19.ウサギはくさくないんだ
自分が絵留の父親であることを思い出した俺だが、だからといって何ができるわけでもない。
今の俺はウサギであり、しゃべることもできないのだ。
今まで通りウサギとして生きていくしかないわけだが、絵留が娘だとわかったことで、世話をされるのが何となく照れくさくなった。
俺は娘になでられて、喜んでいる。
俺は娘にニンジンの葉をもらって、がっついて食べている。
俺は娘に仰向け抱っこをされて、屈辱を感じている。
今までと変わらない日々だが、それが新鮮に感じられるようにはなった。
そんなある日、俺のもう一人の娘である希春がやってきた。
希春は絵留の妹だ。
この春から地方の大学に進学し、アパートで一人暮らしをしていたのだが、年末年始を姉と過ごすため、このマンションに帰省したのだ。
夏休みは帰らなかったため、俺と会うのは初めてである。
「このうさぎが、お姉ちゃんが嫌になるほど自慢し、写真を送りつけてきたビグウィグなのね」
「そうだよ、かわいいでしょ!」
「そうね」
希春は能天気な姉とは違い真面目そうだ。
しかし表情が乏しかった。
俺の知っている彼女は、もっと明るい女の子だったはずだが。
「そうだ、なでてみる? なでられると喜ぶんだよ」
絵留はそう言うと、俺を抱え上げるようにしてケージから出した。
そしていつものように、俺の頭から背中にかけて、ゆっくりとなでていく。
「ほら、目がとろーんとしてきたでしょ。さあ、希春もなでてみなよ」
「……私はいいわ。今はそんな気分じゃないの」
「そう? じゃあ後でね」
うーん、希春にもなでてほしかったんだが。
生まれ育った場所に帰ってきて、姉と久しぶりに会ったにもかかわらず、どこかよそよそしい感じがする。
やはり両親の死が、そしてその後の絵留の態度が原因なのだろうか。
一年以上前、俺は軽自動車の助手席に妻を乗せ、二人で買い物に出かけた。
そして、居眠り運転の大型トラックに正面から追突された。即死だった。
俺たちに全く非はなかった。
妻はすぐに成仏してしまったが、俺の魂は死んだ後も現世にとどまっていた。
俺が成仏できなかったのは、残された娘たちが気がかりだったからだろう。
俺は、絵留と希春が悲しみに沈む様子も見ていた。
いつも笑顔を絶やさなかった希春は、見たこともないほど取り乱していた。
泣きわめき、叫ぶ様子は、見ていてつらかった。
そんな妹を守るため、絵留は自分がしっかりしなければならないと思ったようだ。高校生の希春に対して、自分は大人で社会人だったのだから。
希春の悲しみが癒えるまで彼女を優しくいたわり、受験生である彼女が勉強に専念できるように気をつかっていた。
絵留自身は、一度も涙を見せなかった。
だが、俺にはわかっていた。
他人には元気な姿を見せてはいたが、心の内では妹と同様、悲しみに押しつぶされそうになっていたことを。
「それにしても、このうさぎ全然くさくないのね」
「うさぎはくさくないよ。それどころか、いい匂いがするんだよ、ほら」
絵留は俺の後頭部に鼻をあて、スーハーと匂いをかぎ始めた。
「ハァ、ハァ、ああ、なんていい匂い。幸せー」
変態だー!
「そ、そうなんだ」
絵留は幸せそうだが、希春は若干……というより、かなりひいている。
希春のように、ウサギはくさいと思っている人は結構いるようだ。
だが、実際はほとんど無臭である。
それどころかウサギを飼っている者に話を聞くと、絵留のように「いい匂いがする」と答えることが多い。
なぜウサギはくさいなどという誤解が生まれたかだが、おそらくウサギの尿がくさいからだろう。
ウサギのおしっこは、はっきり言ってかなりくさい。
だが、ちゃんとトイレを用意して、その中に消臭成分の入った砂を入れておけば問題ない。
しかし、小学校などにあるウサギの飼育小屋では、トイレのしつけをしていないことが多いので、中に入ると悪臭が漂っていたりする。
それでウサギはくさい、と思う人が増えたのではないだろうか。
希春は姉の変態的な所業をじっと見ていたが、しばらくしてポツリとつぶやいた。
「お姉ちゃんは、楽しそうだね」
「そうだよー。うさぎがいる生活って楽しいよ」
「お父さんとお母さんが死んだ時も、あまり悲しまなかったもんね」
「え?」
妹の言葉を聞いた絵留は、俺の匂いをかぐのをやめ、顔を上げた。
「あの頃のお姉ちゃん、しっかりしてたよね。葬儀の手配もテキパキとやってたし、お金のことでも、しつこいくらいに交渉してたし」
希春の言葉にはトゲがあった。
俺は娘たちが心配でずっと成仏できなかったわけだが、これがその理由である。
仲がよかった姉妹の間にヒビが入ったような気がしたのだ。
これから、たった二人の家族として助け合って生きていかなきゃならないのに。
希春が言うように、あの時の絵留は「しっかり」していた。
事故の後始末として、警察や保険会社と交渉をしたのは絵留だ。
親類縁者へ両親の死を連絡し、葬儀屋と打ち合わせて葬儀の手配を行った。
お坊さんを呼んで、初七日、四十九日の法要も行った。
謝罪に訪れた加害者の家族とも、会って話をした(希春は決して会おうとしなかった)。
保険会社を間に立てて、加害者との示談交渉も行った。
決して保険会社の言いなりにはならず、多額の慰謝料や損害賠償金を受け取ることに成功した。
俺は生命保険に入っていたので、その受け取りも行った。
遺産の相続、分配の手続きにも手抜かりはなかった。
弱い姿は誰にも見せず、様々な処理をこなしていった。
絵留が外ではクールな女を演じるようになったのは、この時からだ。
内面の感情を隠して、他人の前では強い女の仮面をかぶらなければ、やっていけなかったのだろう。
だが、そんな絵留が希春にとっては、両親の死にも感情を動かさない冷たい人間と感じられたようだ。
悲しみで何も手につかない、というのが娘としてのあるべき姿だと思っているのかもしれない。
でも、この件については希春が間違っている。絵留を褒めるべきなのだ。
高校生の希春とは違い、絵留は大人だった。
大人はどんなに悲しい目に遭っても、やるべきことはやらねばならない。
お金についてもそうだ。
お金は大切に決まっている。社会に出たことがなく、扶養されていただけの希春にはそれを実感できなかったのだろう。
こういうことについては、希春もいずれ大人になれば気付くはずである。
だが、それまで姉妹の仲が悪いままでは、俺も成仏できないというものだ。




