第一章04 『五メートル』
夜の世界にも神がいるのならば、それはきっと女神だ。
空に浮かび半円を描く月は、乙女の長く艶やかな黒髪を優しく撫ぜる櫛であり、はたまた結い上げた髪を華やかに飾り立てる簪でもある。
都会の明かりで染め上げた豪奢な着物を纏い、煙管を燻らせて、真っ赤な紅を引いた唇から白い煙を吐き出すのだ。
着物を魅せる模様と模様の隙間。
弱弱しい灯だけが頼りの狭い裏路地。
そんな都会の片隅での出逢いがいかにインパクトの強烈なものであったとしても、それに大した理由など有るはずもなく、全ては暇を持て余した女神の気まぐれでしかないのだろう。
宗馬は暗闇に目を凝らし対峙する物体を観察する。
それは飲食店の裏側でよく見かける業務用サイズの青いゴミ箱だった。
ただ一つ異様な点はその最上部、口の部分から二股の長い舌のような人間の足が伸びていること。
紺色のスカートから膝を下向きに白い足がぶら下がる。膝下丈の黒ソックスに茶色いローファーを履いている。
服装の情報からどうやら女子学生がゴミ箱に頭から突っ込んでいるらしいと判る。
――いや、何も解んないけどっ!
「だ……大丈夫か?」
宗馬は恐る恐る少女であると思われる(女子学生ファッションを愛用する個性派紳士でないことを祈る)青い物体に話しかけてみる。
「………」
「………」
「どなたかは存じませんがお気遣いなく」
暫くの沈黙の後、どこか愛嬌を感じさせる少女の声がゴミ箱の中から凛とした口調で答えた。
「そうなのか? 言ってくれれば手ぇ貸すぞ?」
「お気遣いありがとうございます。ですが通りすがりの見知らぬ人のお手を煩わせるわけにはいきませんから」
――それに私はこの程度の困難に躓いてるわけにはいかない。
囁くように発した最後の言葉は宗馬の耳には届かない。それは己の中にある覚悟を確かめるための言葉であり、気持ちを奮い立たせるための合図であった。
言霊を紡いだ少女の両脚に力が漲る。
意志の熱を敏感に感じ取った宗馬も少女の孤独な闘いをおとなしく見守る構えだ。
「そりゃあぁぁぁ!」
気迫のこもった掛け声とともに少女は足をバタバタと振り始める。
どうやらゴミ箱を横に倒して脱出をする作戦らしい。白く細い脚が空を切る。
徐徐にその速度は増していき、空中に描かれる不規則な線は縦横無尽に走り回る。
激しくなる脚の動きに合わせて腰に巻いた紺色のスカートの裾も宙を舞い始める。
蝶が舞うようにヒラヒラと優雅に揺れる。太腿が露わになる。更なる高みへと昇るため蝶は羽根を動かし続ける。神秘の曲線を描く太腿がその全体像を覗かせようとする。
「ちょっと待てっ……それ以上脚を振るとパン……――」
「っっ!」
――あ……白。
急なブレーキがかかって脚がビタリと止まる。少女の履くスカートだけがスロー再生されたようにゆっくりと腰に着地した。
「……見ました?」
さっきまであった愛嬌は消え失せ、低くなった声にはなんとも言えない凄みが宿っている。
凄まじい程の圧力を持った言葉は、罪の是非を問い質す正義の刃となり、宗馬の首筋にその刀身を添える。
宗馬の頬を冷たい汗が伝う。
「……いやぁ、ほら。暗かったし一瞬のことだったしな」
「そうですか、良かった。何色でした?」
「白……あっ」
「しっかりちゃっかり見てるじゃないですか! 舐め回すように凝視してるじゃないですか! 汚されました、凌辱されました! 妊娠させられました!」
「いや、何言ってんだお前っ! てか、誤解を招くようなことを叫ぶんじゃねぇ!」
「痴漢……ひっぐ……レイプ、魔ぁ……いっぐ……ばかぁ……んくっ……あほぉ」
「いい加減やめっ……て、えぇぇぇ!?」
宗馬を糾弾していた声が突然弱弱しくなり、言葉と言葉の間に嗚咽が混ざり始める。
「お前泣いてんの?」
「泣いてなんがいまぜんよっ! ズビッ」
「わかったよ、俺が悪かった! 今出してやっから待ってろ!」
真っ直ぐに焼肉屋へと向かっていれば、こんな訳の分からない事態に巻き込まれずに済んでいたであろうに。自分はどうして道を引き返してしまったのかと、若干の後悔を抱きつつ宗馬は少女を救出する為ゴミ箱へと近づく。
上から眺めてみれば成る程、ゴミ箱の中でゴミ袋とゴミ袋の間に少女が逆さまに突き刺さりジャストフィットしている。
幸いにと言うべきか、集めたゴミ袋を集約するための容器だったようで、ダイレクトに生ゴミへダイブするという大惨事は免れている。
「じゃあ、引っこ抜くぞ」
宗馬は少女の腹の下へ右腕を差し入れ、左手と両脚を使い少女を生け捕りにする捕食者を抑えこむ。
「死体は見づがらないじっ。グズっ……。逃げてだら足を滑らせで落っごちてゴミ箱にはまるじ。ズズ……。ぞのうえ通りすがりの知らない男のびとにパンツ見られるじ。ズビ……。だがらって、わたじはそんなことで泣いだりじまぜんよっ」
さっきからブツブツと少女が何やら呟いているが、宗馬は聞こえないフリをして自分のやるべき作業に集中する。
触れてみれば少女の身体は繊細な氷細工のようで、力の加減を少しでも間違えればたちまち砕け散ってしまいそうだ。
宗馬は恐る恐る突き刺さった身体を引き抜く。
「……ありがどう、ござびまず……」
そこには髪の毛を四方八方に跳ねさせ、顔面を涙と鼻水とでぐちゃぐちゃにした悲惨な乙女の姿があった。
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「落ち着いたか?」
「……はい、ありがとうございます」
先程、宗馬が少女を救出した路地裏から少し歩いた所、都会の真ん中に一人置き去りにされたような小さな公園に二人はいた。
お世辞にも広いとは言えないこじんまりとした公園なのだが、無機質な灰色のビル郡に囲まれているためか妙な存在感を持っている。
交差点の一角に置かれた公園はL字のニ辺には歩道が隣接し、対角のニ辺はビルと隣り合っている。
殺風景な敷地には申し訳程度に滑り台が設置されているが他に遊具は無く、休憩用のベンチが二脚に水場が一つ。
宗馬は数少ない設備の一つであるベンチに腰掛けている。
持っていたタオルを水場で軽く濡らしてから少女に貸してやり、少女が顔の表面でカピカピになった色んな液体を拭ったのがつい数分前のこと。
「そんな離れてると顔も見えねぇし話しづらいんだが」
ベンチに座る宗馬とそこから少なくとも五メートルは距離を置いたところで立ったままの少女。
その微妙な距離感が宗馬には気持ち悪く、それに加えていちいち声を張らなければならないため面倒くさい。
「き……気にしないでください。私はこのくらいのほうがむしろ話し易いというか、はい」
少女は右手で宗馬の貸したタオルを握り、左手で前に抱えたリュックを包み込み、縮こまらせた体をモジモジとさせている。
「じゃあ俺がそっち行くわ」
「こっ来ないでください!」
宗馬が立ち上がろうと両脚に力を入れたその矢先、少女が慌てた様子で一歩後退り、前に押し出した両手を大袈裟に左右に振る。
「……さすがにそこまで拒絶されると凹むぞ。パンツ見ちまったのは悪かったよ」
「違っ、そのことは別にもう怒ってません! 助けてもらったし、タオルまで貸してもらって感謝してますし!」
「? じゃあ何だってんだよ」
「そのぉ、今は近付かれると困ると言いますか。一応私も十五歳の乙女であるわけでありまして」
少女の年齢は十五歳であるらしいので、宗馬の二つ下の学年であることが判明した訳だが、今の二人にとってお互いの年齢などどうでもいいことであった。
一層体をモジモジさせて恥ずかしがる少女の言い分はなんとも歯切れが悪い。一体何が言いたいのかと訝しむ宗馬だったが、やがて一つの理由に思い当たった。
「あー。臭いか」
「えっ!? 私やっぱり臭いますか!? こんなに離れてるのに、そこまで届いてますか!?」
慌てふためきながら自身の体のあちらこちらを嗅いで確認し始める。その動転ぶりに驚かされながら、近づくことも憚られるド変態だと認識されて距離を置かれていたわけではないとわかり安堵する宗馬。
「あれ!? なんか自分ではもうわかんない!? 私、今そんな絶望的に臭いです!?」
「大丈夫! ……そんなにだから」
グッと親指を立てて笑いかけた後で、気まずそうに目を横に逸らしながら小声で言葉を足す。
「その反応一番傷つくんですけど!? ていうか私やっぱり臭いんだぁ」
――あんまりからかってまた泣かれても困るのでこれくらいにしておこう。
「どうしよう。着替え持ってないし」
下唇に右手の親指と人差し指を当ててボソボソと呟きながら考え込む少女。
どうやらそのポーズが物事を思案する時に行う彼女の癖なのだろう。左手は胸の辺りのところで軽く握られている。
――それにしても妙だな。
今の言動はもとより、こんな時間に年頃の少女が一人ウロウロしていること、そして何より帰ろうとする素振りを見せないことだ。
「お前、家出でもしてきたのか?」
「そんなんじゃありません! 家はその、出ては来ましたけど、それは親との仲違いだとかそんな理由ではなくて。私には絶対に成し遂げなぎゃいけないことが……――」
「?」
「何でもありません。とにかく、家には帰れませんけど、家出なんかではありませんから」
言いかけた言葉を飲み込み、強引に言葉を繋ぐ。
離れた二人の距離からは、少女の表情は読み取れないが、その声からは鈍く光る刃のような鋭さと危うさを宗馬に感じさせた。
「いやそれ、状況はどっちも変わらねぇだろ。今夜寝る所とかどうするつもりだったんだよ」
そんなことは今の今まで考えもしなかったのか、勢いよく宗馬の方へ顔を振ったかと思うと、すぐにそれを誤魔化すように右手の手の平を上に少し上げる。
「そ、そんなものはどうにでもなりますよ。人間寝ようと思えばどこでだって寝れますよ。多分、きっと」
多分にきっとを繋げてしまうような覚悟では野宿など到底できまい。ましてや冬もすぐ側に来てひょっこり顔を覗かせている今の時期にその油断は命取りというもの。
シャワーくらいなら漫画喫茶なんかでも浴びられるが、そのことに少女が思い当たっているのか怪しいものだ。それに、シャワーで体を清めても着る服が臭いのでは意味を成さない。
それもコインランドリーへ行って制服を洗えば済む話だが、その間に着る着替えが無いとさっき呟いていた。
着替え一式を買い揃える資金の持ち合わせが果たしてこの少女にあるのか。そもそもこの先生活していくための当てはあるのか。
そんなことをつらつらと考えていた宗馬であったが。
――俺には時間が無えってのに、何でこんな意味のわからないことで頭を悩ませて時間を浪費してんだよ。つうか何より、もう面倒くせぇ。
「とりあえず俺ん家来い」
「……はいぃぃ!?」
一拍停止した後、驚きのあまり素っ頓狂な声を上げる少女。
さっき会ったばかりの男が何の脈絡もなく急にそんな提案をしてきたのだから、当然といえば当然の反応だ。だがそんなことはもう、宗馬にはどうでもいいことだった。
「一旦俺の家に行って風呂入れ。着替えが無いなら貸してやる。そんでその後は何処へ行くなり好きにしろ」
「どうしてそんな結論に!? それにこれ以上関係ない人を巻き込むわけには」
「もう巻き込まれてんだよ。あの時、ゴミ箱にはまったお前を助けた時から、関わり合ってんだよ」
「——!」
宗馬は足を踏み出す。
五メートルの距離を隔てる何層もの透明な壁を無理矢理、強引に突き破って進む。臭いがどうとか、乙女の恥じらいとか、知ったことではないのだ。
逃げ出すことも出来ないまま、徐徐に迫り来る宗馬を只只見つめる少女。
短い時間ながら言葉を交換し合った二人。赤の他人を超え、とうとう向き合う時がきた。それだけの事だ。
宗馬の靴裏が砂つぶを擦る音がしてその足を止めると、二人の距離は夜の闇の中でもお互いの顔を認識できるほどになった。
少女の大きく潤んだ瞳が宗馬を見つけた。
赤みがかった黒の宝石にはそこに映った者を捕え離さない妖艶さがある。
瞳と同じ色の髪の毛が風にそよぐと、夜を照らす弱い光を吸い込み、黒色の中の赤色を際立たせてキラキラと輝いている。
「だからもう、諦めろ」
――諦めろ、か。
諦め切れない自分への言葉なのか。わからない。ただそうだと言うならなんとも滑稽な話だ。
遠くの方で誰かの笑い声が響いていた。