1章 最後のページ
もうすぐ夏がくる。
目の前に広がったぼやけた稜線は、頂のあたりの雪が解け始めている様に感じさせる。もう何年も前からこの景色を見ているのに、初めてそれを迎えるような勘違いした生暖かさが、さっきから私の肩を叩いている。
人が行き来している駅の待合で、小説を読んでいた藤澤凪は、冷たいホームにむかって階段を降りはじめた。コツコツとアスファルトに響く乾いた足音は、つま先から踝にかけて、痺れに似た痛みを思い出させる。
「凪、落としたぞ。」
幼馴染の渋谷也が、凪が落とした本を拾った。
「ごめん、ありがとう。」
「ずいぶん、悪趣味の本を読んでいるんだな。」
也はそう言って、本のタイトルをもう一度見返した。
「これ、けっこうおもしろんだよ。」
凪は目の前に出された本を受け取ると、それを手に持ったまま歩き始めた。
「また、落とすぞ。鞄にちゃんと入れろよ。」
也が言った。
「いいの。汽車の中でまた読むから。」
2人が並んで歩いていると、後ろから也の名前を呼びながら、短すぎるスカートの女の子が追ってきた。
「先輩、一緒に帰ろう。」
そう言って声を也に掛けたのは、2年の佐伯朱音だった。
「佐伯、部活は?」
也が聞いた。
「今日は休養日。それに昨日から顧問がいないし。」
「そっか。」
2人が話している横から、凪は足早にホームに急いだ。
「凪、」
也が呼び止めると、凪は振り返って手を振った。
「先輩は藤澤さんの事、名前で呼んでるよね。」
朱音が言った。
「ああ、小さい頃からそう呼んでたからね。」
「近所なの?」
「家は少し離れてるけど、幼稚園が同じだったから。昔からの腐れ縁。」
「そっか、腐れ縁なんだ。それにしても、藤澤さんってなんか話し掛けにくいよね。」
也はホームの白線から少し離れた所で、熱心に本を読んでいる凪を見ていた。
「ねえ、先輩。今度の金曜日、先輩の家に行ってもいい?前にその日は親がいないって言ってたでしょう?」
「いいぞ、泊まっていけよ。」
也は朱音が笑顔でスマホを覗いたのを確認すると、もう一度凪の方を見た。
確かにな。あんなネガティブな本を読んでる女子って、なんか話しかけにくいよな。
〚 町の外れにある風車は、けして止まることはない。
ある日、いたずらに風車小屋に近づいた若者4人は、その日以来、忽然と姿を消した。
それから10年経った風のない夜、行方不明だった若者の1人が町に戻ってくる。
精神がおかしくなっていた若者は、風車男には首がないと、頻りにうわ言を言っていた。〛
夜。
凪は最後のページをめくると、ベッドの上の天井を見つめた。カーテンの隙間から入ってくる細い月の光は、暗闇を刺すように鋭く尖っている。
首がないって事は、きっと話す言葉もなく、誰にも気持ちを伝えられないって事か。そんなつまらない毎日を、どれくらい繰り返したら神様は許してくれるのだろう。
所詮、これは作り上げた話しだよ。
首のない風車男が抱える悲しみや寂しさや心の痛みを理解しようだなんて、自分は少し馬鹿げている。
何より、私は風車男の視線で、この中途半端な物語の最後を考えているけれど、本当は行方不明になった4人の事を、先にも心配するべきだったのかな。
おかしいや。
どうでもいい事を、こんな風に真剣に考えているなんて。
凪は机の上に開いたままの参考書を見つめると、優先する事が違うだろうと、自分の中の良心のため息が聞こえた。
国語の成績だけは異常に良かった。他の教科はそこそこの点数をとれるか、全くできない事もあったけれど、国語だけは勉強なんかしなくても、最初の問題文を読んだだけで、物語の中にすぐに入り込む事ができた。
どうして書いている人の気持ちを、簡単な選択的な決まりきった答えで片付けてしまうのだろう。話しの入り口だけを覗いたって、本当の物語の脈は見えてこないのに。少しの例文で全てを語ろうとするのなら、気持ちを長々と文字にする必要なんてなくなると思うけど。それとも、どこを切り取っても同じ内容の話ししか、この世の中にはなくなってしまったのかな。
平凡に暮らす事に文句を言いながら、それでも同じ毎日を繰り返して欲しいと願っている。
後悔とか失望とか絶望とか、そこに転がっている塊に躓かない様に上手に歩いたら、その先はずっとまっすぐに続いていると勘違いをしてしまうくせに。
次の日の朝早く。
お弁当を詰めていた凪に、母が言った。
「三者面談っていつだっけ?」
「明後日。」
「そっか。じゃあ、お休み取らなきゃね。」
「最後の時間だから、仕事終わってからきても間に合うって言ってじゃない。」
「あっ、そうだった。凪は学校で待っているの?」
「うん。図書室で勉強してるから。」
「大学は決めてるの?」
「うん。ここから一番近い所。」
「そう。何になりたいかとかはないの?」
「ないよ。大学は就職するための通過点。高卒で働くより、幅が広がるだけの事。」
「お姉ちゃんはどんな事にも挑戦者だったけど、凪は見てるだけね。自分の人生なのに、すごく冷めてる。」
「そうだね。」
凪は2人分のお弁当を作り終えると、母にその一つを渡した。
「お母さんの分も作ってくれたの?」
「うん。」
5つ違いの姉の清は薬剤師になり、市立病院の薬局で働いている。去年から家を出て一人暮らしを始めた姉は、同じ病院の中で働いている彼氏がいるらしい。
挑戦者だと母は言うが、何にも逆らわず素直に全てを受け入れて生きていたら、自分が望むような暮らしを手に入れる事ができるんだと思う。
母は姉と同じ病院で管理栄養士として働いている。女は家を守るものだと、仕事をしながら精一杯当たり前の毎日を過ごしてきたはずなのに、3年前から父は帰って来なくなった。
もう壊れてしまった関係に早く区切りをつければいいものの、今でも離婚を許さないのは、母の意地なんだろうか、それとも、父への憎しみなんだろうか。
凪は母と2人で暮らすこの家から、出ていくつもりはなかった。
「凪、おはよう。」
汽車の中で参考書を読んでいると、也が隣りに座ってきた。
「おはよう。佐伯さんは?」
「朱音はいつも親に送ってもらってるよ。」
「ふ~ん、そうだったの。」
「今日は参考書?」
「そう。」
「あの本はもう読んだのか?」
「うん。もう読み終わった。」
「お前、いつからそんな人間になったんだ?」
「何が?」
「暗い本ばっかり読んで、昔はもっとおしゃべりだったよな。」
「それって、いつの事?」
放課後。
図書室で勉強をしていると、同じクラスの矢橋遥が凪の隣りにきた。
「凪、お願いがあるんだけど。」
「何?」
「B組の佐藤くんに告白するから、一緒についてきてよ。」
遥は凪の制服の袖を引っ張った。
「遥、佐藤くんの事が好きだったの?」
「そう。佐藤くん、凪と同じ中学だったよね。」
「そうだけど、違うクラスだったから、知らない。」
「凪は隣りのクラスで待ってくれるだけでいいから、ちょっと付き合ってよ。」
「え~、告白するはところ見れないの?」
「さすがにそれは恥ずかしいじゃん。」
「じゃあ、隣りの教室の壁に耳つけて聞いていればいいの?」
「もう、ちゃんと報告に行くから、凪は待ってるだけいいから。」
「汽車時間までだからね。だから、17時には駅に行かなきゃ。」
「いいから、いいから。こっち。」
遥は凪を隣りの教室の一番後ろの席に座らせた。
「待っててよ。1人で帰るなんてダメだからね!」
遥はそう言って教室を出ていった。
机の上に顔を伏せた凪は、どうして人の恋愛事案に付き合わされているのか、やりきれない気持ちになった。うまくいってもいかなくても、今の自分の立場って、本当に嫌な役割だよ。
「おい、凪!」
突然、頭を叩かれた先を見ると、也が立っていた。
「あれ、遥は?」
いつの間にか眠っていた遥は、隣りの教室の方をみるよう振り返った。
「もう、こんな時間だよ。誰も残ってないぞ。」
「隣りだよ、隣りの教室に遥がいると思うんだけど。」
「それなら、見てこいよ。」
夕暮れから夜の空気に変わった学校の廊下は、7月の生暖かい風が吹いていた。
「ほら、誰もいないだろう。」
「そうだね。」
凪は教室の壁にかかる時計を見た。
18時か。
いつもの汽車はもう行ってしまった。次の汽車は20時近くまで待たないとダメなのか…。どこかで時間を潰すと言っても、1人で店に入る勇気もない。そのくせにせっかちで何度も時計ばかりを見てため息をつくくせに。あ~あ、まったくついてない。
「帰るぞ。」
也が言った。
「佐伯さんは?」
凪が聞いた。
「別のやつととっくに帰ったよ。」
「そ。」
「汽車時間まで、まだけっこうあるな。」
「そうだね。」
「今日は変な本持ってないのか?」
「変な本じゃないよ。それにそろそろ勉強しないと。」
凪はそう言って鞄を持って教室を出た。凪の後をついてきたはずの也は、先に靴を履き終えて玄関の外で凪を待っていた。
「凪。」
「ん?」
「なんでこんな時間まで教室にいたんだ?それに、なんで俺の机で寝てたんだよ。」
「あの席、也の席だったの?」
「そうだよ、それを知ってて寝てたのか?」
「知らなかったの、ごめん。」
告白した結果を報告にくるはずの遥は、待っていた友達の事など忘れて、いつの間にか帰っていた。隣りの教室で寝てしまった本当の理由は言えず、凪はどうやって話しを誤魔化そうか考えていた。
「俺もよく寝てるからさ、あの席ってなんかヤバいんじゃないかって思ってるんだ。」
也はそう言って目を細めた。
「変な薬が塗られてるとか?変な呪いがかかってるとか?」
「そう!さすが凪は変な本ばっかり読んでるから、話しが早いわ。」
「変な本なんかじゃないって。」
凪はそう言うと、少し足早に駅にむかって歩いた。
「どっかで時間潰そうか。」
「行かない。」
「なんで?」
「2人でいたら、勘違いされるじゃない。佐伯さんが知ったら、なんて言われるか。」
「朱音の事はもういいんだ。」
「は、何言ってんの?」
「鈍感なやつだな、本当。」
「佐伯さんの事?」
「違うよ。」
「言ってる事がよく分かんない。」
「こんな風に一緒に帰るのって初めてだな。」
「そう言えば、そうだね。」
「部活、引退したんだろう?」
「うん。先週、最後の試合が終わったから。」
「ソフト部、けっこう強かったのに、予選の組み合わせが悪かったんだろう。残念だったな。」
「ぐじ運も勝負のうちだからね。」
凪は日に焼けた自分の腕が恥ずかしくなった。
「也はまだ大会があるんでしょう?」
「あるけど、俺はもう出ないよ。」
「なんで?」
「少し前に、膝を痛めたんだよ。だからもうやらないよ。」
そう言えば先月、サッカー部が練習している中に、也の姿は見えなかった。幼稚園の頃から、ずっと夢中だったサッカーなのに、そんなに簡単に諦められるものなのだろうか。
「膝って、どこかで転んだりでもしたの?」
「転んでなんかいないよ。自分でもどうしてかわからないから、けっこう悩んだんだよ。痛みが引くまで休むしかないって思っているうちに、2年にレギュラーを取られておしまいだよ。」
「そっか。辛い事聞いてごめん。」
「だからさ、凪の読んでるような本のように、世の中が1回ぶっ壊れてくれないかなって、そんな風に思っててさ。」
凪は目があった也に微笑んだ。
「あの本、貸そうか?」