6-3 手がある
ほうっ、と息を吐いたのは、自室でのことだった。
身体についた泥もすっかり洗い落として、椅子に座る。手にはキッチンで淹れてもらった温かいココア。季節外れの暖房石が部屋の隅で橙色に光っていて、それ以外の明かりは何もない。
椅子が向いているのは、部屋にひとつの窓の方。
暗く冷たい雨が、この世の終わりのように降り注いでいる……真夜中のそんな光景を、フェリシーは眺めている。
やがて、彼女は席を立った。
ベッドサイドを通り過ぎて、飾り暖炉も通り過ぎて、しかし入り口の扉まで戻ることはない。クローゼットに収まり切らない分の服を収納するための衣装箪笥……それをひょい、と持ち上げて横へ。うずくまって、彼女は。
ずずず、とその床を開く。
金属で出来た箱がそこにはあって、錠前の数字を揃えて、魔力認証も通して、ごごご、と重々しい音を立てて、その扉もまた開く。
金庫。
中に入っているのは、色とりどりの魔晶たち。
『精錬』の作業にはそれなりの時間がかかる……すると必然、その売却までには猶予の期間が必要になる。
だからこの場所には、これまでの冒険の中で獲得してきた、未換金の魔晶が幾つも眠っている。
たとえ一部だとしたって、目を剥くような高額で。
しかしそれをフェリシーは静かに……静かに、真剣な瞳で、考え込むように見つめている。
コンコン、と。
そのとき、部屋の扉がノックされた。
「あ、はーい」
「俺だ。今、少しいいか」
金庫の扉を閉める。床の隠し間もぴったりと戻す。衣装箪笥も置き直して、しかしこれは床の擦れ具合から見る人が見ればすぐにわかってしまうかもしれない、なんて改善点も見出して、しかし一旦それは記憶するに留めておいて、フェリシーは部屋の扉まで迎えに行く。
がちゃり、と開く。
「副会長。どうしたんですか」
「ギルドの方での話し合いが一段落した。一応、お前のところにも報告をと思ってな」
「えっ……それはどうも、ご丁寧に」
入ってください、とすぐさまフェリシーは言って、彼を部屋の中に招き入れる。
寒い中をこの屋敷まで来たのだろう、インガロットの唇からすっかり血の気が失せていた。
「どうぞ座ってください。……ていうか、よく私の部屋がわかりましたね」
「ちょうどギルドの方に様子を見に来ていたふたりがいたからな。屋敷まで同道して、ついでに部屋の場所も教えてもらった」
「あ、そっか。あのふた――」
「道中やたらと好みのタイプを訊かれたが、どういうことなんだ」
「すみません、なんか急に記憶を喪失して……。誰の話なんだろ。わかんないなー」
すまん、傘は差したんだが脛から下がだいぶ濡れている、とインガロットは椅子に座りながら言う。一応タオルか何かで服の表面を拭き取ったらしいことは、水滴が落ちていないことから判別できる……が、それでは気持ち悪かろうと思い、フェリシーは暖房石を彼の足元の方に置く。多少はこれで乾くはずだ。
「冷えてそうですし何か……あ、ココア飲みます? まだ熱すぎて口付けてないです」
「いや、構わん。どうせすぐに向こうに戻る」
そうですか、とフェリシーが応じれば。
話の枕は終わって、本題が始まってしまう。
「フェリシー・フェリアーモ。まずは王国に住む一人の人間として、君に礼を言う」
深く、彼は頭を下げた。
「え、」
「君たちパーティが独自に迷宮地帯に調査に出なければ、発見はもっと遅れていただろう。ありがとう。冷静で勇敢な行動に、敬意と感謝を」
肝心なところでは頭を下げる人だ、とフェリシーは知っていたから。
そのこと自体には驚きはない――いつ見てもあんまり似合わないなあとは思うけれど、そのくらい。
重要なのは、彼が頭を下げたことではなく。
頭を下げるような場面が、来たということ。
「ってことは、やっぱり……」
「ああ。ギルドの危機管理部が、見立ては正しいだろうと結論を出した。奴は――『夜の風』は、迷宮を食らって成長している」
「なんすかその名前」
「コードネームだ。ないと不便だろう」
「副会長がつけたんすか」
がたっ、とインガロットが立ち上がった。
わわっ、とフェリシーは焦って、そのやたらに高い肩に手をかけて抑え込む。うそうそ、カッコイイです。いやほんと。
ゆっくりと、インガロットは座り直して、
「お前が提出した『魔獣はそもそも迷宮を食らう性質がある』だとか、『迷宮と魔力波長をチューニングすることでそれが容易になる』だとか……そのあたりのことも、一旦事実として処理することにした。細かい部分の検証はやっている時間がないし、目の前の辻褄が完璧に合うなら、それを受け入れるほかない」
「ああ……まあ、そうなりますよね」
「だが、危機管理部も責任を感じてだいぶやられているようだ。もしかすると、近年の『忍者』中心の業界事情がこの事態を引き起こしたのかもしれない、と考えているようでな」
「? ……というと?」
つまりな、と彼は言う。
ちらちらと部屋の中に目を配るのは、恐らく生徒会室でよくやるように説明のための移動式黒板がないかを探しているのだろうとフェリシーにはわかったけれど、ありません、と伝えれば素直にそのまま、
「魔獣は『再出現』する。このことを前提とすると、これまでの真っ向打倒の冒険者スタイルから接敵忌避型への転換は、単純にこの『再出現』分の魔力を迷宮に節約させる。ここで確保された余剰分は単純に迷宮の保有魔力を増大させ、魔晶の質も向上させる……だけではなく、」
「……外に漏れてた、とか?」
こくり、とインガロットは頷いた。
「迷宮構造が許す保有キャパシティを超えた部分が外部に漏出していたのではないか、と考えているらしい。ここ百年ほどはああした巨大魔獣の存在は報告されず、今までの文献は眉唾だと考えられるようになっていたが……」
「単に迷宮の魔獣処理が上手くいってた時代が直近にあって、たまたまこの百年くらいはそういうのに無縁だっただけって考えてるってことですか」
「そのとおりだ。外部漏出分で迷宮外の魔獣が強化されたのだろうと」
「……うーん。どうなのかな。魔晶の回収率が上がった分、消費させる魔力量も……あ、でもそっか。魔晶で回収できる量で超過分を吸収できるとは限らないのか……」
でも何にせよ、とフェリシーは。
「危機管理部が責任を負うことじゃないと思いますけど。誰もわかんないですよ、こんなの。私たちも迷宮の中を全滅させて、初めて気付いたんですし」
「たとえ責任がなくとも、責任感を覚えることはできる。今回は情報提供から原因の目途が付いたが、それがなければ何もわからずに『夜の風』の肥大を許していた。わかりませんでした、で国を滅ぼしかけたとなれば、一番許せないのは本人たちだろう。自身の仕事に誇りを持っているなら、なおさらだ」
俺もおおむねお前の意見に同意だがな、と。
インガロットが言うなら、そっちの方面はそう悪くはならないはずだとフェリシーは安心する。この一件が終われば、ギルドの危機管理部はさらに強化され、再発防止策が取られるようになるだろう。もっとも、その費用をどこから捻出するのかとか、『忍者』ブームは国境を跨ぐ問題だから国際ギルドの働きかけがどうたらこうたらとか、頭の痛い問題は山積みだろうが……。
「じゃあそこは副会長に思う存分頭を痛めてもらうということで」
「なんだそれは」
「それより、なんでしたっけ。『夜の風』? そっちの方は結局どうするんですか」
はぁああ、とインガロットは深く息を吐いた。
いかにも重々しい、事態の深刻さを嫌でも認識させてくるような、遠慮なしの溜息。
「三時間ほど前に冒険者パーティ……『青』、と呼ばれているらしいな。そこの冒険者たちが王都に伝令に走ってくれた。騎士団の派遣要請を持ってな」
「この街だけじゃ、やっぱり弾けないですか」
「……不可能だ、という結論のために会議をしていたようなものだな」
彼は言う。
まず以て、この街は自由都市であり、軍事力と呼べるような独自戦力は保有していない。そのため騎士団の到着を待たない限りは市民有志――主に力のある冒険者たち――に頼るしかない、ということ。
そして、街の防衛に対して冒険者ギルドは協力的ではあるものの、そもそも業態の変化が長く、ああした巨大魔獣に対抗できるような純粋な武力を持っている冒険者が存在していないということ。またギルド幹部の古老たちすら「自分たちの現役時代でも、あのサイズの魔獣を相手取るにはこの街規模の総力戦ごときでは及ばない」と意見していること。
つまりこの街にいま存在する戦力では、とてもではないが『夜の風』を打倒することはできない、ということ。
「騎士団って、どれくらいで到着するんですか?」
「……押っ取り刀で駆け付けて明日、明後日。だが、俺も正直なところ、王都の首脳部がこれに対してどんな判断を取るのかわからん」
『夜の風』は、フェリシーたちが見た通り、迷宮を食らうことでその力を増している。また、それによってどういう理屈か――あれほどの保有魔力量になれば、ただ存在しているだけで原始魔術的な働きが周囲に及ぶのかもしれない――天候も悪化の一途を辿っている。
食事のペースもその成長の上限もわからない以上、早急に討伐しなければこの街どころか『人類にとって』対処不能な、最悪の魔獣に化ける可能性もある。
しかし中途半端な戦力を投入したところで、また何の見通しもなく戦闘行動に入ったところで――現時点で既に、容易く討ち果たせるような魔獣のスケールではなくなっている。
「…………難しいところ、って感じですか」
「ああ」
厳しい判断を迫られている、とフェリシーにもわかった。
伝令を受けた王都首脳部は、何を求め、何を賭けるのか。それをごく短い時間で選択しなければならなくなる。
自分だったらそんな立場は嫌だな……と勝手にそのことを想像して、ちょっと胃が痛くなる。それを誤魔化すようにココアで唇を濡らしていると、「何にせよ」とインガロットが切り替えるように言った。
「まず、街の住民を全て避難させる。お前も例外ではないぞ」
「え、」
「『夜の風』の捕食行動が落ち着いて、しばらくが経った。住民は一旦街の避難所に移動させて、夜が明けて視界が確保できるようになったら、街から脱出させる。今のところ『夜の風』がこちらまで襲って来る気配はないが、天候も天候だ。移動不能になる前に先手を打つ必要はある」
「受け入れ先は決まってるんですか?」
「すでに交渉役は送った。俺も父上に裏から手を回すように連絡している。……何とかするしかあるまい」
眼鏡を取って、頭痛を堪えるように彼は目頭を押さえる。
迷宮都市は、先ほどインガロットが言ったように自由都市――貴族の誰が治めている土地というわけではない。そこにたまたま居合わせて危機対応に積極的に協力してくれる公爵家嫡男が、この場でどういう役割を求められるのか。推して知るべしというものである。
だから労りの気持ちを込めて、フェリシーは、
「……大変ですね、副会長。私も陰ながら応援してます。陰ながら」
「大変なのは貴様の方だろう。どうするんだ、借金は」
「え゛っ」
しみじみと慰めの言葉を告げたところで、返す刀で本質的な問題に切り込まれた。
「三億のところ二億だったな。何かアテはあるのか」
「……いやー……ははは……」
「笑っている場合か! ……全く。一応、俺の方でも考えてはみたんだが」
えっ、とさらにフェリシーが驚くのを無視して、インガロットは続ける。
「おそらくフェリアーモ領での果樹園壊滅も『夜の風』が関わっていたのだろう。未来省の気象予測が著しく外れたのも、純粋な天候の問題ではなく魔獣の介入があったためだと考えれば辻褄が合う」
「…………そうなると、どうなります?」
「国から追加の復興資金が提供される可能性が高い。何にせよ『夜の風』をどうにかしてからの話にはなるが、それを上手く活用すれば残りの一億はどうにかなる……はずなんだが」
「…………」
「…………貴様はなぜ、コンクロール家で一本化なぞ……」
「し、仕方ないじゃないですか!」
こればっかりは、とフェリシーは声を張り上げた。
しかし同時にそのことの問題点もまた、自分ではっきりわかっていたので。
「確かにコンちゃんのところは一度でも返済不渡りを出したら即終了ですけど、利子は低いし、細かいところの条件はすごく良いし、色々クリーンだから後腐れもないし……即終了ですけど……」
段々と、語気を弱めながら言うことになる。
インガロットは複雑な表情でこちらを見つめながら、
「ろくでもない金貸しとの繋がりを切ってコンクロールのところに、という発想はわからんでもない。だが、二ヶ月で三億の条件提示の時点で『これはどうにもならん』とは思わなかったのか。おかげでとても復興資金の到着を待てるような状態ではなくなっているぞ。臨時予算の議論にすら間に合わん」
「いや、債務状況が思ったよりヤバくて……。これならもうどこまで酷くなってもそんなに変わんないなと思ったんです……」
「なぜ貴様は自分の人生に対してそこまで捨て鉢になれるんだ……」
実際には、その決断に関しては様々な事情があった。
たとえば『爵位買い取り業者』と名高いコンクロール侯爵家は、買い取った後の領地の扱いに関しては非常に評判が良く、下手にずるずると高額利払いに苦しめられて領地を荒廃させるよりかは、そっちの方がずっと領民のためになるだろうと考えたとか――とはいえ、ここでインガロットにそれをわかってもらえたとしても慰め以上のものにはならなかろう、とフェリシーは思っていたので、
「でも、やっちゃったことはもう振り返っても仕方ないじゃないですか」
学園生活中、何度もインガロットから「それをやめろ」と言い渡されている台詞を、まずはフェリシーは口にする。
「まあ、その……借金のことはアレとして」
「アレで済むことではないだろう」
「……まあ、なんか、アレします! パーティメンバーと相談したりして! でもほら、今はそういうこと言ってる場合じゃないですし! それより、その、副会長」
「なんだ」
「今のところまでで情報を整理してもいいですか?」
一瞬、インガロットの表情が固まる。
しかしすぐさま、「構わん」と言って頷いてくれた。
だから、フェリシーは。
「大きな魔獣――『夜の風』が街の近くにいて、迷宮を食べてさらに強くなったり、天候を悪化させたりしている。
それで、その討伐のための戦力が街にない。だから今夜のうちに住民を避難所に集めて、夜が明けたら街を捨てて移動する。そのあとは、王都から騎士団が派遣されてくるまで待つ。
……一応確認なんですけど、迷宮の使用禁止令って発出される予定なんですか?」
「出すまでもないだろう。この天候で迷宮に潜ろうなどと考える人間はこの世にいない」
「そうですか! ……じゃあ、とりあえずまとめ終了ということで。大丈夫ですか?」
いいや、としかしインガロットは言った。
「貴様に関する情報が抜けているだろう。借金まみれ。期限はもうすぐ。そしてそれを得るための手段が『夜の風』によって塞がれている」
「いや、私の方は別に――」
「フェリシー」
真摯に名前を呼ばれて。
思わずフェリシーは、「はい」と優等生のように返事をしてしまう。
「俺の話はまだ、終わっていない」
「……『夜の風』に関する?」
いいや、ともう一度。
インガロットは首を緩く振って、答えた。
「貴様の借金に関することだ」
「えっ。いやいやいや、これ以上何も隠してないです。全部話しました」
「違う。言っただろう、俺の方でも考えてみた、と」
返済方法の話だ、とインガロットが言うので、
え、とつい早とちりな期待を滲ませながら、フェリシーは身を乗り出してしまう。
雨降る密室。
ふたりの話す言葉は、ふたり以外の誰にも届かない。ふたりの耳には、ふたりが口にする言葉しか届かない。……そんな場所で。
ふたりの額の距離が近付いて。
インガロット・イングレディオは、こう言った。
「俺と婚約をする、という手がある」