2-4 お腹いっぱいです
「あ、フェリシー! シオ! こっちこっち!」
あの赤いのがいるところにはもう行きたくねえ、とフェリシーは思った。
もう二十分近くが経っていた――つまり「お前はこれから月にでも行くんか?」というくらいの速度で爆走するシオの肩の上でフェリシーがすっかり放心を決め込んでから、結構な時間が経っていた。魔獣を引き連れて、ぶっちぎって、「やりすぎた」とわざわざ戻って、引き連れて、ぶっちぎって、そういうことを繰り返して、とうとう綺麗に全てを振り払って、ここまで来た。
もうどこをどう走ってきたのか、いま自分がどこにいるのか、フェリシーにはわからない。
ただ、あの赤いのを含めた三人が落ち着いた様子でそこに佇んでいるということは、セーフエリアということで間違いないのだと思う。
あの赤いのがいる時点で、果たしてセーフと言っていいかはわからないけれど。
「アルマ、オズウェン、ミティリス。そっちも無事だったか」
「ああ。おかげでかなり余裕で逃げ切れた。ありがとな。そしてほんとごめん」
「……ま、確かにこっちは余裕だったな。サンキュー、シオ。フェリシー。そっちは大丈夫だったか?」
「問題ない、影も踏ませなかった。アルマもドンマイだ」
「あはは……。途中で見かけましたけど、すごい速度でしたもんね。助かりました。……ところでシオさん。フェリシーさんを下ろしてあげた方がいいのでは?」
沈黙が二秒あって、
「リーダーもこの方が楽だと――」
「おろして」
「了解した」
そうして久しぶりに、フェリシーは自分の二本の足で迷宮に立った。長いこと船に乗り続けていた人がそうなるみたいに、地面がふわふわ波のように揺れている。たぶん乗り物酔いを起こしている――が、生来酔いに強い方だからか、そこまでひどくはない。あと慣れない姿勢だったから日頃使ってない筋肉が悲鳴を上げている。しばらく走らずに済んだおかげで回復した分の体力と、疲労度は差し引きでトントンくらい。
つまり、すごく疲れている。
ので、フェリシーは森羅万象あらゆるものをさておいて、オズウェンに告げた。
「開けちゃってください、金箱。それで帰りましょう」
彼の手にある、それもついでに指差して。
ついさっき決死の思いで手に入れた――というより手に入れるまでは何となくでやってその結果決死の思いを強制された――金の『宝箱』。この迷宮の中で、最も価値ある『宝』が入っているはずのそれ。
本当はこの迷宮を出てから、ゆっくりぐへへと開いて得たい。
が、そういうわけにもいかないのだ。
「……まあ、そうなるよな。開けないと帰れないわけだから」
オズウェンが、言ったとおり。
『宝箱』は必ず、迷宮の中で開けなければならないのだ。
「『宝箱』は迷宮内の魔獣と同様に一種の契約状態にある、中身の『宝』を迷宮に縛り付けるために生成された魔術的封印構造体だからな。それは、開けないと『宝』は持ち帰れないよな……」
「いま誰に説明したんですか?」
自分に言い聞かせたんだ、と言って。
まじまじと、なぜか切なげな瞳でオズウェンは金箱を見る。
フェリシーは、いよいよ不安になってきた。
ここまでも十分に不安だったけれど、より一層。
「……あの、もしかしてなんですけど、その金箱は開けられないとか……?」
「いや、そこは安心してくれていい。本当に俺の鍵開け成功率は十割だ。金箱が相手でも例外じゃない」
そこ『は』安心してくれていい。
そこに含まれた不穏の気配を、全くフェリシーは聞き逃さなかった。
「や、やめますか! 結構ここまでで集まった分もあるし、金箱は別に開けなくても――」
「いや。折角あれだけ苦労して手に入れたんだ。必ず開ける――俺も、覚悟をしよう」
「するな!!!!!」
もうわかる。
絶対ろくなことにならない。二回もやられれば流石に三回目の気配がわかる。今のうちに金箱を奪って事件を未然に――あっ、まずい。ひどい。全然身長が足りてない。届かない。奪えない。
回避できない。
「ま、待って!!! 本当に待って!!!」
「ところでフェリシー後輩。今どのくらい疲れてて、あとどのくらい走れそうだ?」
「それ『ところで』してないでしょ!!」
回答を拒否すれば、ちらり、とオズウェンはシオを見る。
ん、と顔色ひとつ変えないでシオが見つめ返すと、オズウェンは、
「まあいいか」
「いま何を想定しました!?!?!?!?」
「よし、やるぞ。できれば三秒で片を付ける。それ以上だったら……すまん」
「待って、二十一歳!! 報連相しよう!!? いい年こいてるんだから報連相しよう!?! ね!!?!??」
「ほうれん草は僕も好きだ」
「ちょっとシオくんは黙ってて!!!」
「十六歳ではダメなのか?」
意図したチームプレイだったのかは定かではないが、「そういう話じゃなくてね」とフェリシーがシオに律儀に説明しようとした、その瞬間を狙われた。
オズウェンが、大きく唱えたのである。
「――――『アクセス』!」
しまった、と思ったときにはもう遅い。
すでに『鍵開け』は始まってしまった――こうなるともう、フェリシーは何もできない。
『鍵開け』は繊細な作業だ。ほんのわずかなズレも許されないし、酔っぱらってちょっと手が震えているだけでもダメ。失敗すればそれなりに危険の伴う魔力放出が発生するらしいから、とても邪魔はできない。「やめろバカ!」なんて言って横合いからタックルして金箱を奪うなんてもってのほかだ。気持ちの上ではすごくやりたいけれど。
ハラハラしながらフェリシーは『鍵開け』中のオズウェンを見上げ、見守るほかない。
一秒。
ものすごく真剣な顔をしていた――こうして見るといかにも学園修士卒みたいな気難しい表情をしているが、しかしそれもそのはず。フェリシーも自前で『鍵開け』ができるようにならないかと勉強こそしたものの、とても短期間で修得できるような生易しい技術ではなかったのだ。
二秒。
オズウェンの眉間に谷が現れた――なかなか手強いらしい。すごく気持ちはわかる。あれは立体パズルみたいなものだ。内部に微細な魔力を流すことで構造体の変形を促し、それによって封印を外す。根本的に魔力構造に対する深い理解がなければ確信して進めることはできないし、大抵の忍者も回数を繰り返して頻出のパターンを肌で覚えて解くのが精一杯だと言う。
三秒。
とうとう宣言通りの秒数に至る――が、まだ眉間の皺は取れず、むしろより深くなる。よほど手こずっている、と思うことが麻痺だ。実際には『鍵開け』の平均所要時間はEランクでも三分。むしろここまで全てを三秒以内に終わらせてきたことこそが、流石学園で魔力構造体の研究を行ってきた彼の叡智と呼ぶべきもの――
「がぁああああああっ!!!!! 苛つくんだよ!!!!!!!」
ゴリラみたいなフォームで、金箱が迷宮の壁に投擲された。
どごぉん、とシオの足音に負けず劣らずの音がした。
そして追撃するようにオズウェンが「うおぉおおおおおお!!!」と雄たけびを上げて壁に近寄り、やたらに長い足で金箱を執拗に蹴りつけ始めた。流石にそれだけで『宝箱』が壊れることはないが、壁はみるみる壊れていく。どっかんどっかん壊れていく。
それはもう、すごい光景で。
なんていうかもう、かなり悪夢的というか、そんな感じで。
「…………」
「…………ん? どうした、リーダー」
フェリシーは黙って、隣のシオを見つめて。
「…………ちょっと後ろ入らせて」
「ああ。構わない」
そっ……と彼の後ろに回り込んで、避難した。
ガン、ゴン、ギガン、ドガン、ゴガゴガベガーン。
何の恨みがあればそんなことになるんだ、というくらいの撃音を立てながら、オズウェンは金箱を蹴る。蹴る蹴る蹴る。それはそっちの足が折れるだろう、というくらいに蹴る。
そして、信じられないことが起きた。
「――――ふん。最初からそうしろ」
オズウェンの足が止まる。
屈みこむ。背中を向けているから、手元がどうなっているのかはわからない。ただ、何か腕のあたりを動かしているのが見える。「ふすー……」と風船の空気が抜けていくような吐息が聞こえてくる。
で、彼は振り向く。
手には翡翠色の石――『宝』を持って。
人を安心させるような、大人っぽい、落ち着いた微笑みをさりげなく浮かべて――そしてピンポイントでフェリシーを見つめて、彼は言う。
「フェリシーの瞳と同じ色だな」
「いや怖い怖い怖い怖い!!!!!!!!!!!」
フェリシーはシオを引っ掴んだまま後ずさりした――が、それがどうしたとばかりにオズウェンは長い足で二歩を進んでこちらとの距離を詰めてくる。
「大丈夫。怖くないぞ」
「いや無理無理無理!!! 自己申告でどうにかなる範囲超えてます!!! いま私森で遭った血まみれの魔獣に宝石片手に近寄られてる気分です!!!!」
「しかも瞳と同じ色の宝石をな」
「そうですよ!!!!! それが一層怖いんですよ!!!! 目玉を抉られて交換されそうだから!!!!」
「オズウェンもフェリシーも、発想がグロ過ぎない?」
まあまあ、と呆れたような顔でアルマが会話するふたりの間に割り込んでくる。
お前に呆れた顔をする権利はない、と思いながらもフェリシーはシオの背中を引っ張って、壁に引っ付きながらそのことに感謝する。
そして、向き合おうとしていた。
折角集まった四人中三人が――しかも特に優秀だと思っていた三人が、ものすごく様子のおかしい人間だった、という事実に。
「リーダー。ぐずぐずしているとまた魔獣のラッシュに巻き込まれるぞ」
が、やはりそんな時間はないのだ!
「――あっ、うん! そうだね、うん!」
シオからの忠告に、一旦フェリシーは脳を目の前の状況への考察に引き戻す。ええい、仕方がない。明らかに悩むべきこと、話すべきことは大量にある。が、大量すぎて今すべてをどうにかすることは無理だ。
ここはひとつ、シオの言う通り。
オズウェンが唐突に怒り狂ったゴリラのように大暴れした現場から離れて――というか迷宮を出て、安全を確保しなければならない。
今ならまだ間に合う。もうシオに抱えられてダッシュするのはゴメンだ。ひっそりと姿を消して、てくてく歩いてゆっくり帰りたい。
そう思うから、フェリシーは。
「ミティリスさん。さっきみたいに先導してもらえますか?」
唯一この場で信頼できる忍者に、そう告げた。
のだが。
「………………」
「……あの、ミティリスさん?」
最後の頼みの綱、ミティリスは。
なんだか真剣な顔で――美術商が「七百年前の伝説的な彫刻家が作り上げた最後の美人像です。愁いを帯びたような眉からは彼が七十年の生涯の中で練り上げた深い思索が見て取れるようですね。海で釣ったので髪は碧くなっています」とか解説をつけそうな表情で、曲げた指を唇につけて考え込んでいた。
それから、彼は不意にさらり、と髪を流しながら顔を上げて、
「あの、フェリシーさん」
「あの、もうお腹いっぱいです……」
「すみません。でも、私だけ別のタイミングで、というのも収まりが悪いかと思って」
「どのタイミングでも出さないっていう選択肢はないですか?」
ありません、とミティリスは首を横に振った。
ないのか、とフェリシーはかなり気落ちした。
「実は私には、ひとつ恒常的な欠点らしいものがあるんです」
しかし流石に年長者組のひとりと言うべきか、ミティリスは事前にそう切り出してくれた。
「あまりはっきりした話ではないんですが、どうも『引き』が悪くて……」
「『引き』?」
「あー。魔獣と遭遇しやすいタイプ?」
聞き返せば、補足のようにアルマが言った。
「ええ。なんとなくですが、数度の冒険の中でそういう感触が……」
「魔力誘因体質なのかもね。まあそういうのはしょうがない……。っても、そっか。ナビゲーションだとちょっと困るか」
「そうなんです」
どうなんです、とフェリシーが赤いのに訊ねれば。
赤いのは、うん、と頷いてこう答えてくれる。
「なんか、たまにいるんだよね。単純に運が悪いのか、それとも魔力との相性が良すぎるのかわかんないけど、迷宮を探索してるときにやたら魔獣と遭遇しちゃう人」
そう言われて、フェリシーはふと思い出す。
そういえばさっきも、と。
爆発から超スピードの間にあった駆け回り期間。必死に走って逃げ回っていたのに、いつの間にか待ち伏せされたように目の前に魔獣の群れが出現してしまったこと。
なるほど、ああいうのが起きやすいということをミティリスは「『引き』が悪い」と表現しているのか、と。
納得すれば、言うべきことは、
「でも全然、それくらいなら――」
「だから今から歌いますね」
「接続詞の機能がぐちゃぐちゃになってる!!!」
スゥー……とミティリスが息を吸い始めた。
しかしそのタイミングでフェリシーは流石に四度目、口を塞いで事態を未然に防ぐことに成功した!
「ちょ、ちょっと待って! 説明! 説明してからにしよう!!!」
「もがもが」
「あ、手離さないとダメか……」
「La――――――♪」
「手離したらダメか!!!!!」
「楽しそうだな、リーダー」
「アガッてきたな!」
「ああ。俺もさっきの失敗から立ち直ってきた」
他人事みたいなやつとか勝手に盛り上がってるやつとか許可なく立ち直ってるやつとかはさておいて、フェリシーはミティリスにかかりきりになる。
頼む、と心の中で思っているのだ。
頼む、ひとりくらいまともであってくれ!
「本当にすみません~♪」
「頼む……!」
「歌声をソナーにして迷宮内の魔獣の位置を探知してるんです~♪」
「よし…………!」
「代償として全ての魔獣にこちらの位置がバレま~す♪」
「終わった!!!!!!!」
ずどどどど、と耳慣れた音が聞こえてくる。
こんなんもんに慣らされた私の耳はどうなってしまうんだ、とフェリシーは思う。借金を返せたところで日常生活に戻ることができるのだろうか。
「でもさ、物は考えようじゃん! ミティリスのナビゲートの通りに走りまくれば、アンブッシュを受けずにラッシュを躱して脱出できるってことだろ?」
「そうなります~♪」
「なるほどな。一長一短ってわけか」
「どちらかと言えば長いと思う。伸びやかな歌声で僕は好きだ」
「ありがとうございます~♪」
とにかくフェリシーは、頭を抱えていた。
うっかり募集して、うっかり採用してしまったこの四人を……あるいは四人と、どうすればいいのか。初回攻略直後まではいくらでも解雇してもいいって業界の慣習だろ、と開き直ればいいのか。仮にそれをしたところで二の矢はどうするのか。そういうことを考えながら、頭を抱えていた。瞑った瞼の裏には三億テリオンの借金とか、未来で廃墟と化した実家の姿とかが映っていた。
が、状況が状況だけに、耳は塞げなくて。
「それではみなさん行きましょう~♪」
「オッケー! 殿は任せてくれよ!」
「こっちの居場所がバレてるなら、さっきと同じように猛ダッシュしないとダメだな」
というようなことを言っているのが聞こえてくる。
そして冷静にフェリシーは自分の状態も観察する――汗はダラダラ、足はガタガタ、心臓はバクバク、心はボロボロ。
走れ、と言われて走れるものかと。
思いながら目を開けて、顔を上げると、そこには。
「…………」
「…………」
黒髪の少年が立っていて、目が合って。
すると彼は、ぐっと両拳を握って、肩のあたりにむんと上げて、変わらない表情で、しかしどこか得意げにふんすとこちらを見つめ返してきて。
言う。
「任せろリーダー。最速で行く」
悲鳴は彗星のように尾を引いて。
しかし『懲り懲りだ』で締めくくるには、フェリシーの人生はあまりに長い。