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鬼は死して尚、修羅を生く  作者: 夢現
第一章 明日の事を言えば鬼が笑う
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第一章08 『馳せよ乙女』

 名家にとって後継者となる男子の嫡男の誕生は課せられた使命のようであり、ある意味呪いのような効力を持つことがある。

 途方も無い年月を超え脈々と受け継がれてきた歴史と伝統があればこそ、より強固に縛られてしまう呪縛だ。


 二王頭家本家の一人娘である栞が名家のしがらみを意識し始めたのは存外遅く、小学校の高学年になってからだった。

 栞が元来おっとりとして、あまり細事を気に留めない性格であったことも一因だが、両親が務めて大人の焦燥を箱入り娘から遠ざけていたことが大きい。

 また朗らかに、自由奔放に育てることを方針に掲げた教育がそれを後押ししたのかもしれない。


 そんな和やかな両親の下、伸び伸びと育った栞は、道士としての修行もその方針に習い、同年代の親戚の子供に比べると幾分気ままに行なっていた。


 ある時、本家と分家の子供達が一堂に会し、合同の修行を行う機会が設けられた。


 そこでの経験は栞に衝撃を与え、同時に初めての挫折を味わわせた。


 あまりの実力の差に栞は只只困惑した。


 だが今に思えばそれも当然だった。

 皆二王頭家の道士としての誇りと重圧を幼い頃から自覚し、道術の鍛錬に心血を注いでいるのだ。気が向いた時にお遊び感覚で行っていた自分のごっことは訳が違う。


 マイペースで少し抜けたところのある性格も災いし、気が付けば栞には落ちこぼれのレッテルが貼られてしまっていた。


 落ちこぼれという言葉は初めて聞いたはずなのに、栞を見る周囲の視線がその意味を教え、栞の心を傷付け萎縮させた。


 泣いた。悲しくて、悔しくて、惨めたらしくて泣いた。

 いつもは慰めて欲しくて、構って欲しくて大声で泣き喚く栞が、その日は誰にも気付かれないようにこっそりと、ひっそりと泣いた。


 栞は道術の修行に身を入れて励むようになった。


 父も母も何も言わなかった。何も言わずに見守っていた。


 分家の(よもぎ)という者が才に溢れその頭角を現していると噂に聞いた。本家の跡取りを蓬に任せるべきだという声も聞こえてきた。


 栞は嫌だった。


 大好きな父の後を継ぎたいと思っていたし、大好きな弁慶を奪われるのも栞は嫌だった。

 女だから、落ちこぼれだからという理由で諦めたくはなかった。


 栞は最も優れた道士になると決めた。


 そして仙人になり、大倭仙人会の長、大仙人になることを決意したのだ。


 由緒ある大倭仙人会を一手に束ねるのが大仙人と呼ばれる者だ。

 その下に四仙人と呼ばれる四人の仙人が連なり、更にその下には現在十三人の仙人が控えている。

 ここまでが仙人会となり、その名の通り仙人達の組織である。


 仙人会の下部組織に位置づけられるのが道士会であり、栞達数多くの道士が所属している。

 道士会にも道士長という組織のトップがおり、道士連長、道士連部会長、道士支部長、道士班長と続き、最後に一般の道士達がその名を連ねる。


 道士は道術を使うが、仙人が使うのは仙術である。仙道と呼ばれる修行を乗り越えた者のみに与えられる力であり、道術とは比べ物にならない強大な神通力を行使することが可能となる。


 二十年に一度、仙道の修行を受ける資格を得るための道士の選抜が行われる。


 全ての道士が参加できるわけではなく、仙道の札と呼ばれる特殊な札を三枚持つ者のみが選抜に参加が可能になる。


 歴代の大仙人が受け継いできたという仙杖が、有資格者を自動的に選別し、仙人会で飼育されている鳩達が資格を持つ者達へ仙道の札を一枚ずつ届けるのだ。


 道士達は仙道の札を三枚手に入れる為互いに仙道の札を奪い合う。


 尚、最初に仙道の札を与えられなかった道士達にも参加権利は有り、仙道の札を持つ者からそれを奪い、三枚集めることが出来れば仙道を受けることが可能になる。


 毎回配布される仙道の札の枚数は異なる。その数は非公開であり、把握しているのは大仙人のみである。


 選抜終了の合図でもある三度目の鐘が鳴った時、最終的に札を三枚手にしていた者が仙道への通行手形を得るのだ。



 一週間前、栞の父であり二王頭家当主、また道士連部会長であった二王頭創の元に仙道の札が届いた。


 創は今回の道士選抜に並々ならぬ覚悟を持って臨もうとしていたようだった。

 栞の目から見ても、いつもの柔和な父親の纏う空気感に緊張感が漂っているのを感じていた。


 札の届いた日から二日後、創は所属する部会の会合へ向かう為、弁慶を伴って家を出た。


 創を乗せた車は目的地へと向かう道中事故に遭い、栞の父はそのまま帰らぬ人となった。

 一緒に乗っていたはずの弁慶の行方はわからず、その安否も不明であった。


 創の死が発覚したのが遅い時間帯だったため、葬儀は一日空けた二日後に行われた。


 黒。白。黒。白。黒。白。


 鯨幕。喪服。線香の煙。世界から色彩がまるっきり失われてしまったように、栞の瞳に映る景色は無機質な二色で完結していた。


 見慣れたはずの我が家は、まるで初めて訪れる場所のように落ち着かない。


 モノクロームで良かった。今は色があっても、きっと煩わしいだけだ。


 親戚一同が次次と弔問に訪れるなか、創の弟である蜂楽(ほうらく)とその嫡男蓬だけが一向に現れなかった。


 葬儀終わりの会食の席で、そのことが問題になった。


 当然、実の兄に不幸があったというのに、葬儀に顔も出さないとはなんという不義理者か、という道徳的な観点からの義憤の声もあった。


 しかし一番に問題視されたのは、二王頭本家の跡取りをどうするか、という実に由緒ある名家らしい事柄についてだった。


 というのも、跡取りを正式に決定する際には、分家を代表する分家当主の承諾が必要であり、現在分家当主の座には、創の弟である蜂楽が就いているというわけである。


 会食の席は混乱が渦巻いていた。

 跡取りは早早に決めなければならない。しかし決定権を持つ者が不在である。


 酒が入ったせいなのか、やんややんやと大人たちの口喧嘩が始まった。


 そうすると、勢力の二極化が明らかになった。

 本家当主であった故二王頭創の実子栞を支持する者達。それから分家現当主である蜂楽の嫡男蓬を支持する者達であった。


 口撃は次第に過熱していった。


 お互いがお互いに、相手の支持する候補者の悪口を言い合う。醜悪で下劣で幼稚な言葉の応酬は止む気配がなかった。


 当事者の一人である栞は、ただ無言で座っていた。


 目の前で飛び交う自分に対しての罵詈雑言、その全てがどうでもよかった。

 栞の鼓膜を振動させる音ではあったのだろうが、心に訴えかけるための言葉としては機能していなかった。


 この人達は何をしに来たのだろう。何のために集まっているのだろう。


 お父様を弔いに来たんじゃないの。お父様に最後のお別れをしに集まってくれたんじゃないの。

 なのに誰もお父様の死を悲しんでなんかいない。お父様のことを想ってくれてすらいない。


 いくら自分の悪口を言われたって、そんなことどうでもいい。栞のことも、蓬のことも、跡取りのことも、どうだっていいんだ。


 栞の心はぽっかりと穴が空いてしまったように、なんだか寒寒しかった。


 栞は悲しめないでいた。虚しい。ひたすらに虚しくて、ひたすらに恥ずかしかった。


 誇らしく思っていた二王頭の名が、この時は恥ずかしくて堪らなかったのだ。


 栞の母(つむぎ)は栞に、自分の部屋に行くように勧めてくれたが、移動が面倒だったから残った。

 大好物だったはずの鮪の赤身の照らつきが、なんだか無性に気味が悪くて手をつけることが出来なかった。


 会もお開きかという頃に、蜂楽からの連絡が入った。


 しかしその内容は——

『後日、跡取りを決める会議を開かせて頂きます。日時は追ってご連絡致します』


 というあまりにも簡潔過ぎるものだった。葬儀を欠席したことへの弁明も一切ない。事務的に淡淡と自分勝手な都合を押し付けるだけの連絡。


 とはいえ一応の方針が決まり、会はお開きとなった。


 突然の不幸に見舞われた栞と紡は、葬儀の準備やら親戚への応対やらに追われ息つく暇も無い時間を過ごした。


 慌ただしい時間は懸命に過ごすとあっという間に過ぎ去り、栞と紡の二人だけの時間が始まった。

 住人が一人居なくなっただけで、家の中は何倍も広くなったように感じられ、静けさが心を騒がせた。


 紡は悲しい顔を微塵も見せず、栞の前では常に笑顔を見せていた。「心配しなくても大丈夫だからね」と栞を安心させるように笑い、気丈に振る舞う姿は母親の気高さを栞に教えた。


 葬儀のあった日の夜中、創の仏壇の前で泣き崩れる紡の、嗚咽混じりの声を栞は聴いた。


 栞は襖の裏側で廊下に座り込むと、膝を抱えながら母の傷みを視た。

 すると母の涙につられるように栞の眼からも堰を切ったように大粒の涙がとめどなく溢れだした。


 鼻の奥がツンと痛み、呼吸のリズムがわからなくなる。


 創との思い出が次から次へと栞の瞼の裏側に溜まっていき、大粒の涙となって溢れてくる。


 心を置いてけぼりにして動いていた身体に、悲しみが追いついてきた。ようやく追いついて全身を満たして、それでもやっぱり溢れてしまって。止め処なくて。


 きっとそれでいいんだ。


 お母様も。

 声を出さないように、お母様がちゃんと心を吐き出せるように。


 背中合わせの涙は夜の闇に吸い込まれ、零れ落ちた雫の数だけ星となって、闇夜を照らす光になる。


 紡が栞に微笑んでくれる度に、栞も「心配しなくて大丈夫だよ」と言ってあげたくて、でもその言葉で合ってるのかわからなくて、何かしてあげたくて、結局何も思いつかなくて笑い返した。


 笑った後にこれで良かったんだと、そう思った。


 葬儀の翌日。

 灰色の空と冷たい空気が冬の到来の近いことを知らせてくれているようなそんな昼間だった。


 創の部屋を掃除しながら遺品の整理をしていた栞は、文机の引き出しに入っていた仙道の札を見つけた。


 どうしてこんな所にあるのか、困惑が栞の思考を支配して、不変である時の流れが止まってしまったように全身の機能が停止した。


 ふと気が付くといつのまにか栞の右手には札が握られていた。無に等しい重みを右手に感じた途端に栞の中で覚悟が決まった。


 ――私がお父様の代わりに道士選抜に参加する!


 栞が過酷な道のりを歩く覚悟を固めた翌日、予期せぬ来訪者が訪れた。

 

「お初にお眼にかかります、栞お嬢様。俺は二王頭分家当主二王頭蜂楽(におうずほうらく)が嫡男、二王頭蓬と申しますぜ。ますぜぇ」


 学校から帰り制服のままだった栞が呼び鈴の音に気付き玄関の引き戸を開けると、波打つ長髪を中心で分け、黒いモッズコートで身を包んだ長身の男が玄関の前に立っていた。

 くぐもった声は抑揚を失い、気怠げな調子は興味や関心とは無縁の停滞だった。


 しかし蓬という名前は栞の関心をひいた。

 二王頭家一の道士の呼び声高く、その名声は家を超え道士達の間でも広まりつつあった。


 栞は蓬の背後にもう一つ人影があることに気付き、その存在を確認しようと視線を動かした。と同時に感情の全部が凍りつき、衝撃に砕かれてしまって、何も考えられなくなってしまった。


「弁慶……どうして――」


 白い頭巾で顔を覆った巨躯の男、創の殭屍であった弁慶の姿がそこに在った。

 その瞳は感情を失ったように黒一色に塗り潰され、只只宙を見つめている。


 どうにか絞り出した声は果たして言葉になっていたのか、栞にも判らなかった。いや、栞には何も解らなかった。

 どうして蓬と名乗った男の隣に行方の分からなくなっていた弁慶が立っているのか。

 

「栞ちゃんどうかしたの?」


 怪訝そうな顔をした紡が心配して様子を見に来たようだ。


 紡の姿を確認した蓬はその口角を歪ませ、不気味に笑った。


「奥さん、丁度良かったですぜ。ですぜぇ。これからは本家の当主の座はこの俺、蓬が務めることになりましたんで。たんでぇ」


「!? 一体何を言って――」


 前触れも無く訪れた嵐は無遠慮に、乱暴に掻き乱し荒らしていく。


 栞も紡も理解が追い付かず、無防備に困惑し、狼狽えた心を晒す。


「推薦状もここにありますぜ。ますぜぇ。ちゃんと先代の創さんの署名も実印も押してありますからね。からねぇ」


「お父様がそんなもの書くわけありません! そもそも、跡取りを決める会議を後日開くと言っていたのはあなたのお父様です!」


 栞はそんなことを信じられる訳もなく、必死に食い下がる。


 蓬は面倒臭そうな態度を隠すこともなく、頭をポリポリと掻くと小さく溜息を吐く。


「勿論正式に決定するのは会議の時ですがね。がねぇ。消化試合みたいなもんでしょ。でしょぉ。なんならこっちはお宅のお父様が目の前でサインするとこを見てるんですがね。がねぇ。まぁ事実が変わる訳でもなし、どうでもいいんですけどね。けどねぇ」


「お父様が!?」


 俄には信じられない話の連続に栞の思考は今までに類を見ない程に混乱し、なんとか理解を追い付かせようと試みるが、全くもって上手くいかない。


「そんなことよりも、ここに来た本題は別にあるんですぜ。ですぜぇ。創さんに届いた仙道の札をこちらに渡してもらいましょうか。しょうかぁ」


「!? どうして――」


 何故父に仙道の札が届いたことをこの男が知っているのか、それも父本人から聞いたとでも言うのか。


「おや、その反応は仙道の札がどこにあるのか知ってますね。ますねぇ。大人しく渡さないと痛い目みますぜ。ますぜぇ。弁慶っ!」


 無言のまま弁慶は一歩前に出ると、虚ろな瞳を栞に向ける。そこに栞の知る弁慶の面影は微塵も無い。


「弁慶……どうして」


 判らない。解らない。目と鼻の間を針でつつかれたように痛い。心臓の更に奥の方が締め付けられたように痛い。目の奥が熱い。


 弁慶の大きな掌が視界いっぱいに広がる。掌の輪郭がぼやけて滲んできた。


 突然赤い塊が弁慶にぶつかり大きな音と共に爆ぜた。


 熱風が栞の肌を撫で、赤や黄色の光が四方八方に飛び散った。炎の玉が弁慶に襲いかかったのだ。


「栞ちゃん! 今のうちに札を持って逃げて!」


「お母様!?」


 紡は栞の腕を引くと自らの背後へ引き寄せ、栞を庇うように弁慶との間に立ちはだかる。


 先程の炎は紡が放った道術だったのだ。


 弁慶は何事も無かったかのようにのそりと体を動かすと紡のほうへ首を傾けた。


「邪魔しないでくれませんかね。かねぇ。 奥さんあんたに用は無いんですよ。ですよぉ」


「栞ちゃん! 早くっ!」


「でもっ、お母様は!?」


 栞からは紡の表情を見ることは出来ない。しかしその後姿は力強い意志と、悲愴な覚悟によって体の表面を淡く光らせているように見えた。

 娘を守ろうとする懸命な母の強さは気高く美しい。だがその美しさは哀しくて、痛い。


 栞が決断を下せないまま紡の華奢な背中に瞳の役割総てを注いでいると、振り向いた紡の熱量を帯びた眼差しが栞を射抜いた。


「栞ちゃん。大仙人になるんでしょ? 心配しなくても大丈夫だよ。栞ちゃんならできるよ。だから、行って!」


 紡はやはり笑った。栞を落ち着かせるように、包み込むように。

 慈愛に満ちた母の微笑みに包み込まれ、寄り添うような温もりは栞の凍りついた心を優しく溶かしていく。


 いつも自分は守られてばかりで、母の強さに寄りかかり甘えてきた。そんな自分を変えたくて、母のように誰かを守れるくらい強くなりたくて。


 自分でも気付かぬうちに強く握られていた拳は、視えない何かを決して離すまいとする意志の塊だった。


 気持ちを、想いを返したい。だけどそれは今は持ってないもので、未来の結果で返すものだから。


 瞳の奥で燃え盛る焔は、歩き出す為の熱量になる。栞は紡の笑顔を真っ直ぐに見返す。言葉は必要ない。


 栞は笑った。


 栞は迷いを捨て去り走り出した。

 背後で再び炎が爆ぜたような大きな音が鳴り、栞の影を前に伸ばした。


 脚が絡まり派手に転ぶ。


 足から片方の靴が飛び、栞はローファーを履いたままだったことに今更思い当たる。脱げた片方を素早く手に掴むと、片手に靴の重みを感じながら気にせずそのまま走る。


 栞は創の書斎に走り込み、文机の引き出しから仙道の札を取り出す。

 一瞬に満たない一瞬札を見つめると、またすぐに走り出す。


 古い日本家屋特有の急な階段を、手も使いながら一気に駆け上がる。


 階段を上がったすぐ横、自分の部屋の襖を勢いよく開けて中へ飛び込むと、長年愛用しているリュックを手に取る。

 そのチャックを開け毎日書き溜めた札の中から一枚を残し、それ以外の全ての札が入ったホルダーと仙道の札をリュックの中へと詰め込む。


 他は何も持たなかった。


 慌てていたからか、時間が無かったからか、どちらもその通りだが、どちらも違った。


 道術以外の何もかもが、今の栞には重荷になるような気がした。

 大事なものを選び取るのだ。

 不器用な自分には全てを平等に大切にできるとは到底思えなかったから。


 リュックを大事に胸の前に抱えると、右手に残していた一枚の札を掴む。


 部屋の窓を開けた栞は窓から頭を出して下を覗き込んだ。


 想像したよりも高い。地面が遠い。怖い、そして恐い。


 二階ってこんなに高かったっけ、と若干脇に汗が滲んだような気がした栞だが、乙女の恥じらいすらも今は邪魔くさいだけだ。


 女は度胸と割り切って覚悟を決める。


 脱げていた片方のローファーを履き直す。


 窓のサッシに足を掛け、身を乗り出すと、勢いよく空中へ飛び出した。


 風が全身を包み込み、置き場を失った重みが新しい拠り所を求めるように落下を始める。


 臓物が浮き上がるような奇妙な感覚が栞を襲う。


 その間も重力に押され、栞の体は地面へと一直線に落ちていく。


 栞は歯を喰いしばると左手で印を結ぶ。結び終えるとすぐに右手にもった札を地面に投げつける。


 札が栞を追い越し地面にぶつかると、強力な風の渦が巻き上がり、栞の体を地面に衝突する寸前のところで持ち上げる。


 制服のスカートがめくれ上がりそうになるのを栞の両手が慌てて押さえる。


 乙女の恥じらいは置いてきたつもりだったが、本人の意思とは関係無く次から次へと滲み出てきてしまうのだから致し方ない。


 音も無くふわりと着地する。靴を履いていて良かった。


 二階の自分の部屋の中から何かが倒れたような大きな物音がした。


 あんまり散らかさないで欲しい、とこんな非常事態にもかかわらずそんなことを考えている自分が可笑しかった。


 最後に見た紡の笑顔が頭を過ぎる。だが迷いは微塵も無い。


 栞は全力で走り出す。


 ここで振り返ることは母の覚悟を疑うことのような気がするから。今は全力で走る。


 走った、走った、走った。


 道術を使い氣の残滓を残し、道を戻り別の道を行く。

 少しでも撹乱し時間を稼げればと、思い付いたことはなんでも実行した。札の消費は手痛いが、栞にはどうしても時間が必要だった。


 栞には道士にとって重要な資質である殭屍の存在が欠けていた。

 道士同士の戦闘は基本的に殭屍が前線に立ち、術者は後方でそのサポートに当たるからだ。


 幼い頃から栞はいずれ弁慶が自分の殭屍として側に居てくれるものだとなんとなく想像していた。


 しかし弁慶は蓬の殭屍として栞の前に現れた。


 その経緯は栞にはわからないが、道士と殭屍の主従関係は絶対であり、そこに感情の入り込む余地はない。

 事実創からもそう教わったのだが、栞がそう思いたいのだと自分自身で理解していた。


 栞は蓬を超えなければならない。


 落ちこぼれと言われた道士が一族一の道士を負かす大逆転劇を演じなければならないのだ。


 そうでなければ、弁慶を救えない。母の覚悟に応えられない。父の無念を晴らすことができない。夢を叶えることができない。


 広大な砂漠の中から、淡く光る一粒を見つけ出すように、栞と共に闘ってくれる心強い味方を探し出す。出来なければこの窮地に活路を見出すことは到底叶わない。


 夜の街を当てもなく探し回った。探し回った。探し回った。

 そして見事――。


 ゴミ箱にはまった。

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