担して、たまの休みはみんなで出掛けて、定年しても生きがいのための趣味を見つけて、そうやって普通に暮らしていくのが、凪は理想なのか?」
「そんな、まだわからないよ。」
「あんまり悩むなよ。」
也は凪の頭を触った。
ふと見えた、信号待ちの車の運転席にいる男性は、自分の父だった。楽しそうに笑っている父の隣りには、こちらからは見えないけれど、一緒に暮らしているはずの女性がいるのだろう。後部座席に少しだけ見えた小さな男の子が、家で1人で待っている母の憎しみが羽交い締めしている様に思えた。
「也。」
「ん?」
「一緒に風車を止めに行こうか。」
凪はそう言って、零れそうになっている涙を手で拭った。
「どうしたんだよ、急に。」
「誰かが止めに行かないと、ずっと世の中はおかしなままだよ。」
堪えきれず溢れ出した涙は、アスファルトに落ちた。
「凪が行かなくても、別の誰かがそのうち止めに行くから。」
也はそう言って凪の頭を撫でた。
家に着くと、当たり前の様に夕飯の匂いがした。
いつもと変わらない母の背中に、凪は涙が止まらなくなった。
「どうしたの?」
母が凪の近くにやってきた。
「お母さん、学費も生活費もお父さんに全部出してもらうつもりだから。私が大学を卒業するまでは、絶対に別れないでね。」
凪はそう言って自分の部屋にむかった。
〝今日はありがとう〟
遥からラインがきた。
凪は涙で滲んでいた文字に顔を近づけると、
〝たくさん話せた?〟
そう返信した。
〝2人が気を使ってくれたおかげ〟
〝それは良かった〟
遥。
本当は好きなんて感情はまやかしだよ。
信じられるものなんて何もないよ。
凪は枕に顔をうずめると声を押し殺して泣いた。