6-4 カンフェッション
こんこん、ともう一度ドアがノックされる。
どうぞー、と言えば、今度は勝手に入ってきた。
「お茶をお持ちしま……あれ。フェリシーさん。インガロットさんはどちらに?」
「さっき帰った」
「あら、入れ違いに……。味にこだわりすぎて、かえって失礼をしてしまいましたね」
入ってきたのは、ミティリス。
その手にはお茶を持っているのだろう、ふわ、と香りが、閉じ切った屋敷の部屋の中に広がった。
そのことを、フェリシーは感じ取っている。
「…………あの、フェリシーさん」
「なに」
「何かあったんですか? ベッドに突っ伏して……」
床の上にへたり込んで、ベッドに頭をぐいぐいと押し付けながら。
しばらく、ううむ、とか、おおおおうおう、とか顔面を撫でまわされた狸のような奇怪な声を上げながら、フェリシーはずぶずぶとマットに顔を沈ませていく。もはや完全に肌という肌が見えなくなって、髪の毛に埋もれて、一見すればまさに毛玉そのもの、という状態になる。
そこからぶはっ、と顔を上げて、
「…………聞いてくれる?」
「もちろんです。何でも聞きますよ」
「申し込まれた、婚約」
雨の音が急に大きくなったように思えた。
それは一瞬、空気まで絶句したような沈黙が流れたから。
「え――――ええっ!?!?」
その沈黙をミティリスが、聞いたこともないような声で破る。
「い、今ですか!? 今さっきのことですか?」
「うん」
「ということはインガロットさんですか!?」
「そう」
「――――もしかして、いわゆるあれですか! 危機的状況に立たされたことで普段お互いに言えなかったことを打ち明ける機会が来たという、いわゆる伝説の決戦前ラヴ・カンフェッション――」
違う、と。
そこだけきっぱり言って、フェリシーはベッドサイドに座り直す。
「借金、あるじゃん」
「…………ええ」
「あれ、公爵家と婚約したらなんとかできるかも、って」
先ほどインガロットが――「考えてみてくれ」と立ち去る前に言い残したのは、そういうことだった。
流石にただの学園の後輩の借金一億を肩代わりするのは不可能だが、婚約相手にまでなれば何とか融通が利く。
コンクロール侯爵家とフェリアーモ子爵家との間にある債務関係に横入りする形にはなるが、コンクロールの方でも公爵家とのパイプが多少なり繋げる形になるのだから、それほど強い拒絶をされることもないだろう。
そして借金の方だって、返済の見込みが全くないというわけではない。
一時的に婚約をして、借金の返済を終えたら円満解消。その形なら、どうにかなるかもしれない。
そういうことを、インガロットは提案として伝えてきた。
「…………難しい気もしますが。残り二週間程度で公爵家の、しかも嫡男と、言っては悪いですが弱小貴族の子爵家が婚約というのは、かなり筋が……」
「うん。でも、何とかするって」
「何とか、って……」
ミティリスが言葉を繰り返す意味も、フェリシーにはわかる。
何とかする、で済まされてしまうことではないのだ。インガロット・イングレディオの婚約というものは、どう考えてもそんなに簡単に結んだり破ったりしていいものではない。
ただ、フェリシーにはもうひとつ、はっきりとわかることもある。
インガロット・イングレディオは「何とかする」と言ったら、「何とかなる」まで力を尽くしてしまう人間なのだ。
「…………どう思う?」
つい、弱音のようにそう訊ねれば。
ミティリスは、浮かべていた動揺の色を不意に消して、優しげな声音に変わる。
「お答えしなかったんですか?」
「…………うん」
「それは、迷っているからですか?」
少しだけ間を開けて。
それからフェリシーは、また「うん」と答えた。
それでは、と。
ミティリスは言って、机の上にお茶を置く。
「もうひとつ、迷えるあなたに選択肢を。――私の秘密を、お話しします」
そして彼は。
ベッドサイドのフェリシーの前に、騎士のように跪いて、頭を下げた。
「実は私は、フェリアーモ領の出身なんです」
「――――え?」
「差し入れのオレンジ、気に入っていただけて嬉しかったです。何せ、私の両親が丹精込めて作ったものですから」
お初にお目にかかります、子爵家のお嬢様、と。
きらめく星のような笑顔で言うミティリスの顔を、十五秒、たっぷりフェリシーは見つめて。
それから。
「――――え、えぇぇええええっ!?!?!?」
「あはは。驚かせ返しですね」
「し、知らない――え!? 十九歳でしょ!? なんで知らないの!? 私が! ほぼ同年代なのに!」
「子どもの頃から歌が好きで……早いうちから教会の寄宿舎に入って、聖歌隊で活動していたんです」
実はインガロットさんの前で歌ったこともあるみたいですよ、と彼は悪戯めいた表情でウインクをして、
「だから、フェリシーさんが私の顔を知らないのも無理はありません。あまりフェリアーモ領には帰りませんでしたから」
「…………もしかして、親孝行って」
「ええ。お察しのとおりです。大風の被害を補償してくれたフェリアーモ子爵家が借金に苦しんでいると、随分両親が気に病んでいまして。ではここは冒険者になって一攫千金、返済に貢献して気を楽にしてあげよう……と考えていたところで、フェリアーモのお嬢様が求人を出しているじゃありませんか」
もう即決です、と彼は指を立てる。
「最初からお伝えしなかったことに関しては、謝ります。私ひとりではフェリシーさんの目的を達成できるほどの能力はないと判断して、チーム全体のバランスを考慮して黙っていました。すみません、忍んでしまって」
それはいい、とフェリシーは思う。
残りの三人は、当然フェリアーモ子爵領の出身ではないのだ。ないはずだ。だからミティリスが自身の出自を開示していたら、たった五人のパーティのうちで二人が身内、目標金額や目的意識にズレがある、という状況になっていた。
その場合、現時点で各々二億テリオンという莫大な稼ぎを得るだけのモチベーションが維持できたかは、かなり怪しいものがある。下手をすると、初回の顔合わせで「そっちはそっちで勝手にやればいいだろ」と解散してしまった可能性だってあるだろう。
むしろ忍んでくれていて助かったのではないか、と。
結果論としてはそう思うので、そこは別によくて、
「今日の切羽詰まって一気に危険度が上がったあたりから、いい加減言い出すべきかと迷っていたんですが、すみません。目の前のことに対処し続けるのに精一杯で……」
これもいい、とフェリシーは思う。
なにせ今日の昼からは輪をかけて怒涛のような勢いだった。そこで言うチャンスを逃すのも当然のことだし、最も厳しい状態に置かれているということが判明した『夜の風』の発見直後は、誰も彼も放心状態で、とても話ができる状態ではなかった。
そのあたりのことは、だから、全然よくて。
「あの、っていうことは」
「はい」
「もしかして……残りの一億テリオンとか」
ぱっ、と彼は人懐っこい犬のように美しい笑みを浮かべて、
「一億と言わずに、どうぞ二億。初めから目的は同じなんですから」
「………………よ、か、ったぁああああ~」
へなへなと。
へなへなへな、とフェリシーはベッドの上にへたり込んだ。
「ほ、本当にどうしようかと思って……助かった……」
「喜んでいただけて何よりです。……早めに言わなかったのは、本当にすみません」
「いいよ、そんなの全然……優しい領民に恵まれて、フェリアーモ子爵家は本当に幸せです」
ありがとうね、本当にありがとうね、と。
フェリアーモ子爵家を代表して、ご令嬢はお礼を言う。
いえいえ、とフェリアーモ領民は礼を言い。
「それじゃあ、そっちのことはいいとして」
ぎしり、とフェリシーの隣、ベッドサイドに腰かけてきた。
「どうなさるんですか、婚約の方はっ」
ものすごく、にやにやしながら。
この世にこれほど楽しいものはない、とばかりのにやにやっぷりで。
「え?」
「インガロットさんとのですよ! 私としては最初の形は借金がノイズでちょっとロマンチックに欠けるというか、有体に言ってちょっとお嬢様にとっては良くない構図なのかなと思ったんですが、しかしこうなったらまっさらな状態で考えられるわけじゃありませんか。ふふっ、どうされるんです、どうされるんですっ?」
「いや、普通に断るよ。もう意味ないし」
「ああっ、でもそうなりますよね! やっぱりちょっと急な話ですし、家格の釣り合いに関しては問題が残ってい…………え?」
快調に回っていたミティリスの舌が、ぴたりと止まる。
それから「あの、」と困惑したような表情で、彼は、
「………『もう意味ないし』?」
「うん。だって返済分のお金は確保できたし。別にもう、副会長と婚約する意味ないじゃん。普通に『もう解決したから大丈夫です!』って報告するよ。あ、『ありがとうございました』も言うよ。もちろん」
あっけらかんとして、フェリシーは言う。
のを、ミティリスは茫然と見ている。
「やー……でも陰険とか散々言っちゃったけど、副会長って肝心なときはすごい優しい人だし、だからちょっと苦労性なんだよね。あとプライド高いから、一度言ったこと撤回できないし。結構この人危なっかしいなあって、近くで見てて思うもん」
「……いえ、あの、フェリシーさん。どれだけ優しくても普通、破産寸前の子爵家の令嬢と婚約とか、そういうことは――」
「ところでミティリスさん、ギャンブル好き?」
あまり切っては良くなさそうなところを、フェリシーはバッサリと切る。
会話の流れというものを八次元で捉えている人間が見せた急ドリフトのような話題転換ぶりにミティリスが二の句を告げずにいると、彼女はぴょん、とベッドから飛び降りる。
「すごい迷っちゃってたんだよね。なんかその、結局切羽詰まってるのって私の事情だし、それでリスクのあることに巻き込むのってなんだか騙してるみたいだなって。でも、かと言ってその気持ちの部分を整理するためだけに副会長に甘えるのもなんだかなあ……って感じで」
「あの、ギャンブルは、」
「ん?」
「良くありませんよ。その、友達とお菓子を賭けてカードを、とか。そのくらいならいいですが」
借金をするようなのは特に、と。
ミティリスがかろうじて、しかし真剣な声音で言えば、あはは、とフェリシーは笑う。
そして衣装箪笥をよいしょ、と持ち上げながら、さらに続ける。
「流石にこれ以上借金する気にはなんないです。でもほら、手を付けても大丈夫なお金ができたじゃないですか」
「…………?」
「一億。ほら、二億と二億で足して四億。それで三億まで余る分。……って言っても私のお金じゃないから、ミティリスさん次第なんですけど」
彼女は床の扉もぱかっと開く。
そして金庫の暗証番号を揃える段になって、「別に信用してないわけじゃないんですけど、無関係の泥棒に入られたときとかに火種になっちゃうから、一応ね」とその数字だけを隠すようにして背を向ける。そしてそのまま言う。
「もしミティリスさんがギャンブル好きなら、すごくお勧めのがあって……。何なら二億丸々、もしくはそれ以上戻ってきてふたりともハッピーな、しかも親孝行とかリベンジマッチとかも兼ねられて超お得、みたいな感じなんですけど」
あの、ともう一度。
懸命に話題を掴まえようとミティリスが言葉を発したタイミングで。
コンコン、とドアが再び叩かれる。
「あ、はーい」
「フェリシー。いま、入って大丈夫そう?」
「いいよー、全然。入って入って」
ちょうど良かった、とフェリシーは金庫の中から魔晶を山ほど取り出す。
一方でドアが開けば、まずアルマが入ってくる。次にシオ。最後にオズウェン。全員が全員ともお茶やらお菓子やらを手に持っていて、部屋の中をきょろきょろ見回している。
「あれ? お金持ちの王子様は?」
「とっておきのお菓子を持ってきたんだが」
「俺たちに好印象を植え付けるためにな」
好き放題言い散らかす三人に、フェリシーは「もう帰ったよ」と軽く告げる。
えー、とアルマが代表して言って、それから彼もようやくフェリシーの手元に気付いたのか、何それ、と続けて、
「魔晶? ああ、そっか。避難のとき持ってく感じ?」
「ううん、違うけど」
「違うんだ」
「うん。ところでアルマ、ギャンブル好きだよね」
何それ、とアルマが言う。
しかし「好きだね、よし」とフェリシーは勝手に決めつけている。
「シオくんは……あんまりハマらない方が良さそうかな。一生に一回くらいでいいよ。うん。しかも今」
「地元を出るときもよくそれは言われた」
「オズウェン先輩は、まあ言うまでもないですよね」
「おい。言っておくが俺は、勝算のない賭けはしないぞ。しっかりあらかじめ期待値を計算してからだな――」
うんうん、とフェリシーは頷いた。
そして、四人の顔をぐるりと見回した。
そのときの、彼女の顔と言ったら。
全員に嫌な予感をさせるに足るだけの、最高に晴れやかで、爽快なもので。
「迷宮の使用禁止令、出ないんだって!
だからみんなであのでっかいの倒して、溜め込んでる魔晶全部回収して大儲けしよう!」
三分後。
ようやく現実に追い付いたアルマがこう呟いて、最後の冒険の幕が上がる。
正気で言ってる?