【短編】魔王様はヒリヒリを求めている
いつもお読みいただきありがとうございます!
カンフーマンドレイクとハッスルベリーが頭から離れてくれなくて書いた作品。
入れ込めなかったネタが多いので、実は長編化を狙っています。
「暇だ」
魔王ウィステリアは玉座にデーンと座ってひじ掛けに肘をついてため息をついた。
彼の鈍く光る紺色の髪はくるくる指でもてあそんでいても床についているほど長い。藤色の瞳は物憂げな色を含んでいる。
「暇だ」
反応が返ってこないので再度声を発する魔王。
「聞こえております」
側近のヴァンパイアであるワンドが熱心に手鏡を見ながら返事をする。ワンドは暇でも日がな一日鏡を見ていられるヴァンパイアなので魔王のように暇だ、暇だとため息をつくことはない。
チリンチリン
不似合いな可愛い音が響く。
「あ、魔王様。元勇者様から映像電話ですよ」
「あぁ、野菜を送ったからな」
ワンドが片手に手鏡を持ち替えて差し出してくるボタンを押すと、壁いっぱいに笑顔のムキムキのおっさんの顔が映し出される。チラリと覗く肌には無数の小さな傷。
「おーい! ウィスト、見えてるか~?」
「見えている。久しぶりだな、ラッセン」
魔王の声に若干喜色が浮かぶ。
「朝玄関開けたら魔王トマトってやつが届いてたんでびっくりしたぜ! ありがとな!」
「あぁ、ラッセンだってよく勇者野菜を送ってくれるからな。見習って作ってみた」
「これ、めっちゃうまいぞ! でかいし、何よりウィストのパワー入ってるな? 力が増幅するぞ! 俺も魔界に畑持たしてもらおっかな」
ラッセンが掲げているのは大人の頭よりも大きい真っ赤なトマト。おぞましい笑顔のような模様が浮き出ている。
「勇者様、その模様でよくぞすぐに口にしましたね」
「お、ワンドもいたのか! 見た目なんて関係ねぇよ。俺だって畑をやってんだ。うまいか不味いかは見たらわかるぜ」
「それにしても久しぶりだな。忙しかったのか?」
魔王は思い出す。勇者がパーティーなんていう徒党を組んで魔王を倒しに来ていた日々を。
あの日々は楽しかった。毎日がヒリヒリしていた。
今話しているラッセンは歴代の中でも非常に強い勇者だった。相対するだけで皮膚がヒリヒリする。殺意のこもった目、聖剣を持つ構えの隙の無さ。実力は自分と遜色がないと見ただけで分かって魔王は楽しかった。
あの時の高揚感、実力が同程度の者と本気で戦えるヒリつき。楽しいと心に踊る熱。
何度も何度も勇者と戦ってきた。弱い勇者もいたが、その時は聖女が強かったり、魔導士が強かったりした。戦っていてあまりにも楽しかった。
強い者だけが到達できる景色。その中で同じ景色を見ている者と本気でやりあえる。
だが、世界は平和になった。
それは別にいい。
魔族の子供が攫われて人間界に売り飛ばされることもなくなった。魔族と人間のハーフが差別されることももうない。
世界条約で戦争をしないことになった。もう、戦争はダサいのだ。
魔界ならではの物を輸出して、魔族も豊かになった。
いいことづくしだ。でも、魔王の心はあの頃のヒリヒリとした熱を求めている。
暇で退屈過ぎて、心の熱が消えてしまいそうだ。
「ふっふっふ。紹介するぜ!」
ラッセンはニカッと笑うと、誰かを手招きする。
小さなそれはヨタヨタと重心が定まらなく頼りない歩きで画面に近寄ってきた。
「魔王様だ。名前はウィステリア。俺はウィストって呼んでる。さ、挨拶しな」
「まおーしゃま?」
「魔界で一番強い王様のことだよ」
「としゃまよりつよい?」
「何言ってんだ。俺にこの傷をつけたのは魔王様だぜ!」
ラッセンは服をまくり、贅肉のまったくない鍛え上げた腹を出した。脇腹から胸にかけて走る傷跡。
「何を言っている。我にも全治五年の怪我を負わせたではないか」
「もう綺麗に治ってんじゃねぇか。俺なんか年取っておっさんになったのに魔王様は綺麗な顔でシワひとつ増えちゃいない」
「光魔法を受ければいいだろうが」
「いや~、でもこれは俺が勇者だった証だからな」
魔王ウィステリアはとてもきれいな顔をしている。人間離れした容貌だ。魔王だけに。
ラッセンの言葉を魔王はわざわざ否定しない。謙遜もしない。そりゃそうだ、玉座に座る奴がナルシストじゃないわけがない。
「まおーしゃま、こんにちは。リ、リオンでしゅ」
小さなそれはラッセンの傷跡をしげしげ眺めてから、こちらに向かってたどたどしく挨拶してきた。
「……どうも、リオン。というか、なんだその、ふにゃふにゃした頼りない小さいものは?」
「拾った」
「犬猫か?」
「いや、れっきとした人間の男の子だ! まだ三歳で小さい」
「人間というのは呑気に成長するものなのだな。魔族の子供なら三歳で大人に戦いを挑んでいるぞ」
「はははっ。そりゃあ元気だな。魔族は強い奴が偉いもんな!」
ラッセンはおおらかに笑うと、リオンという子供を愛おし気に撫でる。
「最近連絡がなかったのはそれが原因か?」
「あぁ、そうだ。赤ん坊が俺の家の前に捨てられててな。それがこいつだ」
「それは……」
魔族の子供も誘拐されていたことがあるので、魔王の顔は軽くゆがむ。意外とデリカシーがある魔王。
「ちょうど勇者も冒険者も引退してスローライフをしゃれこんでたのに、子育てだぜ? 親も見つからんし、全く。野菜と違って手がかかってしゃあなくてな」
「なるほど……その子はハーフではないのか?」
「あぁ、安心しろ。れっきとした人間だ」
魔族と人間のハーフで人間の部分が色濃く出ている子は人間に近い。魔王はその可能性も含めて質問したが、ハーフではなく人間だった。
「そうか。だから長らく連絡がなかったのか、ご苦労なことだな」
「いやいや、すまねぇ。かなり言葉が通じるようになってきたから楽になってきたぜ? はー、ほんと。ハイハイして夜中に脱走するし、歩けるようになったら勝手に鍵開けて脱走するし。なんでも口に入れるし。目離したら死にに行くような奴だからな!」
「そうか。人間の子供は喋るのが遅いのだな。大変だ」
「ま、そろそろ魔王城にも顔を出せそうだぜ。さすがに一人で留守番させるわけにはいかないから連れてってもいいか?」
魔王はラッセンが来ると聞いて玉座から身を乗り出した。久しぶりに気分が高揚する。
「問題ない。ラッセンが来てくれるなら何でもいい。早く会いたい」
「おーおー。そんなセリフは美女に言われたいもんだな!」
「ラッセンはまだ結婚していないのか?」
「人間なら五十歳なんてもう嫁は来てくれねぇよ。よっぽど金がないとな」
「ラッセンには金はあるだろう」
「あーでもなぁ、山とか買っちまった。こいつにはいい教育を受けさせたいしな。金は貯めとく」
「ほぉ。そんなにそのナヨナヨした頼りない生き物が大事なのか」
「はははっ。そうだな。こいつが赤ん坊の時は毎日必死だったぜ。ウィストと戦ってるときの必死さとはまた違うが、毎日がハラハラドキドキだ」
「ほぉ、そんなにか?」
「あぁ、片時も目が離せない」
「それはすごいな」
「うおっ! リオン! そりゃあ毒蛇だ! やめろ! 刺激するな!」
画面の向こうが突然騒がしくなる。
小さいヘビがシュルシュルと逃げていくのが見えた。
「はぁ、こんな感じだぜ。びびった。さっき見たら毒蛇追いかけてやがる」
「それはアホだな」
魔王はしみじみと言う。毒蛇を追いかけるアホな魔族の子供はいない。魔族の子供なら毒蛇くらい追いかけずとも飛び掛かって一瞬で一人で仕留める。
「ま、そんな感じでまた行くからよ!」
「楽しみにしている。ラッセンと……小さな勇者を」
「ぶははっ! もう世の中には勇者は必要ないぜ。でも小さな勇者ってのはなんかカッコいいな! じゃあな~」
大笑いを響かせて、映像はプツンと切れた。
「はぁ、早くラッセンに会って稽古をしたい」
「長く離れていた恋人に会うような表現やめてもらっていいですか」
ラッセンが来てくれたら思いっきり本気を出して稽古できるのだ。さすがに生死を賭ける本気は出せないが、それでも楽しい。
「はぁ、ラッセンがくるまで暇だな」
「魔王トマトのお世話は……もう朝されてましたね」
「あぁ、今度は魔王カボチャにとりかかっている」
「意外と意欲的ですね」
「はぁ」
「魔王様、まだ試作品ですがこちらは技術班が開発しました」
「なんだ?」
ワンドは手渡すのは丸い物体。
「こちらは世界の様子を覗き見ることができる遠視水晶になります」
魔王はいぶかし気に水晶を受け取る。
「お? ラッセンが映っている」
「あぁ、そこに座標を固定してもらいました。水晶を回転させると別の画面に切り替わります」
「へぇぇ」
そう言いながらも魔王はラッセンとリオンの映像を食い入るように見ている。
「おっさんをずっと眺めてるの、気持ち悪いのでやめてもらっていいですか」
「ラッセンがどんなハラハラを味わっているか知りたくてな」
「他のハラハラやヒリヒリを見つけましょう」
ワンドは勝手に水晶を回転させる。
「あぁ! ラッセンが!」
「しばらく放っておいたら固定座標に戻るので大丈夫です。お、こちらは他国の農民の生活ですよ」
「む? トマトはこんなに小さいのか」
魔王はしばらく遠視水晶で遊んでいた。トイレや着替え、入浴シーンは見れなくなっている優れもの。
遠視水晶で遊んでいた魔王が急に立ち上がった。
「ワンド! 転移する! この女のところに行くぞ!」
魔王は叫んでさっさと自分だけ転移する。
「ちょっ! 魔王が勝手に国境超えていいと思ってるんですか! 誰かいい女でもいたんですか!」
ワンドも焦りながら続いて転移する。
遠視水晶がその場に残された。水晶に映っているのは、茶色い小さな小瓶を手にして飲もうとしている女性だった。
転移した魔王は小瓶を手にした女性の腕をつかむ。
「きゃっ」
「その小瓶を渡せ」
急に現れた魔王に戸惑う女性。着ているドレスや部屋の様子からどう見ても特権階級だ。
「ちょっと! 魔王様! 勝手に他国に転移しないでください! ただでさえ獣人族が番だと勝手に他国から攫ったせいでその辺、世界条約で厳しいんですから!」
「ワンド、ハッスルベリーだ」
「は?」
「これは病んでるハッスルベリーだ」
魔王は女性から奪い取った茶色い小瓶をワンドの前に突き出す。ワンドは臭いをかぐと盛大に顔を顰めた。
「一体、誰がこれを」
急に現れた明らかに人間ではない二人の視線を受けて、女性はおびえながらも毅然と答える。とんでもなく姿勢がいい。
「それはわたくしが用意させたものです。返してください」
「無理だ。これは魔界の輸出禁止品だ」
「それは存じませんでしたが……わたくしは魔力が多いので普通の毒では死ねないのです。その毒でしたらわたくしは死ねます」
ハッスルベリー。魔界にしか生えない木になる実だ。
日が当たっているうちは「ハッスル!」「ハッスル!」と叫び続ける大変うるさい実である。日が当たらなくなると元気がなくなって黙る。
収穫後も日光を当て続けたハッスルベリーは大変美味であるが、収穫後に日光を当てないでいると「病んでるハッスルベリー」になる。そしてなんと「病んでるハッスルベリー」は毒になるのだ。しかも、この世界のどの毒よりも強力なものになる。
この茶色い小瓶に入っているのは「病んでるハッスルベリー」の果汁である。つまり猛毒。
遠視水晶越しに魔王の特殊な目で見抜いたのである。さすが魔王をやってるだけある。
それにしても「病んでるハッスルベリー」って長い。「病みベリー」でもいいかもしれないが、残念ながら魔界には「病みベリー」という全く別の果実がある。食べると数日激しく落ち込む効果がある。効果って言うのだろうか。
人間界では、やめたくてもやめさせてもらえない職場をやめるために密かな人気があるとかないとか。
ハッスルベリーは取り扱いの難しさから輸出は禁止されている。
「確かに、そなたの魔力は多いな」
「はい、まことに」
魔王とワンドは二人で納得する。
そんな時、メイド服姿の女性が部屋に走り込んできた。
「私がそれを用意しました! 咎めは私が!」
「だめよ、ケイト!」
ケイトと呼ばれたメイドは女性の前に庇うように躍り出た。
「ほぉ、女。これをどこで手に入れた」
「兄が冒険者なのですが……魔界の国境近くまで行った時に魔犬がくわえてきて、くれたと」
「ありえる……」
「ありえますね」
魔犬は魔界に生息する犬で、見た目はとんでもなく可愛い。短い足に丸っこい黒い体。ピンと立てた耳。大きなクリクリした目。転がるようにトテトテ歩く姿は愛くるしく人間にも大人気。足が短すぎてよく転ぶ。そこも可愛い。
だが、鳴き声は恐ろしくダミ声だ。「ブオォォォォ」と汽笛のように叫ぶので……そこもギャップである。魔界でしか生きられないのでペットにはできない。
そして性格は人懐っこいが、とんでもなくアホ。
ゆえにハッスルベリーをくわえて人間にあげてもなんの不思議もない。だってアホだから。毒蛇も平気でくわえるくらいだから。目に付いたものまずは何でもくわえるから。
冒険者にはハッスルベリーの危険性は周知してある。そもそも魔界に入る前からそこら中に看板は立ててあるので、大体の冒険者は疲れもあってその場で食べる。
「ハッスル」と叫ぶハッスルベリーはその実の名前の通り、食べるとハッスルする。とにかく元気で張り切るようになる効果がある。それまでの疲れなんて吹っ飛ぶ。
まさか持ち帰る人間がいたとは……。
「兄は忘れっぽいんです。装備の中に入れたまま忘れていて、思い出したころには「ハッスル」と言わないベリーになっていたようで」
「あぁ、病んでるハッスルベリーに」
律儀に正式名称「病んでるハッスルベリー」と言い直す魔王。
「私は薬草の知識が少しばかりあるので、病んでるハッスルベリーが毒になることを知っていました。それで兄からもらい受けて……」
「わかった。もういい。それで、なぜそこのうら若い女は死のうとしているんだ?」
魔王に視線を向けられて、女性は観念したように目を瞑り、立ち上がった。
そして見事な礼をとる。さっきまで死のうとしていた女性には見えない。
「魔王様にご挨拶申し上げます。ディアンダー公爵が娘、ヴィオレッタと申します」
「ほぉ」
魔王は思わず感嘆した。そういえば感嘆することも最近なかった気がする。
「堅苦しい挨拶は必要ない。先ほどの我の質問に答えよ」
「少し長くなりますがよろしいですか?」
「構わん。我は暇だ」
「魔王様、それを言っちゃあおしまいですよ」
ヴィオレッタの語った内容はこうだった。
彼女はこの国の王太子の婚約者であったが、王太子が他の女性を好きになりヴィオレッタは大勢が集まる学園卒業パーティーで婚約を破棄されてしまった。
王族の言葉であるため今更、覆すことはできない。ヴィオレッタは傷つき、療養するべく領地に引っ込んだ。
「聞いたことのある話だな」
「最近、増えているようですね」
「というか遠視水晶で見たが、人間界はハニートラップがありすぎだろう」
魔王がワンドと相槌を打ったが、話はそこで終わらなかった。いや普通にそれだけでも傷ついて毒を飲もうと考えても不思議はない話なのだが。
王太子の新しい婚約者は頭が悪かったようで、ヴィオレッタに側室となって彼女の代わりに政務を行うように通達が来た。
何年も婚約していたのにさっさと婚約を破棄され、その挙句に側室になって代わりに仕事をしろと言われ、ヴィオレッタの心はぽっきり折れてしまった。
「死ねば側室になることもないでしょう。それに、婚約者の方が子供を生むので私は仕事だけしていればいいと言われました……」
「ワンド、俺はなんだか心がチクチクする」
「はい。状況は違うのに、母を思い出します」
ワンドの父はヴァンパイアだが、母は人間だ。
ワンドの母は婚約者がいたにも関わらず、偶然遭遇した獣人に「番だ」と言われ無理矢理獣人の国に連れ去られた。強制的に結婚させられ、ほぼ監禁生活を送っていたが、夫が急死。子供がいなかったことで相続争いが起こり、獣人の国から乱暴に放り出されていくあてもなく彷徨っていたところで、たまたまワンドの父に出会ったのだ。
魔王は魔王なのだが、意外とデリカシーがある男であった。
ワンドの父が人間を連れてきて身の上を聞いた時は珍しくちょっと泣いた。心がチクチクした。今もそんな感じだ。
そこから魔王は獣人が好きではない。あいつら大体臭いし。人間は割と好きだ。
「ふむ。経緯は分かった」
病んでるハッスルベリーから毒を作ったメイドのケイトは先ほどからずっと床に平伏している。ヴィオレッタも床に平伏しようとするので、魔王は止めた。
「そなた、藤色の目をもっているのだな」
「は、はい」
「魔王様と同じですね」
ワンドが要らない茶々を入れるが、魔王はふむと考えた。
「魔王様、私めにいいアイディアが」
「なんだ?」
「彼女にチクチクは感じますか?」
問われた魔王は再度ヴィオレッタを見る。先ほどまでは茶色い小瓶を取り上げることだけに集中して少し冷静さを欠いていた。よく見ると、ヴィオレッタは折れそうなくらい痩せている。
「そなた、ちゃんと食事は摂っているのか」
「お嬢様はショックでお食事をあまり召し上がっておられません」
魔王の心はまたチクチクした。
目の前にいる女は魔王にとって弱く、とても可哀そうな存在に映った。
「あぁ、感じる。それに……ん?」
魔王は自分の指がヒリヒリすることに気付いた。いつの間にか指が火傷したようにただれている。
「もしや……そなた、光魔法が使えるのか?」
「は、はい。でも誰かを癒すことはあまりできなくて……自分の怪我は一瞬で治せるのですが。まさかわたくしの光魔法が魔王様にその火傷を!? 申し訳ございません!」
「いや、すぐ治るから問題ない。そなたの魔力量が多いから我にもこのような傷を負わせたのだろう。それにしても光魔法とは珍しい」
「はい……家系に聖女様がいます。私はその聖女様によく似ていると」
「聖女?」
魔王はヴィオレッタに近付いてうつむき気味の顎に手をかけ、まじまじと覗き込む。
「ま、魔王様……」
「まさか聖女ヴァイオレット……?」
「は、はい。私の曾祖母が聖女ヴァイオレットです」
魔王と同じ藤色の瞳を持つ聖女ヴァイオレット。
歴代聖女の中でも群を抜いてしぶとかった女。魔王は思い出してヒリヒリした。魔王の藤色の瞳が怪しく輝く。
「そうか……ヴァイオレットは死んだのか」
「はい。わたくしも会ったことはございません」
「人間はすぐ死ぬ。あいつは死ななさそうだと思っていたのに」
何度も魔王の攻撃に倒れながらも光魔法で自身を回復して挑んできた聖女ヴァイオレット。腕を魔王に吹き飛ばされようが、足に斬撃を受けようが悲鳴一つ上げない。その様子に痛みを感じないはずの配下のゾンビたちも引いていた。
そうか、あの女の子孫か。
「我は聖女ヴァイオレットに会ったことがある。あれは勇者よりも勇敢でしぶとい女だった。勇者や魔導士や剣士が我を前にして情けなく逃亡したのに、あやつだけは我に向かってきた」
敵意のこもった藤色の目を思い出すだけでヒリヒリする。心に熱が宿る。
ヴィオレッタに触れた指がまたただれ始めているが、それさえ気にならない。
「聖女ヴァイオレット様の子孫の方でしたか。魔王様が彼女を見つけたのも何かの縁でしょ。彼女には魔界に来ていただきませんか? そうですね、魔王様の婚約者はいかがでしょう」
ワンドはそう言ってさささっと魔王の側に来て耳打ちする。
「婚約者といっても結婚する必要はありません。しかし、魔王様がこの女性を勝手に魔界に連れて行けば獣人族と同じ誘拐です。条約にも反しますし他国がうるさいでしょう。ですので、正攻法で婚約を申し込めば条約違反にもならず彼女は魔界に来ることができるでしょう」
「う、うむ」
「魔王様はこの女性をこのままこの国にとどめておきますか?」
「いや、さすがにここまで聞いてそれでは可哀そうだろう。それにあの聖女ヴァイオレットの子孫だ」
「でしょう。それに勇者様も子育てをしておいででした。魔王様は勇者様よりも長い時を生きていらっしゃるので、目の前の女性は赤子に等しい。子育てをすればハラハラドキドキが味わえるかもしれません」
「なるほど?」
「それに他国と自国からの面倒な婚約の申し出も退けられます」
ワンドはヴァンパイアと人間のハーフである。人間には他の魔族より詳しい。
そして魔王は絶対的強者である。弱い魔族を守るのが魔王だが、最近は豊かになって戦争もなく、魔族を弱いと感じる場面が少なくなってきた。
ワンドはその魔王の心を見抜いていた。魔王が退屈なのはヒリヒリが足りないのもあるが、そういう魔王としての意義が足りないのだ。そして彼を支えるべき伴侶も。
「では早速そうしよう。しかし……そなたはどうする?」
ワンドが使者を立てるべく転移でさっさと消える。魔王は一応ヴィオレッタに問うた。
「病んでるハッスルベリーは猛毒だ。飲むと苦しんで死なないといけない。嫌かと思うが俺と婚約して魔界に来れば死ななくても済むが……別に結婚はしなくていいし、ほとぼりが冷めた頃に戻ってくればいい」
魔王はヴァイオレットとの戦闘を思い出して高揚していたが、ふっと冷静になった。ほとぼりが冷めた頃っていつだ。十何年後か?
魔王にとっては一瞬だが人間にとっては長いかもしれない。
「いや、すまない。魔王と婚約なんて嫌だろう、ちょっと発想が飛び過ぎたな。ワンドに言って留学というやつでもいい。魔界には最近温泉もできたから療養にもいいだろう……な、なぜ泣く?」
ヴィオレッタはハラハラ涙を流して泣いていた。ついでにケイトも泣いている。
「こんなにっ、優しくされたのが久しぶりで……」
「泣くな。ほら」
魔王はハンカチを取り出す。魔王でも一応ハンカチくらい持っている。身だしなみである。
魔族は基本的に泣かない。もちろん悲しいときには泣くが、めったに泣かない。泣くのは弱い奴だけという考えだからだ。
「行きます」
「は?」
「魔界に婚約者として行かせてください!」
「いや言い出したのはこちらだが……いいのか?」
「はい。ぜひよろしくお願いします」
「何か変な覚悟を決めてないか? 魔族は人間を食べないし、いじめないし、差別もしないからな?」
「もちろん存じております。王妃教育で魔界のことも少しは勉強しました」
目に涙をためて魔王を見つめるヴィオレッタ。魔王の心はまたチクチクした。
ずっと暇で退屈だった。こんなに心がチクチクしたのは久しぶりだ。
「婚約破棄した相手の側室にされる、これ以上の地獄はないと思っておりました。魔界に行けるのなら本望でございます」
綺麗に背筋を伸ばしたヴィオレッタの雰囲気は、魔王の記憶の中の聖女ヴァイオレットによく似ていた。
実は魔王、あまり人間の容姿には興味がない。覚えているのは雰囲気や武器の構え方などだ。今のヴィオレッタは芯の強そうなヴァイオレットの雰囲気を思い出させた。
「まず、そなたは痩せすぎだ。これを食べろ」
「これは……トマト?」
「我の育てた魔王トマトだ」
「魔王トマト」
「この表情が笑顔になったら食べごろだ。さぁ食べろ」
ワンドの手腕によって、ヴィオレッタはその日のうちに魔王の婚約者として魔界に来ていた。
「お、美味しい」
「遠慮せずに食べろ」
ナイフとフォークで綺麗に切り分けるヴィオレッタの前で魔王は豪快に魔王トマトにかぶりつく。
「ふむ、いい出来だ」
自画自賛、ここに極まれり。
「あの……ワンドさんはヴァンパイアなのに昼間でも出歩けるんですか?」
「ワンドは人間とのハーフだからな。ただ、あいつは日焼けが嫌で基本昼間は出歩かない。この前、国王に謁見したのも転移で行っていた」
ワンド。彼は日焼けが嫌いなヴァンパイア。
「日焼け……」
「そうだ、あいつは魔界一美容にうるさいヴァンパイアだ。今もそなたのメイドを捕まえて人間界の美容を根掘り葉掘り聞いているだろう」
魔王の視線の先には魔界についてきたケイトと、メモを持って前のめりになっているワンドがいる。
「ケイトとケイトの家族まで来ることを許可していただいてありがとうございます」
「そなたも一人では心細いだろう。それに、あのメイドの兄が冒険者ならこちらに住んでおくと報酬の高い依頼を立地の関係で受けやすい」
国王は、ワンドが差し出したハッスルベリーを食べて腰痛や頭痛が改善したので喜んで婚約を承諾した。ヴィオレッタの側室の話も瞬時になくなった。
「あのアホな国王にはたまにハッスルベリーを差し入れればいいでしょう。人間は限定ものに弱いですからね。輸出しろと言われましたが断りました。扱いが難しいですし、あの国王はあればあるだけ食べそうです。そうなると中毒症状が出て大変なことになりますから。脅してませんよ? ちょっと目の前で魔王トマトを食べて人間の血の味が恋しいと言っただけで。最近の人間、肉ばっかり食べてるから血が美味しくないんですよ。魔王トマトの方がよっぽど美味しいです」
ワンドは日焼け止めを丁寧に白すぎる肌に塗りながらそう言っていた。
ヴィオレッタは魔界で過ごすうちに食事をきちんと摂れるようになっていた。魔王トマトとか魔王カボチャとか魔王アスパラからスタートしたが、最近は魔獣ステーキも食べられるようになっている。魔獣ステーキは魔獣の数が増えすぎて間引いた時の肉だ。
ヴィオレッタの様子にケイトは泣いて喜んでいた。
食事と魔界の温泉によってヴィオレッタの魔力の回路が安定したようで、魔族も癒せるようになっていた。
「人間だけでなく、魔族にも光魔法が効くのか。ずっと光魔法は我ら魔族の天敵だと思っていた」
「体の構造の違いさえ分かれば大丈夫でした。もちろん攻撃もできてしまいますが……でもわたくしは人間を癒すのはまだまだ苦手なので、こちらの方が性に合っています!」
確かにヴィオレッタは人間を癒すのは不得手のようだ。ケイトやケイトの兄に対しても苦戦して、魔族を癒すよりも時間がかかっている。
先祖に聖女ヴァイオレットを持つ光魔法と使い手ということで、最初は魔族たちから恐れられ遠巻きにされていたヴィオレッタ。
特にゾンビからは「あのヴァイオレットの子孫!」「ゾンビの中のゾンビ!」と完全に引かれていた。
魔族の子供を最初に治癒してからは段々と距離が縮まり、今ではゾンビのトップとも仲良く話している。
魔王はそんなヴィオレッタを見て目を細める。魔王の心はもうチクチクはしない。しかし最近なぜか別の痛みがある。
「よー! やっと来れた! こいつが熱出してドタキャン繰り返して悪かったな!」
「問題ない。人間の子供はか弱いから大切にしろ」
元勇者ラッセンがリオンを連れて魔界にやってきた。
リオンはヴィオレッタとケイトにすぐ懐いてラッセンをほったらかしにして遊んでもらっている。ラッセンとの稽古を終えて見に来てみると、今度はコロコロした魔犬に夢中だ。
「ぶぶっ。鳴き声聞いて尻もちついたぜ」
「魔犬は見た目と鳴き声のギャップがあるからな」
「とーしゃま!」
尻もちをついて涙目だったリオンがラッセンに駆け寄って抱き着く。
「おい、鼻水をすりつけるんじゃねぇ!」
「子供というのは気分屋だな」
「リオン、優しいお姉さんたちに遊んでもらってるな!」
「えへへ」
「ちょっとこれから魔王様の畑を見に行ってくるからもうちょっと遊んでてくれ。後で魔王様がリオンの大好きなトマト出してくれるからよ」
「まおートマト?」
「そうだ、魔王トマトだ!」
「わぁぁ! やったー!」
リオンははしゃいでヴィオレッタたちのところまで走って戻っていく。
「あいつ、魔王トマトが好物なんだ」
「そうか、たくさん食べて大きくならないとな」
「あの魔王トマト食べ続けたら俺よりでかくなるんじゃないか?」
「そんな効果があるのか? 魔力回路は安定するようだが」
「するだろうな~。魔力がない俺でも力が増幅されてるのを感じるからな! あんなトマト、子供の頃から食ってたらとんだ英才教育だ」
畑に向かって歩きながら、ラッセンは楽しそうに喋る。
「それにしてもあの子、美人だな」
「聖女の子孫でヴィオレッタだ」
「あー聖女様のな。いいなぁ。俺とパーティー組んだ聖女様は王女殿下で超我儘だったからあんな綺麗で優しい聖女様だったら良かったなぁ。魔界にたどり着くまでも大変だった」
「ラッセンの時の聖女は……酷かったな……」
魔王もしみじみと言う。
ラッセンは強かった。魔王が満足するほどに。だが、他のパーティーメンバーはラッセンと逆のバランスを取ったのかパッとしなかった。
「リオンも一瞬で懐いてたから性格いいんだろうな~」
「そうだな。さすがに子供の相手をインキュバスにさせるわけにはいかないから適任だ」
「刺激強すぎだろ。てか、どこで拾って来たんだよ?」
「カルメール王国だったな」
「うげ、あの王女様聖女の国だ」
「あぁ、だからあんなに王太子がアホだったのか。血は争えんな」
「……なぁ、なんでカボチャが走り回ってんだ?」
魔王自慢の畑を見てラッセンは少し驚いている。
「魔王カボチャやトマトは走り回るぞ?」
「いや、普通のカボチャは走らねーよ」
「我が魔力を注いで育てているとこんなことになるのだ」
畑ではトマトが不気味な顔を太陽に向けながら歌い、カボチャがドコドコと音を立てながら走り回り、アスパラはいびきをかいて寝ている。ちなみにトマトの歌、若干音痴。
「すげぇな」
「アスパラはまだ試験中だ。魔王カボチャはまた送る。よく走り回る奴ほど甘い」
「へぇー、魔界ってほんと面白いな」
「引っ越してくるか?」
期待を込めて魔王は聞く。
「うーん、でも山買っちまったんだよ。魔界に旅した時みたいにキャンプしたくて」
「売ればいいだろう。魔界でもキャンプはできるぞ」
「魔獣襲ってくるじゃねぇか」
「ラッセンなら難なく倒せるだろう。魔獣が増えすぎたら間引きも必要だ。それにヴィオレッタの発案で学校を作ろうかと思っている。リオンもそこに通えばいい」
ラッセンを熱く口説く魔王。
「へぇぇ、学校かぁ。結構あのヴィオレッタって子に入れ込んでんな?」
「何を言っている。我は500歳を超えているんだぞ」
魔王はそう言ったが、ラッセンは「ふーん」と信じていないようだった。
リオンとラッセンと楽しそうに話すヴィオレッタを魔王は静かに魔王城から見ていた。
ラッセンは今では定住しているが、各国を旅していたので話が面白い。三人で盛り上がっている。
魔王の心はなんだかヒリヒリした。おかしい、ラッセンや聖女ヴァイオレットを前にしたヒリヒリとは明らかに違う。それなのに心がヒリヒリして、ほんの少し痛い。
魔王は胸の皮膚がただれていないか見てみた。病気だろうか?
「魔王様。どうされましたか?」
窓辺で黄昏ている魔王にワンドが話しかけてきた。
「最近、遠視水晶も使っておられませんね?」
「あぁ、せっかく作ってもらったのにすまないな」
「いえ、魔王様の楽しいことがあればそちらを優先してください」
ワンドは窓の外に目を向ける。眼下にはリオンを肩車するラッセンとその様子を楽しそうに見ているヴィオレッタ。
「元勇者様は相変わらずお元気そうですね」
「あぁ、それに彼女ともお似合いだ」
「恐れながら元勇者様はもうすでに五十歳。ヴィオレッタ様は十八歳なので年が離れすぎているかと」
「我の感覚で言えば三十二歳差などほんの少しの誤差だ、いや差などないに等しいな」
年齢を出したのはまずかったと内心反省するワンド。ワンドは人間の年齢の感覚を分かっているが、魔王は魔王だ。魔王の尺度である。
「魔王様はヴィオレッタ様を気に入っていらっしゃるのですね」
「それはそうだな。だが、彼女をいつまでも我の婚約者として縛り付けておくわけにもいくまい。ラッセンは貴族とも縁があると聞く。伝手があるだろうか。カルメール王国の王太子も素養が疑われて失脚したようだから、そろそろ彼女に新しい相手を見つけてもいい頃合いかもしれん」
「そういえば、元王太子からヴィオレッタ様を返せと無礼な手紙が来ておりました」
「なぜだ? 失脚したのなら好いた女と田舎で仲良く暮らせばいいだろう」
「ヴィオレッタ様と結婚すればまた王太子に返り咲けると思っているようです」
「万が一魔界までたどり着くようなことがあると困る。マンドレイクの護衛を増やそう。国境にはケルベロスとブラックドラゴンを」
「はっ」
マンドレイクといっても、すでに土から引っこ抜かれたマンドレイクである。彼らは二足歩行で生活しており、魔界では護衛や警報機として重宝される。不審者を見つけてマンドレイクたちが一度叫べば、その叫びは千里以上先まで聞こえるのだ。近くにいた不審者はもれなく鼓膜が破れるおまけつき。
さらにマンドレイクたちはカンフーを極めている。中には空手を使うものもいるが、大体「ソィヤァァァ」「アチョー」「エンガチョー!」とか叫びながら不審者に飛び掛かる。その掛け声だけでも人間の鼓膜は耐えられない。
ケルベロスは三つ頭の大きな犬だ。それぞれの頭は性格が違い端的に言えばボケ、仲裁、ツッコミである。友達がいなくても一頭で楽しめる。ケルベロスはいつも楽しそうだ。魔犬と違って知能が高く賢いが、撫でられると弱い。
昔、人間が魔界に戦争を挑んでいた頃に尻尾をちぎられて回復せずそのままだったが、ヴィオレッタの光魔法によって尻尾が元の長さに回復した。今ではヴィオレッタを見るとヘソ天するほどの懐きぶりである。
ブラックドラゴンはただ黒いだけでなく、ドラゴンの中でも非常に強い。他のドラゴンと違って人間と対話などせず、仲間とも群れない。
人間と戦争していた時代、ブラックドラゴンはまだ幼体だった。金目当ての人間たちに襲撃され、鱗を何枚も剥がれてから回復できていなかった。鱗を一から作り直すには膨大な年月がかかるのだ。魔王の説得でヴィオレッタの光魔法を受け、今では見事な黒い鱗が全身に輝いておりご満悦だ。
恥ずかしがり屋なのでケルベロスのように懐きはしないが、側に来て構って欲しいオーラはひたすら出してくる、図体のでかいめんどくさいタイプである。
「魔王様はわたくしのひいおばあ様がお好きなのね……」
ヴィオレッタは盛大に勘違いしていた。
魔界にも慣れてきて毎日非常に楽しく過ごしている。前の婚約者は「こうしたらいいんじゃないか」と提案しても「うるさい! 女が口を出すな」と怒鳴っていた。でも、魔王はちゃんと聞いてくれる。
一緒に食事も摂ってくれて、毎日のようにヴィオレッタに魔界を案内してくれた。
食べ物は美味しいし、ワンドを始めみんな優しい。最初は警戒されて遠巻きにされていたが、魔獣に腕を食われた子供を治癒してから警戒心を解いてくれたようだ。ヴィオレッタは魔界に来てから一度も死にたいなんて思っていない、とても幸せだ。
ヴィオレッタは幼い頃から王太子と婚約していた。近付く異性などいなかった上に、王太子はヴィオレッタに酷い態度だったのでヴィオレッタは傷ついていた。
そんなところに魔王と出会った。出会い方は毒を飲もうとして腕を掴まれるという微妙な状況であったが、それ以降魔王は優しかった。魔王は見た目もいい。人間離れした美しさだ。
ヴィオレッタが気付いた時には優しくしてくれる魔王のことを好きになっていた。完全にチョロインである。
そしてヴィオレッタは魔王を目で追いかけるあまり、盛大な勘違いをしていた。
これに関しては魔王も悪いかもしれない。
魔王は歴代好敵手の肖像画を描かせて城に飾っている。その中にはもちろん聖女ヴァイオレットもいる。最新の肖像画は若かりし頃の元勇者ラッセンだ。爽やかなイケメンのラッセンが描かれている。当時聖女だった王女に追いかけまわされたのも納得のイケメンだ。ちなみにラッセンは王女の想いには全く気付いていなかった。
そんな歴代好敵手たちの肖像画を見ながら、魔王は熱いため息を吐いているのだ。魔王としてはあの頃のヒリヒリした熱に思いを馳せているだけなのだが、ヴィオレッタから見れば叶わない恋にため息をついているようにしか見えない。
ヴィオレッタは盛大な勘違いをし、魔王は自分のヒリヒリの正体が分からないでいるうちにカルメール王国の元王太子が魔界の国境で捕まった。ヴィオレッタの元婚約者である。
マンドレイクが見つけて叫び、ブラックドラゴンが足でつかんで空で一回転、そしてわざと落とした元王太子をケルベロスが器用に服を噛んで受け止めたらしい。
ケルベロスとブラックドラゴンは元王太子を連れて、ヴィオレッタの役に立ったとばかりに気高く魔王城に凱旋した。マンドレイクは「私が見つけたのよ!」とケルベロスの背に座って足を組んでドヤ顔でポーズを決めている。
「元王太子が魔界に不法入国しようとした」
魔王はヴィオレッタと食事をしながら切り出した。
「すでに転移陣で国際裁判所に送ってある」
「不法入国までするなんて……ありがとうございます」
「一カ月以内に判決が出るだろう。そなたの国ももう落ち着いた頃だ。結婚相手を探す期間も必要だろうし、そろそろ帰るか?」
魔王としては親切心で聞いたつもりだったが、ヴィオレッタがポロポロ泣き出したので焦った。
「な、なぜ泣く? 元王太子が来たのがそんなにショックだったか? ケルベロスやブラックドラゴン、マンドレイクたちが頑張ってくれたぞ?」
魔王は見当違いな慰めをするが、ヴィオレッタは首を振る。
「魔王様はっ……わたくしのことが要りませんか?」
ヴィオレッタはただただ悲しかった。こんなに取り乱すのは初めてだ。魔王まで自分を要らないというのか。
以前何年も婚約していた相手に簡単に捨てられ、さらに仕事をするためだけにまた婚約させられそうになったことを思い出す。癒えたと思っていた傷はまだしっかりヴィオレッタの中にあった。隠れていただけで、すぐに傷は「忘れるなよ」と浮上してくる。
「そんなことはない。ただ、そなたたち人間の一生は短い。そなたは結婚適齢期という年頃だろう? だから、魔界にいるよりは人間界に戻った方が結婚相手を見つけやすいかと思ったのだ」
「わたくしは……ここにいたいです……」
「そ、そうか。そなたの希望を聞かずに申し訳なかった。学校もまだできていないから責任感の強いそなたは気になるよな」
魔王、デリカシーはあるのにいろいろ見当違い。
窓の外にはブラックドラゴンとケルベロス。扉の外にはワンドとケイト、マンドレイク、ゾンビ、そして野菜代表で魔王トマトが聞き耳を立てている。つまり、カオス。というか人口密度高いな。
「わたくしはっ、魔王様のことが好きなんですっ! だ、だから魔界にいたいんです」
勢いで言ってしまったヴィオレッタはその勢いで泣き止んだが、魔王トマトのように顔が真っ赤になっていた。
扉の隙間から顔を出した魔王トマトはそれを見て同族だと思ったのか喜色を浮かべている。もう夜で太陽が出ていないのに歌い出しそうになってマンドレイクに口を押さえつけられた。魔王トマト的には「お前いつも叫んでんじゃん」な感じではある。
魔王はヴィオレッタを見ていた。彼女の言葉に嘘はない。
魔王は心から何か熱いものが湧き上がってくるのを感じた。そういえば、ヴィオレッタと一緒にいてもラッセンが言っていたようなハラハラドキドキは感じなかった。ヒリヒリばかり感じていた。今もそうだ。心がヒリヒリして……でも高揚もしている。
「我は……好きという気持ちが良く分からない」
魔王の言葉にヴィオレッタは緊張した。扉の外のケイトたちにも緊張が走った。
「だが、そなたといると心がヒリヒリする。心が痛くて、でも今は熱い」
魔王の藤色の瞳に宿るわずかな熱を見つけて、ヴィオレッタはそっと魔王に手を伸ばす。魔王も長い爪で傷つけないように緩慢な動作でヴィオレッタの手を握る。
「魔力回路が安定したので……」
「そうだな。もうそなたの手を握ってもヒリヒリしないな。だが、心はやはりヒリヒリする」
「わたくしは……ドキドキします」
「そうか」
魔王がヴィオレッタの指を撫でる。ヴィオレッタは頬を染めて俯いた。
「そなたは剣も魔法も放っていないのに、我の心をヒリヒリさせるのだな」
ヴィオレッタの光魔法はもう魔王を含め、魔族を傷つけることはない。
マンドレイクがなんだかいい雰囲気にうっかり叫んでしまってヴィオレッタとケイトの鼓膜は破れたが、光魔法で何とかなった。魔王トマト的には「何でお前がこっちの口押さえて叫ぶんだよ」という感じである。
魔犬がブラックドラゴンとケルベロスの雰囲気に何か感じ取ったのか、あのダミ声で鳴いている。
「魔王様もきっとうちの父と母のように愛を知ってゆくのですねぇ」
ワンドが混沌とする現場をしめくくって、地下にある上等なワインを取りに行った。