廃ホテル
廃ホテルから招待状が届いた。
『一流のおもてなしをあなたに』
とだけ、気取った赤いしっかりした紙に金文字で書かれていた。どこにもそんなことは書いていなかったが、“この世のモノならざる人々”のホテルなのだと直感した。三途の川に片脚を突っ込んでいたわたしに、間違って届いたのだろう。
だが、その招待状を捨てる気にはならなかった。そこの人々の“一流のおもてなし”とやらを体験してみたくなった。間違いだとしても、確かにわたし宛に届いたのだから、招待されたことにしてもいいはずだ。
そうと決まれば、最低限のドレスコードは意識しなければならないだろう。無難に、黒地に小さな花びらが散らされたワンピースを着て出かけていった。
ホテル周辺は冷たい霧で覆われていた。なるほど、これでは人間連中も近づいてはこない。仄暗いエントランスに入っていくと、いつの間にかフロントに男が立っていた。くちびるまで真っ白な顔に、黒い髪が品良くなでつけられて、背は高く、指がほっそりとしているのが印象的だった。あまりにも顔色が白いので、五秒前は水中にいた、と言われても信じてしまうほどだった。
「お客様、招待状を」
フロントの男はくちびるをほとんど動かさずにわたしに話しかけた。顔色の白さに驚いて動けなくなっていたわたしは、その声によって呪縛が解かれたかのように慌てて小さなかばんを開けた。赤い招待状をフロントに出すと、スッと部屋の鍵を渡された。
「お食事ですが、一時間後にレストランフロアにおいでください」
「わかりました」
レストランフロアが何階かは知らないが、とにかく一時間の自由時間が与えられた。部屋に入ってみて、そこでくつろげるなら一時間をのびのびと過ごしても良いが……。先程から感じている、身体の芯が冷えるような寒さ。気温がどうこうという話ではない。病院の霊安室の空気がそのままこの廃ホテル内に漂っているのだ。かろうじて生きているわたしにとっては、耐えられないほどではないが、居心地の良い空気ではなかった。部屋もきっとこの空気が充満している。それにここは“廃墟”なのだ。いまはなにか幻術のようなもので落ち着いたホテルに見えているが、実際は荒れ果てた、生々しい生活痕を残している空間が広がっているのかもしれない。……わたしはここにきて、少しだけ招待状を捨てなかったことを後悔した。
いつの間にか部屋の前に来ていた。二階のエレベーターホールの小さなロビーを抜けてすぐの隅の部屋だった。ホテルで二階に泊まったことがないので、二階って客室あるのか、と妙な感心をもって部屋に入った。
その部屋は──ストレートに言おう。ビジネスホテルでももう少し広いぞ、という狭さだった。ベッドが一台、横に幅の狭い机と小さな椅子。スタンドランプがひとつ。花瓶にひょろひょろの菊が活けられていた。こんなところにも死臭を感じる。そして極めつけが、ドアの上下に隙間があり、通りすがる異形のモノたちが、興味深そうに覗いてくるのである。おそらくわたしはあたたかみのある空気をまとい、ついでに言えば人間臭いのだろう。ここではそんな存在はわたしだけだ。目立つことこの上ない。耐えきれず部屋を飛び出した。
五階のエレベーターホールに来ていた。足元にボールが転がっている。猫が遊ぶような、少しボロついたテニスボールみたいなものだった。しゃがみ込んで転がしてみた。
「お姉さん、遊んで」
後ろから声がした。振り返ると、化け猫としかいえない見た目の少女が立っていた。サビ猫の色の耳がかわいらしく、瞳は白目の部分がなく、猫の目であった。やはりサビ猫のしっぽが生えており、髪の毛は長く、ぼさぼさで、どこぞの小径を通ってきたような風体だった。
猫との遊びは体力勝負だということを知っている。猫の遊びたい欲にわたしの体力が勝ったためしがない。じっとどこかで座り込んで時間を潰したかったが、この冷たい空気の中で座り込んでいたら、わたしの心臓も凍りついてしまいそうだった。仕方なく遊んでやることにした。
化け猫の少女は階段を跳び、床をすり抜けて階下に着地し、壁を通り抜けて客室に入り込んで、とにかくめまぐるしく駆け回ってかくれんぼをするのを要求してきた。わたしは床も壁も通り抜けられないと思っていたが、ここの空気を長く吸っているからか、半分あちら側のヒトになってしまったようで、いこうと思えばいけた。
化け猫とのかくれんぼ、いや、おいかけっこは白熱した。わたしは勢い余って、窓を通り抜けて中庭に飛び降りてしまった。運の悪いことには、そこにフロントの男が立っていた。
「お客様、周りのお客様の迷惑になりますので」
「……すみません」
わたしは顔から火が出るかと思った。こんなときに化け猫は猫の姿に戻って、私は関係ないと言わんばかりに後ろ足で首を掻いている。
「お食事のお時間ですので、いまお呼びしようとしていたところです」
「ああ、そうですか」
「お客様とお食事をご一緒したいという方がいらっしゃいます、そちらのお嬢様も同席していただいて結構です」
猫が傍から見てもわかるほどに、ビクゥッとして化け猫の姿に戻った。フロントはそれを見てくちびるを歪めた。笑ったらしい。
レストランに通されると、白いテーブルクロスにシルバーのカトラリーが行儀よく並んでいた。相席だと聞いていたのに食器が一組しかない。
料理はすぐに出てきた。どう見てもフルコースのカトラリーの並びであるのに、出てくるのは一品だという。ここのバンケットスタッフが悪いのか、わたしが特別グレードの低いサービスの客なのかはわからない。わたしの向かいに化け猫が座った。そこにはお客さんが来るんじゃ……と思ったら、わたしの左側に椅子が一脚置かれた。随分と馴れ馴れしい相席客だと思った。化け猫にはマグロのすり身が深皿にいっぱい入って出てきた。化け猫は機嫌良く喉を鳴らしながら器用にスプーンを使って食べている。わたしにはジェノベーゼパスタにホタテやサーモンといった海鮮類がのった皿が出てきた。パスタは好きであるから文句はない。
気がつくと、左側にゴツゴツした妖怪の男が座っていた。なにをするわけでもない。なにかを言うわけでもない。ただ、気恥ずかしそうに俯いていた。わたしもどういうわけでテーブルをともにしているのかわからないから、気まずいまま食べすすめた。味もわからなかった。
結局なにごともなく食事は終わり、化け猫とわたしが食べ終わって、カトラリーを皿に置くと、隣にいた妖怪の男はいなくなっていた。なんだったのだろうか……と考えながら、レストランをあとにした。
化け猫はお腹がいっぱいになって眠くなったといって、部屋に戻っていった。
ひとり、あてもなく一階のエントランスロビーを彷徨っていた。フロントの男は下を向いてなにか書物をしているようだった。ふと、人の気配を感じてガラス張りのエントランスを振り返った。ドアマンの格好をした男がロールカーテンを下げる作業をしていた。横顔しか見えていないが、どこか魅力的に見えた。顔色は、フロントの男と同じく、水に沈められていたのかと思うほど青白いが、鼻筋が通っていて、目元から朴訥とした人柄が伺えた。
わたしは彼と話がしたくなった。自分でも驚くほど強い感情が背中を突き抜けた。
つかつかと彼に歩み寄り、ロールカーテンを下げる右手に後ろからそっと左手で触れた。
するとたちまち視界がぐるぐるとまわって、へたり込んでしまった。
「他人の仕事を取ってはならない。それが彼岸のモノならなおのこと」
と耳元で低いしわがれた声が響いた。
わたしは冷たい雨に打たれて、すっかり幻から醒めた廃ホテルの前に佇んでいる。
「霊柩車を一台お願いします……」
「霊柩車を一台お願いします……」
口から勝手に溢れでる。
うわ言のように霊柩車を呼びながら、わたしはどんどん人ではなくなる。
フロントの男の、白い顔をぼんやりと思い出していた。