エピローグ④(終) でも今は
「流石に王家相手に完全な情報封鎖は問題がある。ひとまず会長には知らせておいたぞ」
「……どうなりました?」
「気絶した」
迷宮都市、フェリアーモ屋敷、春の夕。
街に少しずつ、日中の終わりと夜の賑わいが漂い始めた時間のこと。
フェリシーは私室でどったんばったんと。
それをインガロットは、開け放った部屋の扉に背中を預けるようにして、ぼんやりと。
「え゛っ……」
「手を止めるな。そのまま続けろ。……全く。どうして貴様はいつもギリギリまで準備が終わらんのだ」
「ふ、副会長が急に言い出すからじゃないですかっ。私はゆっくり明日の朝に出るつもりだったんですって」
「明日の朝に行くにしてもそろそろ準備は終わっていていい頃だろう。……不満なら、別に乗り合わせの話はなくてもいいが。のんびり鈍行でいけばいい」
「あっ、ちょっ、待ってください! そっちのふかふかの馬車がいいです!」
ならさっさとしろ、とインガロットは言う。
はいさっさとします、とさらにどたばたフェリシーは暴れ始める。
つい二時間前のことだった。
昼食を外で終えてからふらふら街を歩いていたフェリシーが、同じくふらふら――していたわけではないだろうが、街にいたインガロットと遭遇して、「今日の夕方に学園へ発つつもりだが、一緒に乗っていくか」と誘われたのは。
一般的な鈍行馬車に乗っていくのと、公爵家が使うようなそれに乗っていくのとでは、快適さに天と地ほどの差がある。
ふたつ返事でフェリシーは「よろしくお願いします」と返した――なにせ、四人の居候はもういない。後は自分が出ていくだけで、屋敷は閉じられる。
だから彼女は、こうして今も終わらない片付けに勤しんでいて。
様子を見にきたインガロットは、呆れた様子でそれを見ている。
「というか、たったの二ヶ月でよくこれだけ散らかせるな……。身体が十人分あるのか?」
「散らかってるんじゃなくて展開してるんです! 色々実験するときに棚の中に物をしまっておくと時間のロスだから……というか、魔術師の部屋が片付いてる方がおかしいんです!」
「素晴らしい見解だな。学会で発表してこい」
「あ、ヤバい。この薬品は梱包しないと……」
はぁあ、とインガロットは溜息を吐く。
学園で教育を受けた男性はみんな溜息を吐くようになるのだろうか、と失礼なことをフェリシーが考えていると、彼は扉から離れて、つかつかと長い足で寄ってきて、屈みこんで、
「梱包ならやってやる。お前は他のところをやれ」
「え、いいんですか」
「構わん。待っていたら次の日になりそうだ」
すみません、とフェリシーはそれを任せて、言われた通り別のところに取り掛かる。
梱包材はどこだ、これです、というかなんだこの薬品は、実験に使いました、値段の話だよくこんなものを、自分で作ったからそんなでもないです……。
そんな風に、会話を重ねながら。
やがてそれぞれのする作業がはっきりして、黙々と取り組めるようになると。
話は戻って。
「……で。そのあとどうなったんですか?」
「ん?」
「会長の話ですよ。気絶って、本気の気絶ですか」
盛られた表現だろう……という期待が、フェリシーの中にはないでもなかった。
が、そのままの表現なのではないかという諦めも、ちょっとあって。
「ああ。借金が実は三億あったという話を聞いた途端に、魂が抜けたようになってな。そしてしばらくしてから意識を取り戻すと……」
「……戻すと?」
「一言も口を利かなくなり、俺はやむなくその場を後にした」
「一番怖いやつじゃないですか!」
俺は知らん、とインガロットは薄情なことを言う。
ぽんぽん、と彼は自分の作った梱包の出来を手のひらで確かめて、他にはあるか、とテキパキ動きながら、さらに続ける。
「情報の秘匿に関しては一番効率の良い形で処理した。後はお前と会長の個人的な関係から生じる問題だろう。自分で何とかしろ」
「…………副会長」
「なんだ」
「『会長に言ったら怒られるけど実は黙ってること』とかないですか?」
「あったらどうする」
「一緒に報告に行きましょう。会長の体力切れで怒りダメージの総量が少なく済む可能性があります」
「叱責に体力で挑もうとするやつがあるか」
そもそもそんなものは俺にはない、とインガロットは言う。
そんなあ、とフェリシーが落ち込めば、追い討ちのように、
「だいたい、なぜそんな借金がありながら最初に俺たちに相談せんのだ。フェリアーモ領でのこともそうだが、貴様が随分余裕そうにしているから、俺も会長も被害状況の詳しい調査をせずに後手に回ってしまったんだぞ」
「いや、あのときはもう頭いっぱいで……。ていうか、最初の被害のときは私のせいじゃないですよ。『大丈夫そう?』『帰ろうか?』って手紙を送ったら『平気だから勉強してなさい』って……」
言いながら、フェリシーは気付いた。
この状況の隠し癖……自分にもまた、遺伝しているのではないかということに。
「……今度からは、早めに相談します」
「そうしろ」
「じゃあ早速なんですけど、会長と遭遇したらめっちゃ怒られるはずなので、副会長が身代わりになってください」
「お断りだ」
大人って汚いなあ、と溢しながらフェリシーは、衣類の詰め込みに取り掛かる。
何が大人だ一つしか年も違わんだろう、とインガロットも、教科書類を纏めて箱詰めにしてくれる。
二ヶ月を過ごした、古びた屋敷の一室が。
徐々に整然と、片付けられていく。
「こう言うとなんだが、悪いようにはならん。あの方はお前を気に入っているし、『夜の風』を討伐した功績もある」
「……まあ、気に入られてるのはそうだと思いますけど」
「可愛さ余って、というやつだ。大人しく受け取っておけ。……フェリシー」
「はい?」
「大変だったな」
びっくりして、フェリシーはインガロットに振り向いた。
けれども彼は、まるで自然な、いつもの整った美しい顔立ちのまま、ただ夕陽色に染まった教科書の背を撫でている。
「……珍しいですね。副会長が私にそういうこと言うの」
「そんなことはないだろう。いつも言っている」
言ってませんよ、いや言っている、と水かけ論があって、それから。
「本来、表沙汰にすれば国の英雄だ。当然その称号を得ることで失うものもあれば、背負わされるものもある。公にしなかったこともまた、お前自身の選択ではあるが……」
ぴたり、と彼は指を止めて。
まっすぐに、瞳と瞳で、見つめ合う。
「だが――誰も褒め称えなくていい、ということにもなるまい。
フェリシー・フェリアーモ。
私は一人の市民として、君に感謝する。
一人の魔術師としては敬意を、貴族としては誇りを。
そして、一人の友人としては、労いを。
よく頑張った。皆を守ってくれて、ありがとう」
そうして、深々と。
ただ、ひとりの人間が当たり前にそうするように――インガロットは、頭を下げた。
何かを、フェリシーは言おうと思った。
出ましたねそれとか、借金がなければこんなことしませんでしたよとか、日頃からこのくらい感謝されたいものですとか……そういう、いつもの調子の言葉を返そうと、そう思った。
けれど、軽い言葉じゃとても耐えられないくらいに、彼の態度は真摯だったから。
結局。
「どう、いたしまして」
素直にそう答えるのが、精一杯。
やがて、彼は頭を上げる。何でもない調子で銀縁の眼鏡を上げて、さて、とまるで冷静そのもののような顔で。
「どうだ。そろそろ片付いたような気がするが」
「あ、は、はい! ……あの、一応言っておきますけど、次は期待しないでくださいね。ひとりじゃ全然、あんなの無理ですから」
「お前たちは全員それを言うな」
「全員?」
安心しろ、と彼は言って、
「そんな期待はしていない。全員が全員もうやらんと言っているものが、もう一度起こるはずもあるまい。……で、なんだ。俺はそろそろ貴様を置いていくというのも選択肢に入ってきているんだが」
「い、いやいやいや! もうこれ入れたら終わりですから、終わり!」
「ならさっさと……おい待て。留め具が――やめろ、ふたつに分けろ、鞄が壊れるだろう!」
なんという大雑把なやつだ、と寄ってきて、フェリシーとふたりで押し合いへし合い。
やがて、双方納得のいく形で全ての荷物が纏まれば。
茜色に染まる部屋。
今はがらんとして、春の日の、今日の終わりに近付いている。
ゆっくりと、フェリシーは扉を開く。
インガロットに荷物を半分持ってもらって、廊下に出る。一瞬だけ部屋の窓を見て、それからゆっくり、音を立てて扉を閉じる。
ぎぃぎぃと、いつものように床板を軋ませながら、ふたりは歩いていく。
言葉が交わされる――いい加減この屋敷は改修が要るんじゃないか、まだいけますよ、この間シオくんが床を破ったと聞いたぞ、なんで知ってるんですか、本人から聞いた、でもお金の問題があるのでちょっと自力で勉強してみます――埃ひとつない窓枠。そこに降り注いで散乱する、やわらかな春の灯り。
静かになった屋敷の中を。
遠く、街の声を聞きながら、ふたりは歩いていく。
とうとう玄関に辿り着く――インガロットが先に出て扉を押さえてくれるから、よいしょよいしょ、と開いているうちにフェリシーも外に出て。
扉が、閉まる。
たったそれだけで、春休みが終わってしまったみたいに、ふっつりと。
「馬車は少し先の広場だ。俺の荷物はすでに預けてあるから、このまま直接行くぞ」
「はーい……。あ、すみません先輩。ちょっとこっちの荷物持ってもらっていいですか?」
「全部は持たんぞ」
「一瞬、一瞬」
本当か、と問いたげな顔で、インガロットは荷物を持ってくれる。
そんなに信頼がないだろうか、自分の信頼というよりそっちの信じる心の方の問題じゃないだろうか……そう思いながらフェリシーは、春用の薄い外套のポケットに手を入れて、それを取り出す。
鍵。
小さく古びて、しかしつい最近手入れされたのだろう、綺麗に整った銀色の、精緻な彫りの刻まれた鍵。
それは勿論――、
「ほう。施錠をする気になったのか。感心だな」
「ふふふ……そうでしょう、そうでしょう」
「当たり前のことだろう。調子に乗るな」
「飴と鞭ってそんなほぼ同時に出していいものなんですか?」
素直に私の進歩を認めてください、と図々しくフェリシーは言う。
左手で取ったそれを右手にパスしようとして、しかし肩に掛けた鞄がずり落ちないように……なんて無闇にバタバタしながら、しっかり施錠できるようにと、扉の取っ手を掴む。
そして彼女は、鍵をかける。
かちゃり、と。
そのたった一つの音だけで、五人の住んでいた屋敷は箱に変わる。
二ヶ月分の春の思い出がいっぱいに詰まった、一つの箱。誰の声もないそこはひどく静かで、この賑やかな街の片隅でひっそりと、忍ぶようにして佇んでいる。
「前までだったら、別に鍵なんてかけなくてもよかったんですけどね」
丁寧に、フェリシーは鍵を引き抜いた。
それから、いつも大抵の小物に対してそうするようにポケットにしまい直すことはせず、キーケースを取り出して、パチンと嵌める。
荷物を開いて、底の方。
あらかじめ決めていたのだろう場所に、包み込むようにそれを置いて、もう一度荷物を閉じて、抱えて。
「でも今はここに、色々ある気がするので」
フェリシーがそう言って微笑めば。
そうか、と言ってインガロットも笑う。
そして彼は、さあ、とフェリシーから預けられた荷物を抱え直す。
ありがとうございます持ってもらって、とフェリシーがそれに手を伸ばすと、しかし彼はそれを返す素振りは見せないで、
「学園に帰ったら、春季休暇の間に溜まっていた仕事が山ほどあるぞ」
「ありません」
「貴様が決めることではない」
疲れもあるだろうが少しずつ生徒会には復帰してもらう、と言って、ゆっくりと歩き出してしまう。
フェリシーは少し迷う……けれど歩幅が違うから、やっぱり迷っていられる時間はあまりない。だからそれを受け入れて、彼を追いかけて、
「あ、」
その途中で。
そういえば、と思い出した。
「副会長」
本当は、さっき言うべきだったのかもしれない。
つまり、頭を下げられたときに――でもまあ、いつ言ってもいいだろうと思うこと。反対に、どこかでは必ず言うべきだろうと思うこと。
ん、と彼が振り向く。
その間に彼女は彼に追い付いて、並んで。
その顔を覗き込むようにして。
ほのかに笑って、こう告げる。
「応援しに来てくれたの、嬉しかったです。ありがとう」
ゆるやかに。
本当にゆるやかに、春の夕陽が沈んでいく。
その日が終わっていく――けれどその陽がまた昇ってくることを知っているから、ふたりは気に留めもしないで。
行く足取りは不思議な灯りの中で、踊るように軽やかで。
そして、賑やかな街を行くものだから。
それから何を話したかなんて、ふたりのほかには、誰にも聞こえない。
(了)