1.飼われることになった
俺はウサギだ。名前はまだ無い。
前世は人間だった。
信じられないだろうが、本当のことだ。
ついさっきまで、普通のウサギとして生きていたのだが、なぜか突然、前世の記憶がよみがえってしまったのだ。
今は、間違いなくウサギである。
全身が薄茶色の毛に覆われていて、頭には長めの耳がある。
まったく、ウサギに生まれ変わるなんて、俺は前世で、どんな悪事を働いたんだ?
人間だったことは確かだが、自分がどんな人間だったかは、全く覚えていない。
「この子は『ネザーランドドワーフ』という種類のうさぎの雄で、生後六ヶ月になります」
近くから、男の声が聞こえた。日本語だ。
俺はその言葉を理解できた。
「なんでこのうさぎは、他のうさぎより値段が安いの?」
今度は女の声がする。
感情がこもっていない声だ。
落ち着こう。
まずは周囲の状況を確認するんだ。
俺は、鉄製の檻に閉じ込められている。
いや、たしかケージと言うんだったか。
二人の声は、上の方から聞こえてくる。
「売れ残ったので値段を下げたんですよ。生後六ヶ月といえば、もう大人ですからね」
「そう」
どうやら、俺は売り物らしい。
するとここは、ペットショップか?
男が店員で、女は客のようだ。
「でも、健康状態は問題ありませんし、抱っこもできますよ。見ていてください」
ケージの入り口から手が伸びてきたと思ったら、あっという間に捕まり、ケージの外に連れて行かれた。
俺は男の店員によって抱きかかえられた。全く動けない。
「どうぞ、なでてみてください」
「こうかしら」
首からおしりの方に向かって、背中をなでられた。
あれ、気持ちいいな、これ。
「ほら、なでられて喜んでますよ。この顔を見てください」
「全然表情が変わったようには、見えないけれど」
俺は女を見た。
ウサギは視野が広いので、振り向かなくても、女の顔がよく見える。
怖えぇ。
俺の第一印象はそれだった。
歳は二十代前半といったところか。
黒のブラウスとスカートに身を包み、黒い髪を後ろでまとめて、アップにしている。
身長は百六十五センチぐらい。
全体的にほっそりとしていて、スタイルがいい。
顔は小顔で、切れ長の目がクールだ。
町で見かけたら、まじまじと眺めてしまいそうな美人だ。
だが、表情が全くなく、冷たい印象を受ける。
美人だけど、なんか怖いよ、この人。口調もぶっきらぼうだし。
こんな人に飼われたら、きっと虐待されるよ。
飼われるなら、もっと優しそうな人がいいぞ。
俺は店員によって、ケージに戻された。
「やっぱり、生後二ヶ月ぐらいの子がいいですかね。残念ながら、今はいないんですよ。三ヶ月後に来ていただければ、ご用意できると思いますが」
「…………」
女は無言で考え込んでいる。
そうだ、三ヶ月後まで待て。
俺なんかより、かわいいウサギが待ってるぞ。
この女には飼われたくないと思った俺は、見逃してもらえるように願った。
「仕方ないわね。このうさぎでいいわ」
マジかよ。
俺は、ペット用の狭いキャリーケースに入れられた。
どうやら今は、タクシーで移動中のようだ。
出荷される牛の気分だ。
「ここでいいわ」
女はタクシーから降り、キャリーケースを持って歩き出した。
ああ、今までは人目があったから何もされなかったけど、きっと二人きりになると、虐待が始まるんだな。
しばらくして、何やら浮遊感に包まれた。
この感覚は覚えがある。エレベーターに乗っているようだな。
……ずいぶん長くかかるな。
よっぽど高い階層に部屋があるのか。
タワーマンションに住んでるんだとしたら、結構な金持ちなのかな。
だったら、もっと高いウサギを飼えよ。
部屋に着いたようだ。
女は鍵を開け、中に入る。
玄関から廊下を歩いていく。
着いた部屋は十畳ほどのリビングだった。
殺風景な部屋だった。
フローリングに若葉色の絨毯が敷かれており、ベランダに続くガラス扉からは、明るい光が入ってくる。
壁際に二人掛けのソファーと、それに向かい合うように大画面のテレビがある。
他にも、こまごまとしたものが置いてあるが、家具は少ないようだ。
入り口付近には、ケージが置いてある。
ショップで俺が入っていたケージよりも、ひとまわり大きい。
これが、俺の家になるのだろう。
ケージの前で、キャリーケースが下ろされた。
俺は女に抱えられて、外に出された。
なんとか逃げ出したかったが、恐怖で体が動かない。
そのままケージに放り込まれてしまった。
そして扉は閉ざされた。
俺は少しでも女から遠ざかろうと、ケージの奥に移動し、うずくまった。
女からは決して目を離さない。
俺は覚悟を決めた。
手を突っ込んできたら、かみついてやろう。
ケージの金網の向こうに、女の顔が現れた。
俺をじっと凝視している。
一切表情がない、恐ろしい顔――と思ったら、おかしなことが起こった。
「えへへへへー」
女は変な声を出し、その整った顔が、だらしなく崩れた。
女は全身で腹ばいになり、手で顎を支える姿勢になった。
「かーわいーなー、でへへへへー」
女は、気持ちの悪い笑顔で俺を見つめて、不気味なことを言っている。
なんだコイツ! 怖いんだけど! さっきまでとは違う意味で!
よく見ると、口元からよだれが垂れている。
俺のことを食うつもりか!
「ハァ、ハァ……初日はそっとしておいたほうがいいって、本には書いてあったけど、ちょっとぐらい、いいよね」
女は体を起こすと、ケージの扉を開け、手を入れてきた。
かみつくどころではなかった。恐怖で体が硬直している。
女は、俺の頭から背中にかけて、なで始めた。
「うひひひひ、もふもふ、きーもちいー」
何なの、この人。怖いよ。
お母さーん!
読んでいただき、ありがとうございます。
不定期に更新していきます。