5-2 ろくでもない
「ただいま~」
最近は、こういう言葉を口にすることが多くなった。
ぎぃいいいい、と断末魔みたいな悲鳴を上げたのは、当然フェリアーモ家が所有する屋敷の扉である。いつもより音が大きい気がする、これは気圧とか湿気とかとの関係があるかもしれない……そんなことを考えながら後ろ手にフェリシーは扉を閉める。廊下を歩く。ぎぃぎぃと変わり果てた鴬の鳴き声のような音を立てながら、床板が軋む。
ダイニングキッチンには、ふたりの姿があった。
ひとりは、キッチンの奥に入って料理の準備を始めているミティリス。
もうひとりは、どこで濡れてきたのだろう、真っ白なタオルを頭に被ってわしゃわしゃと長い髪を乾かしながらカウンターの前に座っている、シオ。
ただいま、ともう一度声をかければ、
「おかえり、リーダー」
「おかえりなさい」
ふたりとも、こちらを見て言葉を返してくれた。
フェリシーはもうすっかりこの光景にも見慣れてしまった――つまり、あの爆音忍者四人衆が当然のように屋敷の中に居座っている姿にも。
元々は、ミティリスだけのはずだった。
どうも彼は訊いたところまだこの街に来て日が浅く、部屋も借りないままに宿暮らしをしていたらしいのである。
それならうちに住んじゃいなよ、家賃とかは別にいいからさ。
フェリシーが言えば少しだけ彼は躊躇って、しかし「家事全般はやりますから」「執事みたいなものだと思ってください」と自分で自分に条件を付けて、この屋敷の新たな住人として迎え入れられることになった。
そしてその家事全般が、できるできる。
あまりにも自然に、当然のような顔で全てをこなしてしまうから、かえってその凄さが伝わってこないほどできすぎる。
唯一露骨にその突出を認識できたのは、何と言っても料理の腕前――それに釣られる形でシオが探索前後の食事を一緒にするようになり、あとはもう全財産十八テリオンの素寒貧や、金銭をこよなく愛する怪人も含めて、ずるずると。
二ヶ月の短期契約程度の仕事で住むところをそんなにコロコロ変えるなよ、という常識的なツッコミもありうるが。
しかしこの仕事が終われば――それぞれが三億テリオンを手に入れれば、多かれ少なかれ彼らの生活状況にも変化は訪れるわけだから、あまりそこのところも問題にならない。
というわけでこういう状況になっていて、それにフェリシーはすっかり慣れている。
お遣い完了、とバッグをカウンターに置いて、ありがとうございますお嬢様、とミティリスから感謝されて、むふーとご満悦になっていたりもする。
「今日は何? フルーツサンド?」
「いえ、ミートソースパスタとグラタンにしようかと。アルマくんとオズウェンくんが……あ、そうだ。ふたりは今日、お昼は外で食べるそうです」
「うん。さっきそこで会ってきた」
それはよかった、とミティリスは微笑む。
というわけでご好評のフルーツサンドはみんなで夜食に取っておこうと思います、お好きな時間に食べてくださいねとこれからの献立も披露してくれる。
フルーツサンド……この間貰った差し入れで作る甘いあれも好きだけれど、しかし当然それでミートソースパスタとグラタンの価値が下がるものではない。
ううん、とフェリシーは背伸びしながら、期待の段階でもうすでに舌が幸せになっている自分を発見する。我ながら単純なものだと思うけれど、単純な人間は他人であれ自分であれ扱いやすくて良い。これなら食後はぐっすり、気持ち良く眠ることができそうだ。
ぱたり、と背伸びしていた手を下ろして。
早速下ごしらえに取り掛かり始めるミティリスの背中を横目に、フェリシーは。
そういえば、と。
「シオくん、なんで濡れてるの? 迷宮から帰ってきてすぐお風呂入ってなかったっけ?」
「僕も買い出しに行ってきた。隣町まで」
「え」
鹿肉、と自慢げに……あるいはフェリシー同様これからの食事に限りない期待をしているかのような表情で、シオが言う。これですよ、と言うようにキッチンの奥でミティリスが、その自慢の鹿肉を掲げてくれもする。
「てっきり余りがあるんだと思ってた。リストに貰えれば私、一緒に買ってきたのに」
「肉類は隣町で直接買った方が安いんです。シオさんに訊いたら猟師さんに伝手があるとのことだったので……」
「走って行ってきた。ハムも買ってきたから夜食にはハムエッグサンドも追加になる」
楽しみだ、と楽しみそうにするシオに、私も楽しみ、とフェリシーは同調してから、
「え、じゃあ隣町で降られたんだ」
「ああ。雲の流れからしてこっちの方まで来ると思う。……隣町に近付いている途中で気が付いたんだが、傘を取りに戻るのが面倒でそのまま突っ切ってしまった」
そんな力業の天気予報もあったんだ、とフェリシーは呆れるやら感心するやら複雑な気持ちで窓の外を見る。
確かに、まだ昼前だというのに少しずつ薄暗くなり始めている……。風の温度や強さまでは、部屋の中にいてはわからないけれど。
もふっ、と。
彼女は、自分の髪を持ち上げるようにして触って、
「あ、ほんとだ……。湿気で髪が膨らんできてる……」
「もこもこで可愛いと思う。羊の毛玉みたいだ」
「『羊』までで止めな」
羊みたいで可愛い、までならギリギリ受け止められても、毛玉みたいで可愛い、はかなり厳しいものがある。丸まってる猫を相手に言っても気位次第ではギリギリ引っかかれてもおかしくない。
たぶんシオの性格からして思ったことをそのまま口にしているだけなのだろうと思うけれど、もう少し褒め方と言うものが――、
「あ、」
「ん?」
「思い出した。前から訊こうと思ってたんだけど」
大したことじゃないから、毎回後回しにしていたこと。
最初のさ、とフェリシーは訊ね始めた。
「面接のとき、なんか色々言ってたじゃん」
「なんか色々……?」
「好みのタイプとか。ああいうの」
さっきの会話に関連して、アルマが『銀髪のふわふわ』とかそんなことを言っていたな、という記憶が思い起こされたのだ。
あの、何か明らかにこっちを狙い撃ちしに来た感じの、訊いてもないのに語り出したアレ。
「あれ、何だったの? シオくんはああいうの自分から言わなそうだし。なんか私が入って来る前に打ち合わせでもしてた?」
あれか、とシオも記憶を掘り起こすことに成功したのか、頷いて、
「打ち合わせをしたというか……アルマとオズウェンのふたりが『この家は貴族の家』『貴族令嬢が雇い主らしい』『結婚したら一生働かなくてもいいかもしれない』という話を事前にしていたんだ」
「ろ、ろくでもない……」
「僕も『そうなのか』と思って真似をした」
「周りに悪影響出てるし……」
あのふたりの真似するのはやめな、とフェリシーはちゃんと言っておく。
その言葉にノータイムで「わかった」と頷いてしまうシオが、よりにもよってあのふたりの近くにいる危険性についても、ちょっと考える。
どうせ見習うなら、そう、たとえば家事万能で慎み深くて優しさもある、ああいう――、
「…………そういえば、あのときミティリスさんも」
「あ、あはは……すみません。三人立て続けに来たので、期待に応えなくてはと……」
ごめんなさい、と謝るミティリス。
この人はこの人でこういうところがあるな、とフェリシーは思う。顔合わせ冒険の最後に唐突に歌い出したのも、実はあれは他の三人が決定的な欠点を出したのだから自分も一応そういうものをアピールしておこうとか、そういうつもりだったのではないかと疑っている。そういうチームワークは要らない。全く。
「でも、あれもすっかり一ヶ月以上も前のことなんですね。あのときはどうなることかと思いましたが……」
そして彼は、そのままさらっと話をすり替える。
この人はこういうところもあるな、とフェリシーは思うけれど、当面のところこの人のこういうところから実害が発生したことはないし、自分が不利に陥ったとき(アルマやオズウェン相手に口喧嘩で負けそうになる場面など)もそういうところ発揮してフォローしてくれることがあるので、そのまま見逃してやって、新たな話題に乗っかることにする。
「ねー、ほんと。あのときどうしようかと思ったもん。それがもう、それなりに余裕であと二週間だけだもんね」
「今でも毎回余裕はないですけどね」
ギリギリです、とジャガイモの皮を剥きながら言われて、まあそれは確かにそうか、と納得もする。何か色々麻痺した結果として余裕を感じているだけで、よくよく目を凝らしてみれば余裕なんてどこにもない気がする。
今でも迷宮のソロ予約が取れた真夜中は、サーカスの動物もかくや、という具合にチンドンシャンシャン大暴れしているわけだし――、
「やっぱりリーダーは、普段からそういう感じで生活しているから慣れているのか?」
「んなわけあるかい」
シオの皮肉でも何でもなく本心から出てきたみたいな言葉に、そんな日常あってたまるか、とフェリシーは否定する。
「今やってることがことだからあんまり説得力ないかもしれないけど……普段は普通の学生だからね、私」
「あれ。フェリシーさん、生徒会に入っているんじゃありませんでしたっけ」
「入ってるけど……別に生徒会って問題児収容機関とかじゃないし。普通の優等生だよ、私」
「……?」「…………?」
「喧嘩するか?」
がたっ、と椅子から立ち上がったところをシオに「まあまあ」と諫められて座り直す。で、機嫌直しなのかそれとも単なる親切なのか、ミティリスが出してくれたオレンジジュースを一口含んで、単純に機嫌を直したりもする。
「でも、私も気になりますね。フェリシーさんの学生生活。さっきの好みのタイプの話じゃありませんが、いないんですか? そういうお相手とか」
「えっ、何その質問……お母さんじゃん」
「お゛っ……!?」
「リーダー。流石に酷い」
聞いたことのないような声がミティリスから出てきたので、素直に「ごめん」とフェリシーは謝る。でも、さっきの質問は中等科一年の夏休みに帰省したときにお母さんから訊かれたのと完全に同じやつだった。
「い、いえ。すみません、私も変なことを。職業柄、ちょっとそういう……恋の話みたいなものに興味があって」
「何それ。ラブリー忍者ってこと?」
「あ、いえ。忍者以前の職の話です」
「実際どうなんだ。リーダー。魔術学園はお金持ちがいっぱいいるとオズウェンが言っていたが、玉の輿に乗ったりするのか」
本当にあのゴリラッコマネー怪人はろくなことを吹き込まないな、とフェリシーは呆れて、
「私は全然そういうのないよ。確かにお金持ち系の貴族で仲良い人もいるけど……」
「どんな?」「どんな人なんですか?」
「食い付きすごっ……」
えーっと、とフェリシーは指を振って考える。
これは別に見栄を張ってしまったから今から急遽架空の人物をでっち上げなくてはならないとかそういう理由からではなく、単に生徒会の関係上それなりに交流が手広くて、誰を持ち出してくるか迷ったために。
一番最初に思い付いたのは、借金の一本化を引き受けてくれた侯爵家……『爵位買いまくり』のコンクロール家のご令嬢、親愛なる我が後輩、コン・コンクロール。彼女が「期日を過ぎたら……約束通り『何もかも』いただきます」とねっとり口にしたときの、嬉しそうに細められたあの目なのだけれど。
それは仲が良いから浮かんだわけではなく、単に最近お金のことばかりを考えていたから自然と浮かんだのだろう、という気がしたので。
「…………まあ、副会長かなあ」
結局その前――割と学園にいる間はいつでも頻繁に顔を突き合わせていた人を、引き合いに出すことになる。
「副会長」「生徒会のですか?」
「そう。インガロット・イングレディオっていう……イングレディオ家っていうのは公爵家なんだけど」
「ミティリス、どれくらい偉いんだ?」
「すごく偉いです! 大領地持ちで、王家にも匹敵する勢力がありますよ!」
「つまり王子様か」
「ロマンティックですね……」
何が、とフェリシーは思う。
だいぶこのふたりは夢を見ている。特にさっさと自分の世界に入って「LaLaLa恋する――――♪」と小さく歌い始めている方は。
「いや、王子様っていうか……全然違うよ。なんかネチネチしてるし。陰険だし」
「えっ」「いや、そんな……」
「何かにつけて揚げ足取って来るし、『この程度のこともできんのか?』とか『貴様には生徒会役員としての自覚が足りん』とか……眼鏡クイーッてしてさ」
本人がいないところで言いたい放題。
が、これくらいのことは言っても構わないはずだ、とフェリシーは思っている。
なにせ生徒会に自分を引き込んだのがこの副会長、インガロット・イングレディオなのである。そして彼は何か、自分のことを『仕事を放り込んでおくと自動的にいい感じにして戻してくれる謎の箱』くらいのイメージで捉えている節がある。
生徒会長である王女を支える姿勢や、ちょくちょく裏で手を回して自分の魔術実験環境を整えてくれることに関しては感謝はあるけれど――、
「陰険が服着て歩いてるみたいな人だよ」
「言い過ぎでは」「流石に可哀想では……」
「いや、いいんだよ別に。あの人、私に仕事振った理由を訊いたら『しぶといから』とか答えるような人だし」
「それは結構わかる」「…………」
「なんでわかってんの」
なんでわかってんの、ともう一度訊いたが、答えはない。
代わりに彼らは目を逸らして、
「そこまで来ると、一度見てみたいな」
「そうですよね。遠くから。あ、降り出してきた……」
「また強くなりそうだな。雨ばかりだ」
「本当ですね。洗濯物が乾かなくて困った困った」
「困った困った」
お得意の話題逸らしも披露してくれる。
こいつら、とフェリシーは拳を握る。
そのあとすぐに、まあそっちの話題から逸れたならいいか、と思う。
「でも、ほんと雨ばっかだよね。なんかこの一ヶ月ずっと雨降ってる気がするもん」
「実際そのくらい降ってるんじゃないか」
「どうでしょう。今朝晴れていたときはすごく久しぶりな感じがしましたけど」
「ねー」
でもまたすぐに雨になっちゃったね、と。
瞬く間に全て濡れてしまった窓ガラスを見つめながら、呟いて。
少しだけフェリシーは、思うところがある。
そういえば――借金に目を回してばかりだったからその発端が何であったのかを気にする余裕もなかったけれど、なんてことを。
そしてその思考は、「嵐にはならないといいね」という言葉に集約され、
「アルマと先輩も、濡れて帰って来るかな。最近傘意味ないことない?」
「ある。もう少し画期的な雨具が開発されてほしい」
「フェリシーさんはそういうのは作れないんですか?」
「どうだろ。色々終わったらやってみようかな」
「作ったら売ってほしい」
「私も欲しいです。それにしても……本当に濡れて帰って来そうですね。ふたりともしばらく用事も終わらないでしょうし、どんどん雨脚も強まっていますし」
そうだね、とフェリシーは頷いた。
そして、段々と雨音にぼーっとしてきた意識を覚ます意味も込めて、ぴょん、と椅子から飛び降りた。
「んじゃ、濡れて帰ってくる人たちのためにタオルでも――」
用意しておいてあげようかな、と。
言いかけたフェリシーは、凍り付いたように固まる羽目になる。
だって、今。
玄関の扉が、ぎぃいいいいい、と開く音が、耳に入ったから。