2-3 全部ぶっちぎるんだ
「右方が薄い。僕が前方に突っ込んで他を引き付けるから、上手くやれ」
四方が塞がれた絶望的な状況。
しかしそんなものは全く問題でないとばかりに、冷静そのものの顔で黒髪の少年、シオは言った。
「しかし、シオさん――」
「安心しろ、ミティリス。このあたりの迷宮構図は僕も覚えて、」
「――ダメに決まってるでしょ!」
大声で諫めたのは、フェリシーだった。
いくらEランク迷宮とはいえ、看過していい行動選択ではない。こっちは曲がりなりにもこのパーティのリーダーなのだ。無茶なことは、危険なことは止めなければならない。
だから、当然の役割として彼女は声を上げたのだけど。
しかしシオは、心底不思議そうな顔で小首を傾げて、こう訊ねてくる。
「なぜ」
「なぜって……し、死んじゃうでしょ、ひとりじゃ!」
「死なない。僕の方が魔獣より速い」
「速――じゃああれどうするの! 前! 壁! 魔獣の!」
時間がない。
こんな問答をしている間にも引き離した魔獣たちはどんどん後ろから迫ってきているし、薄い右方もそうだし、薄くない前方なんか、でっかい岩がそのまま転がってきてるくらいの威圧感で魔獣の波が寄せてきている。
だから片言で、フェリシーがそのことを問い詰めれば。
隙間ひとつ見当たらない前方の魔獣たちを一秒程度、じっと見つめてからシオは言う。
「どうしよう」
目眩がした。
そこまで自信満々で考えなしなんてことがあるか――くらっと来て、ミティリスに支えられて何とか持ち直して、僅かな時間と、それから『アルマですら一応嘘は吐いていなかったという事実』に懸けて、フェリシーはひとつの決断をする。
「――私が魔術で前に穴を開けるから、それで行って!」
「ありがとう。すごく助かる」
本当にありがたいとか助かるとか思っているのか怪しい声色を聞きながら「ひょっとしてこの忍者は冷静なのではなくただマイペースなだけなのでは」という疑念にも負けず、フェリシーは魔力を練り始める。
「『風よ、風よ、風よ――吹き渡る大いなる風よ!』」
アルマの魔術剣のような超威力を出せるわけではない。
そして習得している数少ない上級魔術は詠唱が長く、とてもこの状況では実用に耐えない。
「『我が示したるは、貴君のためのただ一度の道!』」
だからフェリシーが叫ぶのは、中級の、そこそこ使い勝手が良くて、疲れる代わりに短めで詠唱を済ませられる、手ごろな魔術。
風属性魔術――
「『希わずとも押し通れ――――エア・ブラスト!』」
ぶわり、と突風が吹いた。
魔獣とのほんの十数歩を、一瞬で風は駆ける。
着弾――魔獣の顔が、ぐいい、と歪む。
衝撃――ほとんどダメージはない。けれど、その圧力に堪えきれずに通気経路に存在する魔獣が後退する。吹き飛ぶ。さらに後方の魔獣を巻き込む。
後は、雪崩れ込むように。
できたのは、前方の魔獣の壁に開いた、風の通り道。
今、とフェリシーは言おうとした。
今行けすぐ行け、その間に自分はミティリスたちと一緒に右へ――と言おうとした。
「――っ、や、ば、」
が。
とうとう彼女を、疲労が襲った。
ただでさえこれまで必死になって走ってきたところに、短詠唱の中級魔術の発動――いくら体力に自信があると言っても、フェリシーは本職の冒険者ではない。流石に息が荒くなるし、意識だって遠のくし、けれどそんな場合ではないし――、
なんて、思っていると。
「さあ行くぞ、リーダー。掴まれ」
「――は?」
掴まれ、という言葉とは裏腹に。
がしり、と胴のあたりを掴まれて。
よいしょ、と米俵を持つようにして、抱き上げられた。
シオに。
これから前方を駆け抜けて囮になるはずの、シオに。
思考が止まった――ほんの僅かな時間のこと。フェリシーは自分の状態を不思議と鳥が空から見るような視点で見下ろして、それから魂が自分の在るべき場所を思い出したかのように戻ってきて、自然、視線はシオの進行方向と逆側に立つ三人に向けられる。
アルマ、オズウェン、ミティリス。
全然余裕がなかったから、フェリシーはつい、よりにもよってアルマに視線を合わせたまま、こう言った。
「へるぷ」
すると彼は、ぐっと親指を突き上げて、本当に良い笑顔でこう応える。
「安心しろって、リーダー! 『青』のシオといるなら、そっちの方が絶対安全だから!」
「んなっ――」
「舌を噛まないように気を付けろ」
んなわけあるか、というフェリシーの叫びは。
がくん、と急加速した瞬間に、「ぷえ」という音へと変換される。
そして、その日二度目の臨死体験が、彼女を襲った。
速いとか遅いとか、そういう次元で感じられる話ではなかったのだ。
身体の揺れから、一歩二歩、というものがこの自分の持ち手にも存在していたのだろうということは何となくわかる――が、それがどの地点をどんな風に通過したのか、フェリシーにはさっぱりわからない。
ただ確かなことは、さっきまで見ていたアルマの顔が、急に小指の爪の先くらいの大きさになって、あれだけいた魔獣の山がなんだかすごく遠くに見えて、残りの三人が右の通路に入っていくよりも先にその姿が完全に見えなくなって――、
あと、なぜか。
シオが移動しているだろうときに、ドカドカドカドカ、と工事現場みたいな音がしている。それだけが、フェリシーにわかったことだった。
「お、おおおおおとろおとおおおして」
「すまない。何を言っているのか全然わからない」
お前が私を揺らしてるからだろ、という言葉は、当然口にすることができない。
が、フェリシーには妙なガッツがあるので、とりあえず試してみるだけは試してみる。
「おままままままっままあおま」
「安心してくれ。母に助けを求めるほどの事態じゃない。たとえリーダーを担いでいようと、この迷宮で一番速いのは僕だ。捕まりはしない」
すごい、とフェリシーは素直に感動した。
ここまで人の意図を勝手に読み取って、勝手に勘違いして、勝手に通じたつもりになって進められる人間がこの世にいたのか、と。
そして同時に、こうも思った――じゃあもう別に何も言わなくてもいいか、と。
どうせ言っても何も通じないし。かと言ってそれで不都合があるかと言うと、超スピードの中に身を置いているとものすごく不安になるとか、内臓にダメージが出そうで怖いとか、そのくらいのことだし。後者はともかくとして、前者はこのスピードを出してる張本人が「安心してくれ」と言っているんだから安心して問題ないんだろうし。何よりさっきまで自分を絶望的な気持ちにさせていたあの魔獣の群れはもう何秒経ったのかわからないうちに全く見えなくなって――
「――っ、っ、っ、」
「痛い、リーダー。三拍子で叩かないでくれ」
「っっっ、っっっ、っっっっっっっ、」
「三三七拍子で叩かないでくれ」
懸命の信号が伝わったのか、ややシオの走る――実際には視界に入っていないのでフェリシーは実は飛んでいたのではないかと疑っている――速度が緩む。何とか発言できる。そう思ったから、フェリシーは言う。
「ちょ、ちょっと、見えなくなってる!」
「……? ああ。当然だ。走ってきたわけだからな」
「囮になるって言ってなかった!?」
沈黙があった。
そしてその沈黙の間に、シオの速度が緩んでいく……段々と一流忍者の全力疾走、二流忍者の全力疾走、三流忍者の全力疾走程度になり、いよいよ一般人の全力疾走程度になると、ほとんど止まったような錯覚をフェリシーにもたらし、二秒後、ド、ド、ド、という足音とともにゆったりと、本当に停止した。
そして、シオは言う。
「忘れてた」
どうなってんだこのパーティは、とフェリシーは思った。
しかし生来ポジティブで性善説を好むところのあるフェリシーは、すぐにこう思い直す――実はこれは作戦通りだったのではないか、と。
あのとき、やけにアルマはシオに信頼を寄せている様子だった。このふたりは実は事前に面識があって、あらかじめ……たとえば自分が面接室に来るまでの間に、さらりと打ち合わせをしていたのではないか。
たとえば。
『ピンチになったら、「一緒に囮をやる」という名目で、シオがフェリシーを連れて逃げるように』とか。
実際にシオはこのとおり、四大大手の冒険者パーティで最速だったと言われても全く疑いのない、異様なまでの俊足の持ち主なのだ。自分を抱えてもまず間違いなく脱出できるし、残された三人も全員『忍者』となれば、『魔術師』である自分を抱えているよりも適切な対処ができるかもしれない。特に移動の面では、間違いなく。
何もかも忘れ去って走り去る天然とアホバカぼけなすのふりをして、実はふたりは、そんな取り決めを――
「仕方ない。ついでに戻ろう」
「戻るの!??!?!?!?!??」
していないらしかった。
じゃあなんなんだこいつは走っているうちに気持ち良くなって全てを忘れていたとでも言うつもりか――訊いたら本当に「ああ。走っているうちに気持ち良くなって全てを忘れていた」とか返ってきそうで怖いから面と向かっては訊けない――というわけでそのことは脇に置いて、建設的なことをフェリシーは口にする。
「あ、あのさ! 別に戻って、場を荒らさなくてもいいんじゃない!? あっちはほら、忍者三人なんだし!」
「一理ある。流石はリーダーだ」
謎の持ち上げを食らって、フェリシーの気分は良くなった。
「だよね、だよね! たぶん、あの、こう言うとあれだけど、この状況だと私が一番パーティの足を引っ張っちゃうと思うし――」
「だが、すまない。戻ろうが戻るまいが、どっちにしろ大して変わらない」
ん?とフェリシーはシオに抱え上げられたまま、首を傾げた。
その動作と、向こうの通路の陰からひょっこり「こんちわ」みたいな感じで魔獣が顔を出してくるのは、ほぼ同時だった。
「気付かなかったか?」
「…………何に?」
「僕の足音にだ。……相当疲れているんだな」
普通は気付く、とシオは言った。
普通は気付けることはもうひとつあり、フェリシーの視線の先から「ちわっす」「こんちゃーす」「ちわちわ」みたいな感じで、魔獣がぞろぞろ出てきた。
そして、思い出されることがある。
さっきまで抱えられていたときに聞こえてきていた、シオの足音。
ドガドガドガガ。
「僕の体重は、どういうわけか同じ体形の人間の十倍近くある。だからかなり力を抑えて走らない限り、隠密魔術を貫通して足音が響く」
「……そうすると、魔獣は?」
「僕に気付くな」
「……そういうとき、どうしてる?」
ああ、とシオは頷いた。
答えはシンプルだ、と言って、足に力を込めた。
「適当に走り回って、適当に魔獣を全部引き連れて、適当なタイミングで全部ぶっちぎるんだ」
うぎゃあ、という言葉はとうとうその場に置き去りにされて、フェリシーの耳にすら届くことはなかった。
ものすごい音が響いている――ドガドガドガガくらいの可愛いものではない。ガキンガキン、ズガガガガガ、ズゴゴゴゴゴゴゴ。逆向きに抱えられているからフェリシーには彼の残した足跡――というより惨状の痕跡が見える。街道があの状態だったら一発で行政訴訟を起こされる。そして負ける。間違いない。
ものすごい風も吹いている――風を切って走るとか、そんな可愛いものではない。風をぶっ飛ばして走る。さっき自分が自信満々で放った『エア・ブラスト』の直撃範囲の一歩隣に立っているとこのくらいの風圧を食らうのではないかと思う。逆向きだったら眼球が干からびて五分でミイラになっていたかもしれない。というかそもそも瞼を開けられなかったに違いない。
だって――
「ちょ、こ、わ――――おとおおおろそそろおろそ」
「……何か言っているのか? すまない、後ろからの声は聞こえにくいんだ」
この速度で移動するのが怖すぎて、とても目を開けて現実を直視するなんて、できなかっただろうから。
「いいいあいいあいあいとおとおとお」
「……? 『もっと速く』?」
「んんんんんんーーーーーー!!!!!!」
言ってない。
全然言ってない。
もう完全に発話は諦めてフェリシーはシオの肩を叩く。それはもう叩きに叩く。伝わってくれ、という気持ちを心から込めて、必死になって叩く。
「…………?」
しかし言葉なしで全ての意思疎通が図れるなら、人類は言語を発達させたりしなかったのだ!
「すまない、わからな――いや、そうか。足音と風の音が邪魔なら、それを置き去りにする速度で行けばいい……そういうことか、リーダー」
「んんんんーーーーーーんんんんんーーーーーー!!!!!!」
「任せてくれ。君の期待に応えよう」
いくぞ、と言ってシオの上体が深く沈み込む。
やめろ、という思いでフェリシーは彼の肩を叩く。
ちょうどそれが、合図になったみたいに。
「音を、超える――――!」
「超えるなーーーーーっ!!!!!!!!」
奇跡的なタイミングでフェリシーはその言葉をはっきり口にできたけれど。
やっぱりそれも置き去りで、誰の耳にも届かず消えた。