バイクなんざ、捨ててやる。
はじめて人を殺したのは、いやな湿気が肌に染みる夏の夜だった。
影助は今日も、盗んだバイクで走り出す。
*
母ひとり子ひとりで、長い間慎ましやかな生活を送っていた。……慎ましやかというのは建前で、実際は貧乏所帯もいいところだったが。
父は影助が物心つく前に、マフィアのお偉がたに殺されたらしい。だからだろうか、世の中には"父親"という役割が存在しているという、周知の事実でさえ、影助は最近まで知る由もなかった。それを偽善者ぶった近所のババアどもからつけ込まれ、腫れ物のように扱われることはあっても、ぶっちゃけ父に対してなんの思い入れもなかったし、片親で悲しいと思ったことなども一切なかった。
幼目で見ても、影助の母はよく働く人だった。一度、ガキ特有の好奇心で、どうしてそんなに働くのかーーツライと思ったことはないのか聞いてみたことがあった。影助は、億万長者、世界征服……みたいな野望の詰まった夢のある答えを期待していた分、母の一言にガッカリしてしまったのを、今でも鮮明に覚えている。
母からはただ、影助が大好きだからとだけ返された。当たり前みたいに笑っていた。
影助の母は、強い。やれイタリア難民だのやれ駆け落ち女だのと、当時の神国日本復権派の連中から因縁をつけられることがあっても、その度にめげるようなヤワな女ではーー決してなかった。
母への嫌がらせを始め、影助は人間の汚い部分を、これまで幾度となく見てきた。
年収とか、血筋とか、国籍とか。とにかくなんでも型に当て嵌めようとしたがるヤツらが、大嫌いだった。だから気に入らない人間は大人だろうがなんだろうが、誰彼構わず殴るようになった。
そういう行為を繰り返しているうちに、影助はいつしか斜に構えた、生意気なガキだと噂されるようになった。だんだん、おもしろいくらいに自分の居場所もなくなっていった。
しかし思春期の影助は、そんなヤツらをないものねだりの馬鹿だと思うことで、知らず知らずのうちに己を確立させていたのだった。
*
その日は、新聞配達のバイトをなるべく早く終わらせようと、どこかから盗んだバイクで走り出してた。母は相変わらず学校に行けとうるさかったが、それすらも振り切って。
母も母だ。一体何が楽しくて、所属する・されるというみじめで愚かな活動に命を賭けるんだ。学校に行くなんてこっちから願い下げだ。なにより共依存のクマノミとイソギンチャクみたいで、気持ち悪い。せっかく男に産まれたんだから、黙って汗水垂らして働けばいい。そうして稼いだ金で、さっさとアメリカにでも移住してしまおうと思っていた。そこに、長い間水商売に耐えた誰かさんを連れていきたい、とも。
ひと仕事終えて家に帰ると、リビングの方から言い争っている声が聞こえてきた。またセールスか何かか、もし宗教勧誘だったら追っ払ってやろうと影助は盗み聞きをやめて中に入る。
「おふくろ、どうしーー」
影助はたちまちぎょっとした。生まれてこのかた、気丈な母の泣き腫らした目なんて見たことがなかったからだ。母のそばにいた恰幅のいい男に、影助は間髪入れず殴りかかろうとする。が、どうにも拳に力が入っていかない。見れば、自分まで震えているのが分かった。
影助はボールのように放られ、壁に全身を打ち付ける。あばらが何本か折れているんじゃないかと思った。今まで、味わったことのない痛みだった。頭に白い火花が散る中、母の泣き叫ぶ声がこだまする。
「ガキまでいたってのか! なんだ、低俗なジパング人とやらも隅に置けないじゃねェか」
下卑た視線ーーそうか、容赦のない暴力を振るってくるこの男は、きっと母の元婚約者だ。こんなところで父と駆け落ちしたツケが回ってくるとは。よもや母も影助も予想だにしていなかった。
(貧乏くじ、引いちまったなあ。)
もし、もし。オレが底抜けにポジティブ思考なヤツだったら、と横たわることしかできない影助は想像してみる。そいつなら、この状況をどうやって切り抜けてくれるのだろうか。……そんな、ありもしないことを期待するなんて、自分も、もはやいよいよかもしれない。
「さあ、来い。本国に帰るぞ。ああそうだ。そこのガキにはあとで臓器を売っていただくとしよう。飛行機代がチャラになるぞ!」
男は、母の髪をずるずる引っ張っていた。ああ、昨日せっかく、スーパーのトリートメントが上手く馴染んだと喜んでいたのに。あれでは台無しじゃないか。影助は手を伸ばすも、それが男に届くことはない。
「っ……いいえ、行きません。アナタとともに行けば、ワタシはきっと、自分を見失ってしまうでしょう……感情のない、女として生きるくらい、ならっーー!」
母は、テーブルに置いたままのアイスピックを手に取る。影助にはすぐに、母が何をしようとしているのか分かってしまった。
「まさか! やめッ……」
止める間もなく、母は一気に、アイスピックを自身の喉に突き立てた。母はふっと笑う。喉笛が、掻き、切られた音。狭い部屋が、赤色の水浸しになっていた。
胸の動悸が、早鐘を撞くように乱れ撃ちはじめる。
はらわたの底から湧き出してくる戦慄に、我を忘れて発狂した。
「おふくろッ、おふくろッ……!」
全力で駆け寄れば、骨が軋む。男は逃げた。母の体温は、どんどん下がってゆく。
「ワタシ、ただ、あの人の国を……ずっ、と愛し、ていたかったの……」
「い、いいッ……! やめろよ。もうしゃべんなよ!」
こんな時でも、母は気丈に笑う。影助は、産まれたての赤ちゃんみたいに頬を撫でられた。
「ふふ。か、いいねぇ。ティ、アモ……母、さんの……え、いす……」
影助は走った。母の命を奪った、アイスピックを手に取って。
思ったより早く、的は見つかった。どうせ途中で腰が抜けでもしたのだろう、ソレは路地裏に隠れていたようだった。
「テメェのおかげで、さっき母さんが死んだよ。……満足か、なァ」
「ぎ、うぐひ、ひいぃ……! な、なんだその目ッ! だ、だだ大体! アイツらが悪いんだろう! 低俗なジパング人とのガキなんぞこさえやがって‼︎ アイツらにはバチが当たったんだよ! そんでぇ、お前は悪魔の子っだーー⁈」
プツ、ぶすり、ぶすり、ぶすり……
確実に死んだとわかるまで、影助は何度も何度もアイスピックを刺し続けた。
殺してから、馬鹿な自分は気づいた。結局、自分が1番馬鹿だったということに。
言おうと思ってた。別にどこでもよかったんだって。母さんと、いっしょに暮らせるなら。でも、いまさら気づいたって、もう、遅い。
*
あれから。世界の全部が色褪せて見える。マフィアとも呼べないようなチンピラ集団からスカウトされ、そのいくつかを試してみたが、どれも影助にはカビの温床のようにしか感じられなかった。どいつもこいつも、ぬるすぎる。人を殺すのに手加減なんかいらねーんだよ、クソが。
道場やぶりするみたいに組織を潰して潰して、渡り歩いていたら、いつしか裏社会の人間で影助を知らない者はいなくなっていた。
だが、特にこれといってやりたいことや目指しているものがあるわけでもない。墓参りに行ったら、その後はどこか誰も知らない場所で、野垂れ死んでしまおうと思っていた。
今日は母の、月命日だった。
「おうおう、そんなふうに墓の前で泣くもんじゃねえぞ。男だろ」
「……誰、アンタ」
「ああ。今日は、俺のおくさーーいや。……今でも好きなやつの十七回忌なんでな」
声の掛け方が、斬新だった。『今どき日本式なんて珍しい』とでも言われるのかと思っていた。
どこからどう見ても、五十路に差し掛かろうとした皺の刻まれ方のはずなのに、キザったらしく薔薇の花束を抱えたその男は、自分をマフィアのボスだと言った。
「お前、泣く子も黙るなんとやらーーだろ? 幹部のポストが空いてるんで、ぜひともお前にと思ってな。」
差し出された名刺には、雄々しい線で恵業 笛吉郎と書かれていた。ちょっと、考えるそぶりを見せる。
「……分かった。いいぜ? なんなら地獄の果てまで、犬畜生同然におともしてやるよ。ただしアンタがオレに勝てたら、な。」
影助はメリットを付け加える。それこそ、文字通りアンタを影のように助けてやるよ、と。