14.病院に連れて行かれた(1)
絵留がキャリーケースをケージの前に持ってきた。
つまり、俺をどこかへ連れて行こうとしているのだ。
「さあ、ビグウィグ。病院に連れて行ってあげるよ」
なぜだ? 俺はどこも悪くないぞ?
「ただの健康診断だから安心していいよ。それに、病院で診てもらうことを経験しておけば、後で本当に病気になったときに慌てずに済むと思うんだ」
健康診断か……。
まあ、必要なのは理解できなくもない。
だが、ウサギは基本的に臆病なので、知らない場所に行くのは嫌なのだ。
絵留がケージの扉を開けた。
「さ。出ておいで」
嫌だ。この居心地のいいケージから出たくない。
俺はケージの奥に尻をくっつけ、前傾姿勢になった。断固、外には出ないという意志表示である。
「抵抗しても無駄だよ。絶対に連れて行くからね」
まあ、そうだろうなあ。
ペットが抵抗したからといって、病院に連れて行くのをやめるような飼い主はいないだろう。
「仕方ない。実力行使だ!」
絵留はケージの中に両手を入れ、俺を下から抱え上げようとした。
ダンッ!
慌てて、ケージの隅にある三角形のトイレに跳び乗った。
トイレは、最も安全な場所なのだ。
なぜなら、ここにいれば絵留は手を出せないからだ。
「あれ? トイレかー。じゃあ仕方ないなあ、今のうちに済ませておいてね」
トイレはさっき済ませたばかりである。
これは、外に出されないための作戦なのだ。
トイレ中のウサギを強引に連れ出そうとする飼い主は、いない。
なぜかといえば、ウサギの飼い主というのは、なんとかトイレを覚えさせようとして、苦労した経験があるからだ。
尿の匂いのついたものをトイレに入れておいて、そこが排泄場所であることを認識させたり、ちゃんとトイレでできたときは、大げさに褒めてやったりする。
そんな工夫をして、ようやくウサギはトイレで用を足すことを覚える。
それなのに、せっかくトイレを使ってくれているウサギを無理矢理移動させるなんてのは、今までの苦労を否定する行為だ。
そんなことができるわけがない。
つまり、俺がトイレに乗っている間は、絵留は手を出せないのだ。
誤算だったのは、俺はトイレについては初めから優等生で、絵留はまったく苦労した経験がないことだ。
俺がトイレを使うのは当たり前だと思っているのである。
絵留は音を確認するため、耳をすませた。
尿の場合は「シャーッ」と排泄して、一瞬で終わる。
糞の場合は、一粒一粒が下に落ちるたびに、コロン、コロンという音がする。
絵留は排泄の音がしないことに、不審をいだいたようだ。
「ひょっとして、病院に行きたくないから、トイレに乗ってるの?」
ばれた。
結局、背中の皮をつかまれ、無理矢理引っ張り出された。
タクシーでやってきた病院は、「五木動物病院」というところだった。
中に入ると、獣の臭いが漂っていた。
犬や猫の臭いは、捕食される側であるウサギにとって、警戒心を抱かせる臭いだ。
絵留は初めてくる動物病院が珍しいのか、あたりをキョロキョロしている。
「初めての方ですか?」
「あ、はい」
受付の人に声をかけられ、記帳を済ませる。
「こちらの問診票にご記入いただけますか」
「わかりました」
問診票を渡された絵留は待合室のベンチソファに座り、その隣に俺の入ったキャリーケースを置いて、記入を始めた。
俺の目の前にも布製のキャリーバッグが置いてあり、猫が入っていた。こいつも病院に連れて来られたのだ。
互いにキャリーケース越しに、にらみあう。
目をそらしたら負けだ。
俺は謎のプライドで猫を凝視する。
たぶん向こうは、「なんだ、この妙な生き物は」とか思ってるんだろうな。
猫はオスの茶トラ猫だ(オスであることは、臭いでわかる)。
おそらくは雑種だと思われる。
それに対して、俺は血統書付きだ。
純血のネザーランドドワーフである。
勝ったな。
俺は謎の優越感にひたる。
「にゃー」
何がにゃーだ!
こいつ、こびるような、かわいい声で鳴きやがった。
ウサギは鳴き声でコミュニケーションを取らないので、何を言ってるのかはわからない。
もっともウサギも全く鳴かないわけではない。
嬉しいときや飼い主に甘えたいときは「プゥプゥ」と鼻を鳴らす。
怒ったときは「ブーッブーッ」と鼻を鳴らす。
痛みや恐怖を感じたときは「キーッ」とさけぶ。
死ぬ直前にさけぶこともあるそうだ。
「わーっ、かわいいですね!」
絵留が、猫の甘えた声に反応しやがった。
おまえ、外でクールな女を演じるのはやめたのか?
「なでてみますか?」
猫の飼い主のおばさんが、そんなことを言った。
「いいんですか? なでてみたいです!」
「どうぞどうぞ」
おばさんは猫をキャリーケースから出すと、抱きかかえた。
絵留は猫の頭をなでる。
「きゃっ、もふもふで気持ちいい! 知らない人になでられても大人しいんですね」
「そうでしょう。なでられるのが大好きな子なんですよ」
「やっぱり猫ってかわいいなー」
何が猫だ! おい、絵留! おまえには俺がいるだろうが!
「佐藤さん、どうぞ」
「はーい」
猫の診察の番になったようだ。
「それじゃ、またねー」
絵留は猫に手を振っている。
なんか悔しいな。
だが、おばさんと猫が診察室に入っていったのを見届けると、彼女は立ち上がって、洗面所へと向かった。
そして、手を洗い始めた。泡ハンドソープで念入りにだ。
俺は理解した。
猫に触ったから、手を洗っているのだ。
あの猫がどんな病気をもっているか、知れたものじゃない。
そんな猫に触った手で、俺に触れるわけにはいかないのだ。
どうやら絵留をみくびっていたようだ。
彼女は一人前の大人であり、社交辞令というものを知っているのだ。