5-3 平和的
「よう、アルマ」
元気にしてたか、と声をかけられたのは、ひととおり書類の訂正だけを行って、すぐに『赤』の事務所を後にしようとしたタイミングでのことだった。
アルマとオズウェン。
さっきまで「マジで意味わかんなかった。文明って崩壊した方がいい」「お前がちゃんと勉強しろ」と廊下を歩きながら会話を交わしていたふたりは、その言葉にぴたり、と声を止める。
周囲には、他の人影はない。声をかけられたふたりと、声をかけてきたひとりだけ。
オズウェンが屈むようにして、アルマの耳元に囁きかける。
「誰だ?」
「普通に元同僚。腕の良いやつだけど」
「お前にそれだけ言ってもらえりゃ、あのわけのわかんねえ必殺技に付き合った甲斐があったよ」
ありがたいね、と両手を肩のあたりにわざとらしく挙げるのは、癖毛をサイドに流した、髭面の男。
彼は、じろりとふたりを見定めるようにして、
「業界のイロハも知らねえような貴族の嬢ちゃんの下で荒稼ぎしてるらしいじゃねえの? ん?」
「めっちゃしてる」
「がっぽがっぽだな」
「…………臆面もねえな、お前ら」
あやかりてえよ、と。
その返答で早くも力が抜けたとばかりに、男の目つきから鋭さは抜けて、
「そっちは『怪盗』オズウェンだろ。『黄』からのスカウトを『お前らと一緒じゃ効率が悪い』ってばっさり切った……」
「えっ。そんなかっこいいあだ名ついてんの、オズウェン。ずりー」
「いやあ、ははは。悪いなアルマくん。高い能力に対して正しいレピュテーションを得てしまって」
「んでそのあとの中小での挙動を見て『黄』の採用担当が初めて『獲得失敗して良かった……』って安心したって噂の」
「酷い性格に対して正しいレピュテーションがついてる」
「おかしいな……」
ったく勘弁してくれよなあ、と男は頭をガリガリと掻く。
「ただでさえお前みたいなのを扱い切れなくて放出したってのに、その先でわけのわかんねえ連中とつるんで成果を上げられちゃ、堪ったもんじゃねえよ」
「なんで?」
「なんでって、お前――」
「そっちはそっちで頑張ってるし、成果も出してんだからいいじゃん」
男が目を丸くする。
それに対して、アルマは「オレ変なこと言った?」という顔をしていて……実際隣のオズウェンに「オレ変なこと言った?」と訊ねる。
オズウェンが何かを言うより先に、「敵わねえなあ」と男は言った。
「器が小せえんだかでっけえんだか、ぶっ壊れてるんだか……」
「ぶっ壊れてるぞ、こいつは」
「オズウェン。トイレ寄っていこうぜ。鏡あるから」
「…………あのときのチームリーダーがな」
ぽつり、と男が呟いたのに、アルマは首を捻る。
「どのとき?」
「お前が新人研修の引率に付き添って、土壇場で迷宮大主を蒸発させたときのだよ。お前の四回のトンチキのうち唯一ちゃんとした場面で使われて、最悪なことに味を占めさせちまったやつだが……」
「あれめっちゃ感謝されて超気分良かった」
「だろうよ。……あのときのチムリが、今は幹部になってんだけどよ。人を見る目がねえから、今でもそのことを恩に着てるらしい」
見る目あるじゃん、とアルマが言い、いや全くない、とオズウェンが反対意見を述べる。ねえんだよ、と男も苦笑いして、
「だからよ、」
左右を見回して、近付いて、声を潜めて。
「まだ大手の一部にしか出回ってない情報だが、流してやる。……俺もお前に死なれちゃ、寝覚めが悪いしな」
「情報?」
ああ、と男は頷いて。
いまだにその価値を測りかねちゃいるが、と前置きしてから。
言った。
「――――Aランク迷宮が二つ、突然消失してる。原因不明だ」
廊下の壁の向こう。
雨音が、響き始めている。
卍 卍 卍
「えっ、何」
「音がしたな」
「しましたね……」
ところ変わって、フェリアーモ屋敷。
フェリシーら三人は、ダイニングキッチンでわたわたびくびくしている。
「何、もうふたり帰ってきた?」
「違うだろう。昼を食べてきたにしては早すぎる」
「じゃあ風で扉が吹っ飛んだ?」
「いえ、さっきのは開く音だけではなく閉まる音も……」
じゃあ何、とフェリシーが訊こうとしたところで。
ぎぃぎぃと、鴬張りと化してしまった廊下の床板が軋む音が、向こうから聞こえてくる。
そして、察した。
「――――ご、強盗じゃん!」
「リーダー。また屋敷の鍵を閉めずに……」
「いいじゃん、何も盗られるものないんだから!」
「今はあるじゃないですか。というか、面接のときもそうでしたけどしっかり施錠を――」
説教されている場合じゃない。
小声で「わーっ!」と叫んで、フェリシーは会話の主導権を握り直す。チンパンジーの会話術だ。
「どうする!? 強盗には強盗をぶつける!?」
「オズウェンのことなら、今は外出中だ」
「強盗バトル、ちょっと見たかった……って、そんなこと言ってる場合じゃありませんね」
お嬢様は奥へ、とミティリスがキッチンから出てきて言う。
いや流石に、とそれでもフェリシーはその場を動かない。自分の屋敷なのだから、自分が真っ先に逃げ出すというわけにはいかない。
それに――、
「でも、よく考えたら雨の日に強盗ってしないかも。泥の上に足跡残るし……」
「すごい頭の回転だ。流石リーダー」
「ああでも待った! 雨で多少の音は聞こえなくなるからそっちの方が都合いいのか! 外を歩く人も少ないから現行犯を目撃される心配も多少減るし!」
「どうして強盗の目線に寄り添った意見ばかりが……?」
言っている間にも、足音は廊下を歩き回っている。
そこで不意に、シオが言い出した。
「フライパンを鳴らさないか」
「――なんで!?」
「山で野生動物を避けるために音を立てたりする。ある程度人間が警戒されている環境であれば、こちらの存在を知らせることで向こうが自ら遠ざかる場合がある」
「な……なるほど! やってみよう!」
「演奏なら私の出番ですね」
「変な茶目っ気は出さないでちゃんとやってね!」
若干の間があってから「もちろんです」とミティリスは答えた。
なんだその間は、とフェリシーが訊ねるより先に、彼は「ワン、ツー、スリー、フォー」と続ける。なんだその拍子取りは、と文句をつけるより先にフライパンは鳴らされ始める。
ドンドコドコドコドコドンドコドコドコドコドンドコドコドコドコシャーンシャーンドンチキチキチキチドンチキチキチキドンチキチキチキシャーンシャーン。
足音がこの部屋に向かってきた。
「ダメじゃん!」
「人の味を覚えた野生動物には逆効果だ」
「覚えてるじゃん、人の味を!」
「空き巣だったら今ので逃げるでしょうし、本当に強盗かもしれませんね……」
仕方ない、と言った。
シオが、頭に被っていたタオルをカウンターに置いて。
「ふたりは下がっていろ。僕がぐいぐい押して屋敷から出て行ってもらう」
「平和的……!」
「シオくんにぐいぐい押されたら大抵の人はぺらぺらに潰れてしまう気もしますが……」
任せておけ、とシオが言う。
じゃあ任せておくか、とフェリシーはごくりと息を吞んで、顛末を見守ることにする。
足音はどんどん部屋に近付いてくる。
ぎぃぎぃ、みしみし。その一歩一歩を、この屋敷はフェリシーに伝えてくれる。いつもミティリスが迷宮でやっているのは多分これと同じ原理なんだろう、と理解したりして、
「あれ、」
ふとそのとき、フェリシーは思ったことがある。
この足音は。
どこか、聞き覚えがある気がする。
ぎぃいいい、と部屋の扉が開く。
その扉を開いた先、身体の十分の一くらいが見えた時点で、フェリシーはシオの肩を掴んで止めている。
知った足音だ、と思った人が。
本当に、知った人のものだとわかったから。
「――ドアベルは壊れているわ、鍵はかかっていないわ。貴様の設備管理はどうなっているんだ。フェリシー・フェリアーモ」
「――――インガロット、副会長?」
ただし、その人は。
ここにいるはずのない人だったのだけど。