番外編① 記念に
「うおわあーっ!!!!」
と絶叫しながら、アルマがぶっ飛んできた。
フェリシーはそれを見ていた。見ていたけれど、あまりにも突然のことなので上手く反応できなかった。視界の真っ正面にアルマの背中がある。ぐんぐん迫ってくる。
このままだと、鼻が潰れる。
「危ない」
そうしたら、ぐいっとシオが肩を引っ張ってくれた。
すごい力だから、それだけでフェリシーの身体は簡単に動く。具体的に言うと、身長の二倍くらいの距離を一気に遠ざかる。こうなると、アルマの手足がのびのびと伸ばされていても、その爪の先すらフェリシーには当たりようがない。彼女が元いたはずの空間には、今や空気しかない。
では、彼はこのあと何に当たるか。
壁である。
「ぐえーっ!!!!!」
ドカーン、と工事現場みたいな音がした。
フェリシーの頭の中には、こんな想像があった。両手両足を☆の形に広げたアルマが、壁にぶつかる。そうするとその勢いのまま壁がくり抜かれて、フェリアーモのオンボロな別荘には☆型の穴ができる。そして自分は「どひゃ~」とか間抜けな声を上げて、何となく話にオチをつけていく。
そんなことはなかった。
ものすごく痛そうな音が鳴って、でも壁は抜けなくて、アルマは壁に背中をつけたままずるずる崩れ落ちて、ドアとのすれ違いざまに足の小指を強打したときみたいなじわ~っとした痛がり方をしている。
安全確認。
右、左、右。
「大丈夫……?」
それからフェリシーは、そっとアルマに近付いて、
「そんな張り切って面白いことしようとしなくていいよ?」
「しとらんわ!!!!」
なぜこんなことになってしまったのか。
時間は、十五分くらい遡る。
卍 卍 卍
「この家でかすぎない?」
と、アルマが言い出した。
その日はどういう日だったのかというと、祝勝会の日だった。
苦節一週間ちょっと。最終的に馬鹿みたいな作戦を思いついて、馬鹿げたことに実行に移して、馬鹿馬鹿しいことに成功してしまった日。これからの先行きはまだまだわからないけれど、とにかく今日は大成功を収めたことだしパーティでパーティだ!ということで、集まって食って飲んで飲んで食って。
気付けば夜。
フェリアーモ家のお屋敷で、話はそんな風に始まった。
「没落貴族の割に」
「おい」
外では、しとしとと雨が降っていた。
この雨が、他の四人の帰りの足を鈍らせてしまったのだろうとフェリシーは思っている。どうせダンジョン予約の関係で、最近は昼も夜もない暮らしを送ってしまっている。雨が止むまでじっとしてれば、という言葉が日付を跨ぐことだって、そうおかしいことじゃないと思う。
実際、オズウェンとミティリスの二人は疲れもあってか、すっかりソファの上で寝入ってしまっている。二人の周りの床に散らばっている空き瓶については、とりあえず見ないことにする。
「シオも不思議に思わない?」
「ん、」
アルマに話を振られて、黙々と食事を続けていたシオも顔を上げた。右手にジャガイモ。左手にパン。彼は炭水化物をおかずに炭水化物を食べられる。
「このへんで部屋借りるときすげー高くなかった?」
「ああ」
ごくん、とそれを呑み込んで、
「わかる。他の街と比べると二回りくらい高い」
「な。足元見てるよな。冒険者とかいう誰でも名乗れる肩書で自分を塗り固めて人生適当に過ごしてる奴らの行き場のなさの」
「言い方」
「なのにこの家、すげーでかいじゃん。不思議だなと思って。金ないんじゃないの?」
それより実はフェリシーは「あれ、じゃあ二人って他の街に住んでたこともあるの?」という風に話を繋げたい気持ちもあったのだけれど、まあ確かに、アルマが言うことももっともだと思って、
「繁栄って長くは続かないから」
「聖職者の名言?」
「むなしいが真理だな」
「私もあんまり詳しく知らないんだよね。あったから使ってるだけ」
正直なところを伝えると、へー、とアルマもじゃがいもを咥えながら相槌を打った。
「そんなことあるんだ? 貴族ってみんな家のこと詳しいもんだと思ってた。先祖でメシ食ってんだし」
「って言っても、子爵家ってそんなでもないよ? この国だと村長のちょっと先くらいとか、何なら村長そのものくらいの感じだし」
「それでこんなに大きな屋敷を持っているのもすごいと思うが。リーダーの家の領地からもだいぶ離れているんじゃないか、ここは」
これも、確かにそうだ。
ぐるりとフェリシーは部屋の中を見渡してみた。
今でも結構通じるくらいの、ちゃんとしたキッチンがある。ソファもあれば机もあって、窓も広いから今日みたいな雨の夜じゃなければ、結構爽やかな陽気が演出されている。壁も床も、初めてこの場所に来たときこそ「うーん……」という感じだったけど、一生懸命掃除したおかげで、今は「まあ古いね」「古すぎるかもね」くらいの範囲で収まっている。
「迷宮で稼ぐよりこの家売った方が早かったんじゃない? 借金返済」
「住んでて命に危険が及ぶくらいボロくなかったらそれでもよかったんだけどね」
「今すげーこと言わなかったこの人?」
「気のせいだったことにしたい」
それからも、話はそこそこに続いていった。
ここ賃貸にしたらそこそこ恒常収入ありそうなのにとか。色々終わったら自力でリフォームしてそういう蓄財もやってみようかなとか。自力でやるのかとか。何代前に買ったのかくらいはわからないのかとか。四代以上前の先祖のこと知らないとか。貴族でそんなんあるんだとか。
「そもそも、これ買ったご先祖様と血が繋がってるかわかんないしね」
「え?」「そうなのか」
「そうそう。意外とずっと世襲ってわけじゃないんだよね。上の方の階級は分家筋とか作って維持してるみたいだけど、子爵家くらいだと当主が早死にしちゃったり、子どもが他の家の養子に入って継いじゃったりとか、色々あって」
そういうのもあってあんまりお家の教育とかはしないところも多いかもね、とフェリシーは告げた。それで変な経歴出てきてもややこしいし、と。
ふうん、とアルマは頷いた。
もぐもぐ、とシオは咀嚼した。
そしてとうとう、片方が言い出しっぺになる。
「この家、隅々まで調べた?」
いや、とフェリシーは言った。ここに至るまで爆速で全てをこなしてきたから、居住空間とか面接室以外は掃除すらしていない。そっか、とアルマは頷いた。
立ち上がった。
「調べてみね? もしかしたら蔵の中に財宝とかがドシャドシャ埋まってるかもしれないし!」
そんなわけはない、ともちろんフェリシーは思う。
しかし、成功体験と祝勝会とその場の勢いというものは人を変える。
「――――確かに!」
絶叫して、それに続くことにした。
卍 卍 卍
という流れで今、こうなっている。
アルマが床の上にうずくまっている。
「墓荒らしに罰が当たってる」
「末裔の許可取ってるんだから墓荒らしじゃないだろ!」
流石に可哀想になったので、フェリシーはアルマの背中を擦ってやった。多少痛みを和らげるくらいのことはできなくもない。その傍らで目を上げて、今しがたアルマが吹っ飛んできた方角を見つめてみる。
ロープに括られて、丸太が下がっている。
コンコン、とシオがそれを拳で叩いて、
「罠だな」
「デストラップハウスじゃねえか、フェリアーモ邸……!」
自分の家が、デストラップハウスになっていた。
許せねえ、とアルマが低い声で呟く。フェリシーは両手を肩のあたりまで挙げて「わたしかんけいありません」のポーズで責任逃れをしておく。実際そんなに関係ない。あと、事前準備でこっちの方まで掃除しておかなくてよかった。
「でも、俄然燃えてきたぜ!」
おかしな奴というのは、いつの時代もしぶとい。
相当ダメージを食らっていただろうに、すくっとアルマは立ち上がった。
「デストラップが仕掛けられてるってことは、何か価値のあるものが隠されてるってことだろ! 絶対奪い取って俺たちの貯蓄に変えてやろーぜ、なあシオ!」
「ああ」
「私の家の貯蓄なんだけど」
言いたいことは結構あったが、フェリシーはそれ以上何も言わないことにした。
最終的には背中から刺せばそれで解決することだったからだ。実際、このデストラップが仕掛けられた蔵の中に何が眠っているのかは自分も気になる。精々この二人の無謀な勇気と窃盗欲求を利用させてもらうとしよう。
「よし、それじゃあ早速――お?」
「僕が先に行こう」
何の学習の痕跡もない様子で突っ込んでいこうとしたアルマの襟を、シオが掴んだ。
「あのタイプの罠が仕掛けられているようなら、アルマの耐久力では不安が残る。その点、僕ならあの程度ではびくともしない。斥候は任せてくれ」
「シオ……君、マジで良い奴な!」
麗しいチームワークが披露される。
シオが、まるで山野に切り込む狩人のような険しい目つきで、その部屋の中に一歩を踏み込む。
「おっ」
滑った。
「お、おっ、」
シオは、頑張っていた。
踏み込んだ一歩目で滑って、完全に両足が宙に浮いてからも、まだどうにかしようとしていた。両手をぶん回していたし、足もぶん回していたし、結果としてその後ろにいたアルマは「あぶねっ」と危機察知能力を発揮して一歩下がり、誰も手助けができなくなった。
「うわーっ!」
そうして、シオは滑っていった。
ドゴーン!!!!!!!!
と、爆発みたいな音がした。
「…………」
「…………」
「……ちょっと、あんまり現実を直視したくない気分かも。代わりにアルマ、見てくれる? 壁に☆型の穴開いてる?」
「もっとすごいことになってるよ」
どうなってんだよ、と気になりすぎて目を開いた。
すごかった。
「し、死ぬかと思った……」
蔵の奥に、ドでかい棘があった。
どのくらいでかいかというと、常軌を逸している。まきびしとか、そんなチンケなものとは全く比べ物にならない。中型くらいの動物くらいなら串刺しにできそうな無数の針が、滑っていった先の壁に設置されていた。
ちなみにそれは全部、シオに激突して根元からブチ折れていた。
「毎日牛乳を飲んでいて助かった」
「そういう問題?」
「オレも毎日牛乳飲もうかな」
「とりあえず、二つ目の罠はこれで破壊した。二人とも、こっちまで来るといい。転んで頭を打たないようにな」
シオが両手を広げる方に、言われた通りフェリシーはアルマと飛び込んでみた。念には念を入れて生まれて初めてスケートに挑戦するやや骨粗鬆症気味の高齢男性ギルバート・ギムソン(御年九十六歳、夏生まれ、孫六人)みたいなおっかなびっくりで足を踏み入れてみたが、これが信じられないほど滑る。物理の問題集でしか見ない摩擦係数ゼロの床みたいな滑り具合で、この世で一番不安な気持ちになりながら二人でシオの両腕に収まった。
「よし。直線移動ならできるようだから、ここからは僕が先導しよう。全てを破壊して道を作る」
「作らせないよ?」
「そうだよ、シオ。財宝までこっぱみじんになるだろ」
じゃ、と横目にアルマがこっちを見て、
「フェリシー、ここから先よろしく。順番だから」
いつの間にかターン制攻略が始まっていることを知らせてくる。
えー、と不平の声を上げるけれど、流石にまともに取り合ってもらえるとは思っていないし、取り合われてシオが全てを破壊し始めても困る。一旦、ここは真面目に考えてみる。
周囲を見た。
今更だが、ここはフェリアーモ家が迷宮都市に所有している別荘の一角だ。特にその中でも、奥まったところにある。前に一通り中を周ったときに、蔵として使うならここだろうなという、いかにも重々しい鉄扉があった。その先だ。
実際中は広いし、そういう風に使われていてもおかしくはないと思う。
だいぶ薄汚くはあるけれど。あちこちに蜘蛛の巣が張っているし、埃もすごいけれど。所狭しと並べられている棚も年季が入っていて今にもフレームがへし折れそうだし、そこにぎゅうぎゅうに詰められているのもいかにもどうでも良さげな紙箱とか折れた木材とか捨てるのがめんどくさそうな割れた後の割れ物とかだけれど――
「――あのさ」
「ん?」
「もしかしてここ、ただの物置じゃない?」
全員黙った。
黙りすぎて、廊下の向こうから聞こえてくる外の雨音が、はっきりと耳に届いた。この部屋には窓がない。中で音が、何度も響く。
すうっ、と隣で息を吸う声。
「んなわけないじゃん」
アルマが言う。
だってそんなことあったらさ、
「フェリシーの先祖は何でもない物置にデストラップ仕掛けたのかよ!! デストラップハウスどころか快楽殺人鬼の館じゃん!!!」
「人の家のこと快楽殺人鬼の館って言わないで!!!!」
いや待て、とシオがその真ん中に挟まれて、
「こうは考えられないか。元はここはしっかりした財宝を守るためのデストラップルームで、それ以降の当主が何となくこの部屋をああいうゴミ置き場にも使い始めたという」
「私の先祖がゴミ捨てめんどくさがって毎回デストラップルームに危険を冒してゴミを置きにきてたってこと!?!?!?!? イカれてるでしょ!!!!!」
「どっちにしろイカれてんだよ、君の先祖全員!!!!! 快楽殺人鬼か命とゴミ捨て天秤にかけてゴミ捨てを回避してる人間かのどっちかなんだよ!!!!」
そして、そこから信じられないことが起こる。
アルマが、立ち上がったのだ。
「オレは、諦めねえ……!」
死にかけの小鹿のようにブルブルと膝を震わせながら、彼は熱い息を吐いて、
「ここまで来たんだ! 絶対に、フェリシーの家の財宝を持って帰ってやる!」
「私の家のなんだけど」
「ここまで来た記念品だろ!!! うおおおおお――」
つるっ。
ドカーン。
卍 卍 卍
「――結局、マジで大したものなさそうじゃん」
とりあえず、一段落したという体になっている。
三人は今、何とか棚まで辿り着いて紙箱の中を覗き込んだりしていた。
そうしたら、出るわ出るわのどうでもいい物品の山。備品倉庫も兼ねていたのだろうか、何の変哲もない紙束とか、靴紐の予備とか、多分猫用かなという大きさの首輪とか。
アルマの言う通りだった。
「まあ、子爵家だから。こんなもんだよ」
「子爵家ってこんなもんな倉庫にデストラップ仕掛けんの?」
「そうだよ」
「大丈夫か、リーダー。開き直って」
いいとは思わないが、それ以外にどうしたらいいかわからない。
快楽殺人鬼の館か、それともゴミ捨てと命を天秤にかけてゴミ捨てを回避した人間がいたか。他にもたとえば、適当に物を放り込んでいったら偶然にもデストラップダンジョンができてしまったとかそういう可能性も考えられるけれど、どれをとっても何かがおかしい。
というわけで、考えない。
「こんなもんだよ」
「うわ、この人これ一点張りで行くつもりだよ。どう思う? シオ」
「勝手に期待した僕たちが悪いと言えばそうだが、釈然としなくはある」
なー、と相槌を打つアルマは、意外ともう諦めている。
一方で、意外にもシオはまだガサゴソやっている。特にフェリシーも、それを止めるつもりはなかった。
どうせ、財宝なんて出てきやしない。
確かにこんなに大きい家をうちが持っているのは謎だけど、二人にも言った通り、所詮は子爵家なのだから。それに、金銀財宝みたいないかにも目立つものがあったとしたら、両親が自分より先にそれを見つけて、借金の返済に充てているはずなのだから。
「あ、」
「え?」
だから、その声色に驚いた。
「ウソ。何かあった?」
アルマが食いつくのが一番早い。山分け、と浅ましい言葉を口にしながらシオの方ににじり寄る。並んで、その箱を覗き込む。
「肖像画だ」
シオが言った。
肖像画?と疑問を浮かべながらフェリシーも二人に続く。シオが持っているのは、自分一人でも簡単に抱えられてしまうような大きさの箱だ。到底、肖像画なんて巨大なものが入るわけがないと思うけれど。
実際に目にしたら、フェリシーは自分の感覚のズレに気が付いた。
普段が生徒会で、王女様や公爵令息の皆々様と一緒に過ごしていたから。肖像画と言ったら、お城の吹き抜けにドン!なやつだと思い込んでいた。
葉書大の、小さな絵だった。
シオがそれを肖像画と呼んだ理由も、フェリシーには何となくわかる。この物騒かつしょうもない倉庫にあるにしては、立派な木のフレームに入っている。絵の感じも、街の似顔絵描きが描いてくれるような、顔だけにフォーカスしたものとは少し違う。
そもそも、二人描かれている。
一人は、いかにも快活そうな笑みを浮かべた、肩幅の広い女の人。もう一人は、厚めの前髪と眼鏡、ほんの少しだけ口元を歪ませた、これもまた女の人。
その二人の一瞬を、写実したような絵だった。
「似てるな」
「ね。やっぱり血縁あるじゃん」
立て続けに二人が言うから、しばらく何の話をされているのか、フェリシーは掴めずにいた。
「え、私に?」
「それ以外いないでしょ――って、わかんないの?」
わかんない、と素直に答える。
どっちが、と訊くとシオが指差して教えてくれそうになる。教えてはくれない。途中でアルマが止めたから。
「こういうの自分でわかんないもんなんだ。おもろ」
「僕の村にも双子がいたが、お互いに『似てない』と言っていたな」
「あ、オレもそういう人知ってる。双子じゃないけど。ああいうのって似てれば似てるほど似てないとこ探して『違うな~』ってなるのかもな」
「そうなのか。僕は案外自分の顔を見る機会が少ないからなんじゃないかと思っていた」
「え、待って待って。どっち? 本当にそんなレベルで似てる?」
いや、とシオがそれを受けて、
「雰囲気が似通っているだけだから、確かに自分ではわからないかもしれない」
「でもこれ、多分寝てる二人に見せても一発で『先祖?』って言うと思うぜ」
ちょっと貸して、と奪い取ってみる。むむむ、と目を凝らしてみる。
わからない。
カンニングに挑戦。
「あ、それ裏開くんだ」
アルマはこういうピクチャーフレームを見たことがなかったのかもしれない。
開かないわけがない。仮にフレームの隙間に上から差し込むにしても、それじゃ二度と取り出せなくなってしまうから。こういうのは裏面に留め具があって、それを外せば背板が抜けるようになっている。
で、名前の一つでも書いてやしないかと思った。
書いてなかった。
代わりに、こんな文字がある。
『たった一瞬を記念して 永遠の友人と』
「サインか?」
シオが、それを覗き込もうとする。
アルマが続けて、「もしかして高く売れるやつ?」とも言う。
「――ううん」
フェリシーは、それには答えない。
「別に、名前とかはなし。画家のサインも」
何だよ、とアルマは言った。
本当だよ、と手渡してやったけれど、特にもう一度背板を外す気配はない。ただ、シオの方にそれを向ける。なあシオってなんか芸術肌っぽい雰囲気あるしこの絵の良し悪しとかわかんないの実は伝説の作家の隠れた逸品だったりしないの。どちらかと言うと芸術肌なのはミティリスだと思うが。そんなことを言い合っている。
一方でフェリシーは、このしょうもない倉庫の中に想像の空を浮かべている。
どうして子爵家ごときが、こんな良い立地に、こんな大きなお屋敷を設えられたのか。
たとえば、こんな話があったかもしれない。
そのときのフェリアーモの娘は、いかにも引っ込み思案で人との関りが薄い。打ち込んでいることと言ったら、暗い部屋の中でせっせこ本を読んだり魔術の実験をしたり、そればかり。
でも、そんな彼女にはたった一人、親しい幼馴染がいた。
快活で声が大きくて、ちょっと邪険にしたって平気な顔で次の日も訪ねてきてくれる。強引なところは苦手だけど、まあ、日々のちょっとした刺激としては悪くない。そんな彼女が、ある日突然窓から押し入ってくる。何なの何なの。大焦りで訊くと、幼馴染は右、左、右。誰もいないことを確かめてから、こんな風に言う。
実はさ、良い儲け話があるんだよ。
あるいは、こんな話。
そのときのフェリアーモの娘は、いかにも活発で、貴族の生活に馴染めていない。打ち込んでいることと言ったら、そのへんの木に登ってみたり、そのへんの木から落ちてきた枝を振り回して風を切ってみたり、そのくらい。
でも、そんな彼女はある日、どさくさに馬をかっぱらって旅に出た。
辿り着いたのは、名前も知らない華やかな街。ここなら何かが変わるかも。そんな呑気な考えを引き裂く、路地裏からの鋭い悲鳴! 後先なんて考えない。慌てて駆け付けると、そこには分厚い眼鏡の少女が一人。いかにも怪しい大男が五人。眼鏡の少女は、確かめる余裕すらない。突然現れた見ず知らずの枝持ち少女に、こんな風に言う。
お願い、助けて!
他には、たとえば――
「――じゃ、このへんにしときますか」
その言葉で、想像は途切れた。
良い区切りだ、とフェリシーは思った。もうすっかり真夜中も真夜中だから。今日は散々暴れ回ったし、もういい加減一日を終わりにしてもいい頃だ。あんな風に思考が飛んでしまったのも、きっと眠る前に色々と取り留めのないことを考え始めてしまうのと同じだと思う。もう少しでこのまま寝てしまうところだったのかもしれない。
そう。
だって、寝そべっているのだし。
「……で、どうやって戻る?」
「任せろ。まずは僕が部屋を――うおっ!」
「どわあっ!」
ガオーン、と。
鉄の塊でも落ちたような音がした。
「ば、ばっか! シオの体重で落ちてこられたら死ぬだろ!」
「すまない。次は滑らな――」
「うわああああ!!!!!!」
一旦、確かに落ち着きはしたのだ。
それは決して嘘ではない。
三人揃ってつるつる滑りまくった挙句に、棚に激突して停止したことを「落ち着いた」と呼んでいいなら、それで全然嘘ではない。
問題は、全くこの滑る床を攻略したわけではないということ。
棚に掴まりながらですら立ち上がるのが難しく、人の十倍の体重が自分たちの顔の真横にさっきから降りまくっているということ。
「ちょ、ちょっと待て! 一旦落ち着こう!」
「シオくん、ストップ! 一回待とう!」
「心配無用だ。そろそろ僕も慣れて――」
「うわあああああ宙返りすんな!!!!」
「えっすご連続宙返りでほとんど宙に浮いてるみたいになってるのに全然立ててない!!」
「目が回ってきた」
「回んな!!!」
「回らないで!!!!」
「――何してんだ? お前ら」
助けが来た。
むしろ遅すぎたくらいだ。大騒ぎに大騒ぎを重ねて、とうとう遠くの部屋で眠りこけていた他の仲間のうちの一人が、様子を見にきた。
「オズ――オズウェンの方かあ」
「何だ、失礼な」
赤ら顔の彼は、片手に瓶を持ったまま入口の向こうに立っている。
正直に言うと、フェリシーも同じことを思った。オズウェン先輩の方かあ。しかも酔っ払いかあ。しかし、背に腹は代えられない。勢い込んで、
「先輩! ここ、デストラップルームになってるんです!」
「は?」
「いやマジなんだって! オレらここに金目のものがないかって探しに来たら――」
「何、金目のもの!!?!!!!?」
「あっ馬鹿、」
つるっ。
ドカーン。
「…………」「…………」
「酒は呑んでも呑まれるな、という言葉の意味が今わかった」
フェリシーは、アルマと床に寝ている。
その上でシオは、くるくると宙返りを繰り返し、そういう生き物みたいになっている。
一方、瓶を持って入場してきたオズウェンは、一歩目で滑って転んで壁に激突して、瓶だけは割れないようにと腹に抱えて、再び熟睡を始めている。
必要とされていた。
現実逃避が。
ぼんやりと天井を眺めながら、フェリシーは考えている。あの肖像画に収められていた、三つ目のドラマのこと。
たとえば、と。
どっちがフェリアーモでもいいや。
実家が嵐に襲われて、とんでもない借金を背負う羽目になった。もうこうなったらしょうがない。迷宮で一稼ぎだ! 彼女は一念発起。遥々やって来たのは、遠い遠い迷宮都市。冒険者の街。
早速求人だ。【急募】【短期間で稼ぎ切りたい方向け】なんて怪しすぎる文句を書き添えて、ギルドに発注。こんなろくでもない文句に引っ掛かるのはろくでもない人間しかいないから、ろくでもない相棒が現れた。二人は若さに任せて向こう見ずに大突撃。ひょっとすると、迷宮の中でリアカーを乗り回したりもしたかもしれない。しないか。
で、大儲け。
そこからはもう、大成功を祝ってパーティでパーティだ。
浮かれてお屋敷なんか買っちゃったりするかもしれない。凄腕の画家を呼んできて、肖像画を描いてもらうなんていうのもいい。後で読み返したときの恥ずかしさのことなんか考えないで、『永遠の友人と』なんて裏書までしちゃうかも。
で、こんな会話をする。
「これ、どこに置いとく?」
「財宝みたいに大切にしまっておきましょうよ。蔵とかに」
「この部屋? いいじゃん」
「で、財宝っぽく周りに罠とか仕掛けておきましょうよ」
「デストラップ? いいじゃん」
いいわけねえだろ。
許せねえ。
「だー、もう仕方ないか。諦めて匍匐前進と受け身を繰り返してオレがとりあえず入り口まで――」
「うおおおおおお!!!!!」
「なんで急にやる気出した?」
「うわああああ!!!!」
「そんでなんで勝算なしで普通に転んだ?」
「ちょ、ちょっとちょっと! どうしたんですか、皆さん一体!」
「あ、当たり来た!」「ミティリス、助けてくれ」
べしーん、と床にうつ伏せで叩きつけられながら、フェリシーは先祖に対する怒りを燃やしている。
とうとう眠りから覚めて様子を見にきたミティリスが「えぇ……?」と困惑していたりするのを聞きながら、救出用に投げ込まれたロープにしがみついて引っ張ってもらったりしながら、命からがら生還しながら。
怒りを燃やしつつ。
それはそれとして、と考えている。
全部が終わったら、と。
「ありがと~……助かったよ……」
「いいんですが、どうしてこんな……あっ!」
「えっ?」
「服! どうしてそんなに汚しちゃったんですか! こんなところで寝そべってたら病気になりますよ!」
ああもうすぐ着替えちゃってください、とタオルで肩や顔を拭われたりしながら。オレたちも助けてもらっていいすか、とアルマたちが切ない声を上げるのを聞きながら。
ふっと口元を緩めて、フェリシーは考えた。
全部が終わったら、あんな風に絵にしてもらうのもいいかもしれない。
こんなにくだらない日々なのに。
なぜだかとても、素敵なものになる気がするから。
「どひゃ~」
「え?」
何ですか今の、とロープを引っ張るミティリスが振り返る。別に、と笑う。何でもない。いいから、と手の甲を振って、視線を逸らす。壁に寄り掛かる。アルマとシオがオズウェンを救出しようとして壁に激突するのをへらへらと眺めながら、雨の夜の少し冷たい手で、頬を押さえてみたりもする。
「ちょっと待てシオ! その宙返りしながら動くやつやめろ! 意味わかんないから!!」
「だが、これをやめると墜落する」
「何だお前ら……。人が寝てるときくらい、静、かに……」
「あの! とりあえず戻ってこられる人だけでも先に――うわっ、丸太が急に!!」
あはは、とフェリシーは笑う。
笑ってんなよ、手伝ってください、の声に「はいはい」と頷いて動き出す。引っ張る。転げる。大袈裟に笑う。もちろん嘘じゃない。何でもない。
ただ、ちょっと。
恥ずかしくなって、誤魔化しただけだ。
(番外編①・了)