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7-1 伝言



 インガロット・イングレディオはその時間、とても疲れていた。


 どのくらい疲れていたのかと言えば、親しい後輩のために日も昇らないような時間から馬車を乗り継ぎ、ようやくその後輩のいる街に辿り着き、「なんとかなります、大丈夫です!」と言い残して旅立ったはずの彼女の借金総額が三億だったことが発覚し、そこから対応を練っていたところ何やらとんでもない魔獣が出現して唐突に街と国の危機に対処する必要が出てきて街の上層部と相談をしてその合間を縫って後輩のところに赴いて報告と解決策を述べてさらに戻ってきて再び対策を――、


 ということを一通りこなして、そろそろ。

 軽い眩暈を覚え始めたので、思わず冒険者ギルドの執務室を離脱。そして給湯室で火にかけたヤカンが沸騰へ向かうのをぼんやりと見つめている……そのくらいの疲れ方をしていた。


 普段の彼であれば、この時間すらも無駄にはしない。

 何か仕事をしているか、勉強をしているか、考えごとをしているか――そうでなかったら給湯室の中をよく観察して、そこから何か学ぶべきことを発見しているか。少なくとも棚に並ぶ食器類やコーヒーの銘柄を見て、この場所に普段どの程度の来客があるのかを推察するくらいのことはしていただろう。


 しかし、今ばかりはそうもしていられない。

 純粋な作業負担も、心労も、これほど積み重なればいかに優秀な公爵家令息と言っても休息が必要になる。


 だから彼は、むしろ自身の脳をしっかりと休めるために――半分寝ているような微動だにしないっぷりで、ヤカンを見つめていた。


 魔術石から放出される穏やかな火の音と熱が、部屋にじんわりと広がっている。

 一方で、頑強な造りになっている冒険者ギルドの庁舎内にいてもなお、雨風の強まる音が彼の耳にも届いていた。


 すっかり嵐になっている。現時点でこれなのだ、あの全く抜けている、しかし妙に問題解決能力の高い後輩の知らせがなかったら、どれほど酷い事態になっていたことか。しかし現時点ですら、もはや自分の手に負える事態では――


「――いかんな」

 眼鏡を取って、目頭を押さえる。

 そしてインガロットは、小さく首を横に振った。


 思考の歯止めが効かなくなっている。最悪の予想ばかりが過る。

 しかし解決法を求めもしない悪い予想は、いずれ精神を蝕む。蝕まれた精神では、正しい判断を下せなくなる。


 今は思い切って、少しでも仕事から心を離した方が良い。

 そう判断したから彼は、再びヤカンに目を移し、


「――ん?」

 その音に、気が付いた。


 まず最初に、彼は身構えた。

 急に雨風の音が直接聞こえてきたのだ。直接、というのはつまり、建物越しではない音がしたということ。どこかの窓か、最悪扉が壊れたか。そう思って彼は、ここすら早くも安全な場所ではなくなっているかもしれない、という悪い予感を覚えた。


 しかし次に、彼は少しばかり力を抜いた。

 その『直接』の音がすぐに、建物越しに戻ったのだ。これはつまり、窓や扉が壊れたわけではなく、誰かが開けて、すぐに閉じたということ。


 給湯室は、裏口のすぐ近くにある。

 単なる出入りの可能性もあるが……魔術石の出力をしっかり切ってから、インガロットは長い足でその音のした方に向かう。


 ひょっとすると何かのトラブルがあったのかもしれない、と思っていた。


「――――な、」

「…………む」

 だから、初めに見たとき。

 幽霊がいきなり、この庁舎に乗り込んできたのかと思った。


 立っていたのである。

 黒く長い髪をした、びしょ濡れの人間が。


 かなり身構えた――何なら少しだけ、インガロットは迎撃用の魔力を練り始めていた。


 が、それよりも早く、その髪の向こうに見知った顔があることに気が付いた。


「君は、フェリシーのところの……」

「王子様か、ちょうどよかった」


 どうやって探そうか考えていたところだ、と。

 ずぶ濡れの髪を慣れた手つきで後ろにまとめれば、そこにいたのは小綺麗な顔立ちをした少年。

 

 シオ。

 フェリアーモの屋敷で遭遇して紹介を受けた、フェリシーのパーティに所属する『冒険者最速』の少年。


「伝言を預かってきている。今、時間を取ってもらえるか」

「あ、ああ……いや待て、その姿では寒いだろう。今、タオルか何かを」

「いや、平気だ。伝言を終えたらすぐに出る」


 ええと、と彼は。

 記憶を探るように、天井のあたりを見て。


「まず、借金問題は解決した」

「は」

「ミティリス……僕たちのパーティメンバーのひとりが、フェリシーのところの領民だった。ふたりの稼ぎを合わせて借金は返済、ということで片が付いた」

「……ま、待て」


 そうなると、と。

 唐突に告げられたその情報を、瞬く間にインガロットは噛みくだいて、


「それはつまり……そもそも君のパーティの稼ぎは、現時点で二億以上あったということか?」

「…………? ああ、十億はある」

「じゅ、」

「リーダーから聞いていなかったのか?」


 聞いていない、と本人が目の前にいたら、思い切り言い飛ばしていただろう。

 しかし現実にはその情報を隠していたフェリシーは――現時点でいくら稼げているかの質問に「二億ちょいくらいです」と答えた女は、目の前にはいない。


 そして何も知らないらしいこの少年にそのことについて何か言い募るのも筋違いだろうと思われたので、インガロットは、


「……そうか。いや、いい。わかった。そっちの方は解決したんだな。心配事がひとつ消えた。何よりだ」

「そうか。喜んでもらえたなら、僕もこうして伝言に来た甲斐がある」


 むふー、と息を吐く少年に「雨の中ありがとう」と伝えて、しかしこの状況で再び帰路に就くのも厳しかろう、俺から話してギルドでこのまま夜を明かせるように――と親切心を効かせようとして。


 ふと気が付いた。



「それから、もうひとつの伝言だが」

 彼が最初に、「まず」と言って話を始めていたということ。



 よく考えれば、この状況が変なのだ――インガロットは自分の心の深くにあった違和感に、今になって気付く。フェリシー・フェリアーモ。突拍子もないことばかりする。一方で妙に常識があったりする。粗雑でそそっかしい。かと思えば妙に繊細な作業をさらりとこなしたり、するべきことを潔くこなしたりする。


 近くで見てきたから、わかるのだ。

 フェリシー・フェリアーモ……彼女のような人間は『大金の工面をしてもいい』という申し出を、人伝てで断ったりはしない。平時であれば。


 だから、そう、つまり。

 この状況になっている、ということは――、




「現在出現している『夜の風』は、明日の朝までに消滅する予定だ」


 それ以上の、本人が直接伝えに来ることができないくらいに厄介な用件がある、ということになる。




「――予、定……?」

「そのとおり。予定はあくまで予定だ。というわけで、引き続き王子様……副会長には避難準備を進めてほしい。予定が崩れたときのために」


 何かが。

 何かが起ころうとしている……まだインガロットは言われたことを呑み込み切れていない。しかしそのことだけはわかる。


 わかるから、目の前のメッセンジャーを引き留めようと手を伸ばす。


「っと。悪いが、ここで捕まるわけにはいかない」


 しかしその手は空を切り。

 だから一番速い僕が来た、とメッセンジャーは話を続ける。


「また、このことについてはできる限り内緒でとのことだった。副会長が必要と認めた相手にはもちろん話してもらって大丈夫だが、事が事なので秘密裏に行いたい。今回副会長に伝えに来たのは、行政側に『夜の風』の消失、あるいは弱体化の理由を知っている人間がひとりはいないと困るだろう、と判断したからだ。……あとは、何かあったかな」

「中身だ」


 首を傾げたシオに。

 すかさず、インガロットは言う。


「肝心の、消失作戦の中身を聞いていない。まさかとは思うが――」

「力で打倒する」


 そういえばそのことを忘れていた、と。

 シオは、何でもないことを語るかのような淡々とした表情で言う。


「少し話し合ったが、結局リーダーの案で行くことになった。すでにギルド側に渡した情報と、僕たちのパーティの戦力を組み合わせて行う作戦だ。失敗した場合に、後入りする騎士団に余計な先入観を与えてもいけないので、細かな方法については秘匿させてもらう」

「…………で、成功した場合は匿名で戦術報告書を提出する。そういうつもりか」


 そこで初めて、シオは驚いたような顔をして、


「すごい。リーダーもそう言っていた。ふたりは息がぴったりだな。可能なら、匿名での入退管理簿の記録も頼む。ルールには則りたいところだが、小屋番がそもそもいないのでは上手く処理してもらえない」

「…………一応訊くが、俺が君をここで捕えて、君たちのパーティを無理やり引き戻せる見込みはどのくらいありそうだ?」

「皆無だ。そうならないために僕が来ている」


 だろうな、とインガロットは言った。

 眼鏡を押し上げる――そして思う。本当に、本当に憎たらしいほど肝心なときにばかり。


「……シオ、と言ったな。伝言を、頼んでもいいか」

「承ろう」

「『失敗したら、這ってでも帰ってこい。しぶといんだから、そのくらいはできるだろう』と」

「『胸を張って帰ります。期待しといてください』」


 何、と訊き返せば。

 伝言だ、とシオは言う。


「もし『這ってでも』と言われたら、そう返してくれと言われていた。こんな感じで合っているだろうか」

「…………」


 そうか、と一言。

 溜息のように吐き出して、インガロットは。


「これ以上なく合っている。君は優秀なメッセンジャーだ」

「ありがとう。いずれは郵便屋さんになるのも楽しそうだと思っていたから、励みになる」

「そうか。……では、君も」

「?」

「脚を怪我したりしないように。気を付けて行ってくるといい。それだけ速ければ、失敗してもここまで戻ってくるくらいはできるだろう」


 言われたことを理解するまでに、少しだけ時間をかけたらしい。

 シオは、ゆっくりと表情を明るくしていって……最後にはとうとう、微笑むようにして。


「うん。行ってくる」

 

 踵を返して、扉を開いて。

 ほんの僅かに吹き込んできた雨風とすれ違いになるようにして、きぃん、と。


 音を立てて、消える。

 残されたのは、銀縁眼鏡の一人の男。


 彼は、ぱたり、と力をなくしたように壁に寄りかかる。

 腕を組んで、眉間に皺を寄せて、それからはぁああああああ、とこの上ないほどの溜息を吐いて。


「…………本当に、」


 呟く。




「肝心なときばかり、頼りになる奴だ……」



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― 新着の感想 ―
まじでおもしろすぎる。ずっと爆笑してるから肺が痛い。この方の他の作品も全部読むと心に決めた。大好きです
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