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鬼は死して尚、修羅を生く  作者: 夢現
第一章 明日の事を言えば鬼が笑う
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第一章09 『七色の霞』

 余人の認識の外に追いやられただだっ広いグランドの中央に三人。


 ダボダボのジャージを着た少女と、その少女に向かい合う形で二人の男が並び立つ。


 どちらの男も上背があり体格も良い為、これから起こるであろう両陣営による命の削り合いが誰かの目に留まったのであれば、まず間違いなくその誰かは少女の味方に付くだろう。


 純粋な力比べであれば結果は火を見るよりも明らか。それ程に傍から見ても戦力差は明らかで、ある意味滑稽な対峙だった。


 男二人と真正面から対峙する少女、栞は腰に革製のベルトのような物を巻いている。

 腰の右側に四角いホルダーが付いていて、赤茶色の牛革で作られたそれは、多くの道士が愛用する装飾品である。

 ホルダーの中には道術を使う際に欠かせない札を収納している。上部には半円の窪みがあり、一枚ずつ札が取り出せるようになっている。


 ホルダーの上部の窪みに右手の中指を滑らせ、一枚の札を取り出す。

 左手はすぐに印が結べるように胸の前あたりに構える。


 栞は前に立ちはだかる巨躯を見やる。


 二メートルを優に超えるその体は筋肉という鎧で身を包んだように逞しい。


 ようやく昇ってきた陽の光を栞の視界からすっかり隠してしまう。逆光を受けて全身に影が差したその姿は不気味さを増し、いよいよ栞の知る弁慶の面影を消し去っていく。


 弁慶の後ろでこれまた不気味な影が動く。


 影の正体である蓬が黒いコートのチャックを下ろすと、中に着た黒いシャツと黒色の皮でできた栞と同じようなホルダー付きのベルトが見えた。


 栞と違う点は札を入れるホルダーが腰の左右に付いていることだ。

 それによって左右どちらの手でも印が結べ、また札を飛ばす動作が可能になる。


 しかし複雑な印を結ぶこと、札を正確に投げ飛ばすことはどちらも高い技術が必要になる。

 それらを実践できる能力を持ち合わせていることを暗に示唆している。


 蓬が目にも留まらぬ速さで印を結び、ガンマンよろしく右手を振り上げたと思うと札は既に放たれ、弁慶の足下へ貼り付く。


 すると深紫色の円が現れる。


 雷が迸るように円の周りを紫電がバチバチと音を立てて走る。円の中心から刀のような刃、刀身の幅はもっと広い湾曲した銀色が覗く。どんどんと紫円から吐き出される刃は鐔から下、本来柄が付く場所は長い木の棒が取り付けられている。


 つまりは突如として薙刀が出現したのだ。


 弁慶のごつごつとした岩肌のような大きな手が薙刀を掴んだ。


 弁慶が愛用する武具であり、普段は次元の狭間に保管されている。


 術者は道術を使いゲートを開き、殭屍は術者の氣を用いてその座標と繋げる。

 道士と殭屍の間でよく使用される道術の応用である。


 ともあれこれで弁慶の戦闘準備は完了した。あとは剛腕を存分に振るい敵を薙ぎ払うのみ。


 ――速い!


 栞は蓬が道術を行使するまでの圧倒的速さに驚きを隠せない。動作は洗練され少しの無駄も無く、目で追いきれない程の速さで実行された。


 二王頭家一との呼び声高い道士の技量の一端を垣間見た栞の体に自然と力が入る。


「あぁそういえば。お母様は分家の屋敷で丁重に保護させてもらってますよ。ますよぉ。使用人にもよく言い聞かせてるんで不自由はしてないと思いますぜ。ますぜぇ」


 紡は捕まってしまったのだ! 怪我はしてないだろうか。酷い扱いを受けてはいないだろうか。

 覚悟を決めていたからといって、母を心配しない理由にはならない。


「お母様は無事なんですね? 二王頭家の道士が人質をとるなんて! 恥ずかしくはないのですか」


「人質ぃ? あんまし舐めてんじゃねぇぞ小娘。お前如き雑魚にそんな小細工必要ねぇよ。生かしておいてやってんだむしろありがとうございますだろぉがよぉ」


 先程までは一貫して無関心な、気怠げな態度を崩さなかった蓬を取り巻く空気が突如一変した。


 日本人にしては彫りの深い顔を激憤に歪ませ、左右の顳顬には嵐を呼ぶ雷鳴のような青筋がくっきりと浮き出ている。


 栞は初めて蓬の内側に激情の奔流を観た。


 肌を粟立たせるような怖気(おぞけ)が身体中を這いずり回り、栞の精神を蹂躙しようとする。なんとか心を奮い立たせ、憤怒によって豹変した蓬の眼を睨み返す。


「落ちこぼれが一丁前に俺に向かって睨み効かせてんじゃねぇぞ。ねぇぞぉ。栞お嬢様、あんたはもうダメだ。ダメだぁ。殺す。弁慶っ!」


 主人の命を受けた伝説の僧兵は絶対的な破壊者としてその猛威を振るおうと、全身の筋肉へ電気信号を伝達していく。


 一つ地面を蹴るとひとっ飛びで栞の目の前に辿り着く。


 両手で持った薙刀を横に引いて一瞬のタメを作ると横一閃。剛腕の振るう薙刀が唸りを上げて栞に襲いかかった。


 体を折り畳むように屈み込んだ栞の真上を、空気の壁を穿つように凶刃が走り抜けた。


 栞の額を冷や汗が伝う。

 一度でも当たればひとたまりもなく栞の体は引き裂かれてしまうだろう。


 ――弁慶、ごめん!


 栞は左手で素早く印を結び、右手に握った札を弁慶へと投げつける。

 札は空中で紅蓮の業火へと姿を変え、弁慶の体に命中すると溜め込んだ熱を爆発させる。煙が上がり焦げ臭い匂いが立ち込める。


 上半身を煙に覆われたまま弁慶は両手で薙刀を振り上げる。


 栞は次の斬撃に対応する為急いで体勢を整える。


 薙刀が振り下ろされる。それと同時に栞は横へと跳ぶ。


 獲物を見失った刃はその鬱憤を地面にぶつける。大地を抉り地面へと薙刀がめり込むと、細かい砂粒が散弾銃の玉のように弾けて栞にぶつかった。


 右腕を顔の前に掲げ砂を防ぎながら左手で印を結ぶ。


 栞はしゃがみこみ、今度は札を地面に貼り付けると巨大な氷の刃が弁慶に向かって伸びて行く。


 尖った先端が弁慶に辿り着きその体に突き刺さった。しかし氷の刃は鋼の筋肉に阻まれ砕けてしまう。

 気持ち弁慶の巨体が揺らいだように後方に仰け反る。


 ――厳しいけど、全く歯が立たないわけじゃない!


 周りとの実力の差に打ちひしがれたあの日、恥辱にまみれ、苦杯を舐め、強くなりたいと切望したあの日から、栞は栞なりに道術とひたむきに、真摯に向き合い、研鑽を積むための修行に励んできた。


 落ちこぼれと言われたあの時の自分とは違う、一日一日少しずつ積み重ねた時間を証明し自信に変えるのだ。


 逡巡も束の間。突然。栞の目の前に黄色い玉が現れた。


 咄嗟に避けようと試みるが間に合わず栞に黄色い玉が直撃する。

 凄まじい衝撃と全身を同時にくまなく針で突き刺されたような痛みが栞の身体を走り抜けた。電流。電気の玉が栞に当たったのだ。


「俺の存在も忘れないでくださいよ。さいよぉ」


 余韻を残す痛みに悶えながら、栞の頭の中にあった知識を超えて、体が経験を通して理解した。


 ――これが道士の闘い!


 栞の回復を待ってくれるわけも無く、再び弁慶の薙刀が襲いかかる。


 横に振り払われた刃を転がりながらなんとか回避する。しかし刃は栞のダボついたジャージを裂き、掠めた上腕部の肌を削った。血飛沫が飛び、真紅の雫が地面に模様を作る。


 栞の身体は砂埃を上げながら地面を転がり、やがて止まった。


 衝撃で脳が揺れたか、止まった今も視界が上下左右関係無く弾んでいる。口の中がジャリジャリとして気持ち悪い。宗馬から借りたジャージはすっかり煤けてしまい、栞の顔も砂埃で茶色く汚れている。


 熱い! 焼かれたような痛みが追い付いて、左腕に傷を負ったことを思い出す。


 二の腕の傷口から腕を伝い、中指の先端から雫が落ちて地面に吸い込まれていく。

 だが出血はさほど多くはない。印を結ぶのに支障はないだろう。


「今のはなかなか危なかったですね。ですねぇ」


 膝をついた栞を見下ろす蓬の表情は余裕に満ちていて、その顔には下卑た笑みを浮かべている。


 狩人が獲物を追い詰め、狩るようなそんな大仰なものではない。子供が小さな虫を痛ぶり遊ぶような、他愛もない幼稚な遊戯でしかない。


 栞を見る蓬の瞳が音も言葉もなく、だが雄弁にそのことを伝えてくる。


 蓬の中で栞は昔のまま、落ちこぼれのまま存在している。敵にすらなり得ない、言うなれば路傍の石に過ぎないのだ。


 ――負けたくない!


 こんなにも負けず嫌いで、反骨心と闘争心を内に秘めていたなんて、栞自身思いもよらなかった。


 立ち上がり左の手で拳を握ると腕の痛みは消えていた。


 弁慶が薙刀を構えて躙り寄る。


 栞との間合いを慎重に測っている。二度仕留め損なった失態を取り戻す為、次こそはと必中必殺の機会を窺っている。


 栞がゆっくりと後ずさると、弁慶がその距離を詰める。


 ――あと少し。


 後ずさる。詰める。弁慶が一歩踏み出したその瞬間。


 ――今だ!


 待ってましたと栞が左手で印を結ぶ。印を結ぶ指の先から血の雫が飛んでいく。


 弁慶の足下が小さく爆ぜたかと思うと、光の輪が現れる。


 腕のあたりの高さにまで浮いたフラフープのような輪っかが急激に縮まり弁慶を締め付けた。腕の肉にくい込む程縮小した光によって拘束される。


 足の下、地面に魔方陣が浮かび上がり、弁慶を縛る光の輪と魔方陣から伸びた光の鎖によって繋がる。


 完全に動きを封じられた弁慶は、拘束を解こうと力を込めるがビクともしない。


 ――かかった!


 弁慶は栞が事前に仕掛けておいた罠に見事にかかってしまったのだ。


 蓬と弁慶が現れる前、決戦場所をこのグランドと定めた栞は結界を張ったあとで、罠を仕掛けていた。予め地面に札を貼り、その上に砂を被せて隠しておき、その場所へと弁慶を誘い込んだ。


 大の男二人を相手に闘わなければならない栞は勝率を少しでも上げるために策を講じる必要があったのだ。


 弁慶の動きを封じ込めた栞は、ありったけの力で地面を蹴り、低空姿勢でミサイルのように飛び出した。


 栞と弁慶が必死の攻防を繰り広げる戦さ場から距離を置き、余裕ある佇まいで薄ら笑いを浮かべる蓬へと標準を合わせる。


「何っ!? 狙いはこっちか!」


 気怠げな顔のお面を貼り付けたような蓬が、その目を大きく見開き驚きの表情を浮かべた。


 ぐんぐんと加速しながら真っ直ぐに蓬へと突っ込んでいく栞は、もつれそうになる足を懸命に回転させながら右手でホルダーから札を抜き取る。

 蓬もホルダーへと右手を伸ばす。

 栞は印を結び札を投げるためにタメを作る。

 蓬が印を結ぶ。

 栞が札をなげる――。


「あっ!?」


 直前、左足を前に出そうとするが見えない何者かに足を掴まれたように脚が前に出ない。


 前へ前へと逸る気持ちは空回り、前のめりの身体はつんのめる。頭が地面に向かうと視線が下がり、ようやく栞は自分の足下の状況を把握した。

 右足が左足の余った裾をちゃっかり、しっかりと踏んづけている。宗馬から借りたダボダボのジャージは栞には大きすぎた。


 ズザアァァァ!!


 もろに顔面から着地する栞。見目麗しい乙女の顔が大根おろしのように容赦なく母なる大地によって削られる。


 ――ちょっ待っ、痛い痛い痛い! 顔っ削れっ顔無くなった、これ絶対!


 栞があまりの痛さに飛び起きそうになったその時、頭の上を何かが通過した風圧と、空気の切り裂かれたような不気味な音が同時にやってきて栞の動きを止めた。


 得体の知れない恐怖の正体を突き止めようと、顔を上げて後ろを振り返る。


 蛇口から流れる水のように栞の鼻から鼻血が勢いよく噴き出ている。頭を回転させた遠心力によって、新体操のリボンのように綺麗に円を描く鼻血。


 だが今はそんなことはどうでもいい。


 転んだ栞を見下ろすように、いつのまにか背後に巨体が立っていた。

 手に持った薙刀を振り抜いた後の動作の余韻がその姿勢に残っている。


 弁慶だ。


 ――えっ、どうして弁慶が!?


 拘束され動けなくなっていたはずの弁慶が栞の背後に立ち、薙刀を振り栞の身体を真っ二つに斬り裂こうとしていた。栞が一世一代のドジを踏んで転んでいなかったなら今頃――。


 知らぬ間にすぐそばを通り過ぎていた死の存在。その事実を知ってしまった栞の体から血の気が引き、寒気が足先から頭のてっぺんへと駆け抜ける。


「だからこっちも忘れないでくださいよ。さいよぉ!」


「!」


 蓬が放った札が正確に、確実に栞に向かって来ていることに気付いた時にはもう手遅れだった。


 咄嗟に出した右手に飛んできた札が貼り付いた。


 まずい――焦燥、戦慄、当惑、様様な感情が瞬間的に攪拌され、支離滅裂な思考が無秩序に栞の内側を暴れ回る。


 札は真っ赤に染まったかと思うと、臨界点を迎えた爆弾の如く爆発した。


 無理矢理に肉を引き千切られ、その傷口を灼熱の炎で焼かれたような、想像を絶する痛みを、痛覚は宿主である栞へと訴え続けてくる。


 爆風が栞を拒絶して遠くへ遠くへと突き飛ばす。平衡感覚を剥ぎ取られ、滅茶苦茶に地面を転がっていく。時折身体を大地に強く打ちつけ、衝撃に骨が軋む。


 身体が四散しそうな責苦もようやく過ぎ去り、砂煙を舞い上げて栞の身体が止まった。


 三半規管が音をあげ、胃の奥から吐き気がこみ上げてくる。身体中が心臓になったように激しく鼓動し、身体を流れる血液はマグマとなって、バクバクと脈打つ度に栞を焼き殺そうとする。


 右腕――はなんとか肩から伸びて定位置に存在していた。ただし見た目はまるで別物のように変わり果ててしまっていた。


 宗馬のジャージはズタボロになり、もはや布地の大半を失っている。


 露わになった右腕は皮膚が焼け爛れ薄紅色の肉が剥き出していて、赤黒いマグマ、もとい血液が止め処なく噴き出し溢れ出している。


 ――熱い熱い熱い熱い痛い痛い痛い!


 思考は朦朧としているが、熱と痛みだけははっきりと警鐘を鳴らし、栞を脅かす異常事態を知らせている。


「仙道の札に傷でもついたら大変ですからね。からねぇ。手加減はしたつもりですよ。ですよぉ」


 栞の霞んだ視界がようやく鮮明さを取り戻してきた。


 蓬の抑揚の無い単調な声が反響していて聴き取りづらい。


 胸の前に抱えたリュックは所々ナイロンの生地が熱で溶けてしまっているが無事だった。仙道の札にも問題は無いだろう。


 脳も再び活動を始め、状況の整理が急ピッチで進められる。

 数秒の間に起きた一連の出来事を振り返り結果を読み解いていく。


 一つの疑問が浮かび上がり、解決されないまま取り残される。歯に挟まった異物のように、どうにも見過ごせない違和感となり、いずれは不快感となって栞を苛むのだ。


「どうして弁慶が動けたか不思議ですか。ですかぁ?」


 蓬が栞の考えを見透かしたように、薄笑いを浮かべながら言葉を投げかける。


 癪だが栞の抱く疑問は正にそれだった。


 栞の仕掛けた罠は思惑通りに弁慶の動きを封じることに成功した。


 自分の目で見て確かめたのだから間違い無い――はずなのだ。

 だが栞が蓬へと標的を変え、一心不乱に駆けていたその僅かな間に、弁慶は拘束から逃れ、栞の命を断とうと刃を振るっていた。


「そもそもどうして弁慶を抑えられると思ったんですかね。かねぇ? 歴史に名を残す程の英傑が、栞お嬢様の未熟な道術なんかに負けるわけないでしょ。でしょぉ。自惚れすぎですよ。ですよぉ」


 栞の顔が急に熱を帯びて、体からは血だけでなく大量の汗が噴き出る。


 感覚を支配していた痛みは何処かへ吹き飛び、止め処ない羞恥心が山火事の如く瞬く間に広がり、栞の心を詰るように侵略していく。


 自惚れ――蓬の言う通りだった。


 どうしてあの弁慶を自分の道術が抑えられると本気で思っていたんだろうか。


 時間を費やし、懸命に、真剣に道術の腕を磨いてきた。それはそう迷うことなく断言できる。だが自分自身が日々感じてきた成長は所詮個人の感覚、尺度でしかないのだ。


 自信はきっと必要だ。

 自信を身につけることで実戦において、より練習に近い力を発揮できるだろう。実戦経験を積み、結果を重ねていけばやがて自信は確信に変わる。


 自分の内側で世界を深く掘り下げ、自分以外の世界を知ることで自分の世界の幅が広がる。

 おそらく技術の追求はそんなことの繰り返しでもあるのだろう。


 しかし栞の世界は結果を出す前に自信だけをたらふく喰らい、肥え太った自信は過信へと変わり、産み出された自惚れは判断を誤らせ、結果栞の命を脅かした。


 弁慶の能力を測れるだけの尺度を栞は持ち合わせてはいなかったのだ。


「弁慶を誘い込もうとしているのはわかったんで、何を企んでんのかと思えば、実にくだらなかったですね。ですねぇ。わざと罠にかかり油断させておいて後ろからスパッと首を飛ばせれば楽だったんですけどね。けどねぇ」


 栞は自らの愚かしさに絶句して言葉が出てこない。鼻に血が詰まり上手く呼吸が出来ず息苦しい。


「いかに無謀な闘いかが解ったでしょう。でしょぉ? さあ仙道の札を渡してくださいよ。さいよぉ」


 蓬はいかにも眠そうな声色で降伏を要求すると、大きな口を開けて欠伸をする。


 満身創痍の身体をぶら下げる栞はしかし、羞恥に満ちた心の最奥で燻る炎が一つ、揺らぐ事もなくその熱量を保っていることを理解している。


「渡さない……。仙道の札は絶対に渡さない!」


 夢を追う覚悟だけが栞の持つ唯一の力である。


 惨めでも憐れでも見苦しくても泥臭くても追い縋ってでも喰らいついてでも手離せないたった一つの唯一無二の武器だ。


「そうかよぉ。かよぉ。はあ。じゃあ死んでくださいよ。さいよぉ。弁慶」


 どこか憐れむように、しかし汚い物でも見るように、憐憫の表情で栞を見下ろす蓬は溜息を吐きながら弁慶に命じる。


 若くしてその才能を認められ、第一線を走る蓬には、地面を這いつくばり惨めな姿を晒してまで抵抗する栞の覚悟は、退き際を見失った頑固で見苦しい意地でしかなかった。


 左手をついて上半身だけを起こした状態で地を這う栞の前に、巨躯の死神が鎌ではなく薙刀を持って立ち塞がる。

 頭巾で覆われた弁慶の顔には影がかかり、やはりその瞳を見ることは叶わない。


 弁慶の持つ薙刀を象徴する銀色の刃を、栞の血で汚したくはない。それだけは絶対にしてはならないと栞は強く思う。


 煌く銀色が赤黒く染まってしまえば弁慶はきっと悲しむだろう。


 栞にとって弁慶と過ごした思い出は揺るぎなく、疑う余地の無い――本音を言えば疑いたくない、信じたい、壊れてほしくない、失いたくない大切な宝物なのだ。


 弁慶が薙刀を振り上げる。


 どうにかして逃げなければ。


 栞はボロボロの身体に鞭を打つ。軋む。左手を前につく。左手に力を込めて身体を引き摺る。重い。数ミリずつしか進んでいないと錯覚する程に鈍い。熱い。進んで。進んで。弁慶の腕に力が込められる。間に合わない。


 空が撓み幕が強度の限界を超え世界が割れた。


 ガラスの破片が舞い散るように透明な幕が降り注ぐ。

 朝日を乱反射して七色の光が不規則な煌めきを創り出し、状況にそぐわぬ幻想的な景色を魅せる。


 栞の張った結界が瓦解して雨となって降り注ぎ、雨は光を吸い込み、やがて七色の虹を連れてくる。


 突然のことにグランドに流れる空気が止まり、困惑が場にいる人間を縛りつけて離さなかった。


 何が起こったのだろうか。


 結界が壊れた事実を栞の視覚では確認しているのだが、思考が理解できていない。

 道術を修めていない者には認識すら許されない、異空間とも呼べるこの場所を認知した者が存在するとでもいうのだろうか。


 頭の重みすらが苦痛に感じられる首を、なんとか後方へ回した栞の視界に存在する筈のない、あまりにも予想外の人物がゆっくりと歩を進めてこちらへやって来る。


 いつのまに切れていたのか。

 栞の額から流れた血液が瞼を伝い、目尻から頬に向かってゆっくりと一筋の紅い線を描いた。


「先輩……――」


「よお、さっきぶりだな二王頭」


 能天気に飄々と、朝の散歩の途中に立ち寄ったとでも言う風に、天竜 宗馬は歩きながら軽く右手を上げ栞に挨拶をする。


 挨拶を済ますと両手をポケットに仕舞い、歩調を一切変えることなく歩いてくる。


 つり上がった目は相手を萎縮させるような冷たい印象を何処かへ置き忘れて来たのか、相変わらず気の抜けたような緊張感の無さを纏っている。


 宗馬は少し離れた所で立ち止まると、状況を読み解くように首を巡らした。

 弁慶と蓬を見やると最後に栞を見つめる。栞の視線と宗馬の視線が重なる。一呼吸程の僅かな時間が過ぎる。


「どうして――?」


 ようやく栞が疑問の言葉を絞り出す。栞の瞳を真っ直ぐに見つめたまま宗馬が小さく微笑んだ。


「お前を助けに来た」


 地面に散らばった結界の欠片は道術の影響を失い、透明な微粒子となって舞い上がり、空気の中へ溶けていく。

 七色の霞があまりにも綺麗で、色鮮やかな光は痛い程に眩しい。


 栞の視界が滲んでいるのもきっと、そのせいに違いないのだ。

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