第二章03 『菱形の地獄』
薄暗い空間をオレンジ色の光が灯す作業場は、夕暮れの空のようにどこか寂しげだ。
過ぎゆく時間と終わりゆく一日を憂いてか、それともこれから空を侵食していく夜への恐れからか。終わりと始まりの境界が曖昧な、郷愁や安堵とともに焦燥や不安を連れ立ってやってくるような、そんな不確かな情景に似ている。
上半身裸になった宗馬が部屋の中央に置かれた手術台の上に寝転がると、クロエはすぐに綿入れの施術の準備に入った。
栞は少し離れた場所からその様子を怖怖と見守っている。
なかなかのスプラッタな惨状が予想されることから、宗馬は手術台を扉側に寄せて(宗馬と栞は十メートル以上離れることができない為)栞に扉の外で待つように勧めたのだが、栞が残ることを希望したのだった。
「たしかに私には何も出来ることはないですけど、せめて見守りたいんです。先輩と私はもう一連托生ですから、私も先輩と同じ瞬間を共有したいんです。それは楽しいことや嬉しいことだけじゃなくて、辛くて苦しい瞬間もです」
宗馬の横に立ったクロエの手には黒いベルトが握られている。
光沢のある皮で作られたベルトは太く頑丈そうだ。
「暴れなぃように、これで体を固定する」
腹綿入れの施術は死ぬほど痛い、とクロエは言っていた。当たり前だが冗談ではなく本当のことだったようだ。
宗馬は武術をやっている為、痛みに慣れてはいるのかもしれないが、それは痛みに強いというわけではない。
宗馬自身がクロエの腕を信じると決めた以上、施術が成功するかどうかについて心配や不安はないが、やはり多少の緊張感はある。
とはいえ、宗馬も弱冠十七歳ながら武術家として数々の修羅場をくぐってきている。そんじょそこらの男よりは断然その肝は据わっているのだ。宗馬の中ではとっくのとうに覚悟は決まっていた。
宗馬は無言で頷いた。
クロエは宗馬のそんな心境を知ってか知らずか、表情に一切の変化も見せないまま、淡淡と黙黙と宗馬の体と手術台とを黒いベルトで固定していく。
固定し終わると一度手術台から離れ、すぐに車輪の付いた台を二台転がしながら戻ってきた。
車輪の付いた四角い土台の角それぞれから、四本の細い銀の棒が伸び、その先端に長方形の銀のトレイが付いている。
片方のトレイの中には施術に使う道具が何種類も入っていて、運んでくる時の振動でカチャカチャと音を立てていた。
もう一台のトレイには何も乗せられておらず、銀特有の光沢に蝋燭の淡い光が反射して、白銀や橙や黒が複雑な色彩を作り出している。
再び宗馬の横に立ったクロエの口元はいつのまにかマスクで隠れていて、金色に輝く前髪と真っ白なマスクの間で、大きな碧い瞳がより一層その存在感を強めている。
両手を医療用のゴム手袋の中へと押し込みながら、クロエは宗馬を見下ろした。すると口元を覆ったマスクの繊維と繊維の隙間からクロエのか細い声が漏れ聞こえてきた。
「じゃあ、始める」
端的すぎる宣言をし終えたクロエは、手術で使われるメスに似た銀の刃物を、トレイの中から選び取り右手に握った。
銀の刃は鋭そうな見た目とは裏腹に、部屋中に散りばめられた灯りを反射して、鈍い輝きをはなっている。
宗馬はチラリと栞の様子を伺う。
栞は顔の前で両手の指を組み、真剣な表情で佇んでいた。その仕草と佇まいは空間の雰囲気も相まって、祈りを捧げる修道女のようであった。
宗馬は視線を戻し、天井を見上げる。
クロエの右手がゆっくりと動き、銀の刃を宗馬の胸の中心に当てる。
ひんやりと冷たい感触が伝わってくる。
クロエが右手をゆっくりと引くと、なんの抵抗もなく刃が表皮を裂き始める。
一瞬鋭い痛みが走る。
刃が皮を裂き肉を斬り裂きながら、徐徐に肉の内側へと沈んでいく。
刃は御構い無しに、容赦なく肉を斬り裂いていき、鳩尾を過ぎ、更には腹を裂いていく。
「――ツ!」
裂けた傷口が発火したように熱を持ち、刃が進む毎に焔は燃え広がり、痛みを増していく。
肉が灼熱に焦がされる。
途切れることなく全身を這い回る痛みを堪えるように宗馬の拳が強く握られる。
胸の中心から臍の下まで一直線の裂け目ができた。亀裂の奥は闇が広がっていて、その奥の有り様は窺えない。
クロエは刃を一度トレイに置き、ゴム手袋をはめた両手を、鳩尾辺りの裂け目にあてがった。指を少しめりこませたかと思うと、躊躇なく裂け目を無理矢理にこじ開けた。
「ぐっ……あぁぁ――ッ!!」
体を強引に真っ二つに引き千切られたような痛みが宗馬を襲った。
宗馬の体が痛みに悶絶し、耐えきれずに転げ回ろうと試みるが、ベルトで固く固定されている為その望みは叶わず、仰け反るようにビクンビクンと小刻みに体を跳ねさせる。
その度にガタガタと不気味な音を立てながら手術台が揺れる。
「先輩――っ!!」
栞の悲痛な叫びが小さく響いた。祈るように組まれた両手の指は互いの甲にめり込むほどに強く握られている。
クロエは微塵も動じることなく、迷うことなく、只々着実に自分の役割をこなしていく。
トレイからクリップのような物を二つ取り出すと、それで開いた傷口を固定した。
地獄。
宗馬の体の内側には地獄が広がっていた。
肉を焼く灼熱のマグマ、テラテラとした粘液が纏わり付いた、生気を失い本来の色味よりも赤黒い、それぞれが奇妙で歪でグロテスクな造形をした、今はその役割を失った臓物群がひしめく光景。
この世の地獄が菱形にくり抜かれた小さな宇宙の中で広がっていた。
地獄から産まれる終わりなき苦しみは痛みとなって宗馬の体を、精神を蝕み苛み続ける。
今度は銀色の鋏を右手に取り、左手を構えるクロエ。
一呼吸置くと、左手を地獄の中へと差し込んだ。
柔らかい感触をかき分け、奥へと突き進み、細長い管状の腸を掴み、引っ張り上げた。
「ぐっあぁぁ――ぁぁっ!!」
雄叫びをあげた宗馬の体が大きく跳ねようとするが、頑丈な拘束に抑え込まれ手術台に跳ね返される。
荒れ狂う獣のように、宗馬は手術台の上で剥き出しの野生を解放している。
クロエは左手で持ち上げた腸を、右手に持った鋏で一思いに切断した。
想像を絶する痛みが宗馬を襲い、白目を剥きながら大きく仰け反った。
ベルトがミシミシと音を立てながら、それでも懸命に暴れる宗馬を抑え込む。
切り取った腸を空のトレイに乗せ、また左手を宗馬の体の中へ差し込み、新しい臓器を掴み、切り取り、取り出していく。
宗馬は叫び続ける。
体の中を掻き混ぜられ、引き千切られ、精神が支離滅裂に分断される。
――熱い熱い熱い痛い死ぬ死ぬ死ぬ熱い痛い痛い死ぬ死ぬ死なない死なない死ねない死ねない終わらない熱い熱い痛い痛い死ねない。
地獄から漏れ聞こえてくるような断末魔が部屋中に響き渡り、途方もない恐怖が空間を蹂躙する。
宗馬の中から産まれた地獄がゆっくりと這い出てきて、今にもこの部屋をも呑み込もうとしていた。
見守る栞の体が小刻みに震え、冷えているはずの体から大量の汗が噴き出てくる。
目の前の恐怖から、絶望から目を逸らしたい、断末魔から耳を塞ぎたいという欲求を必死に堪え、懸命に地獄と向き合う。
栞が部屋に入った時の第一印象では、部屋の中心に置かれ、シャンデリアの作る光の輪の下で鎮座していた手術台は、不思議な神々しさを纏った神聖なものに感じたのだが、何故だろうか――今は別のなにか、例えるなら邪神への供物として生贄を捧げる台座のような、禍禍しく醜悪ななにかに見えてしまう。
急に悪寒が走り、原因不明の吐き気がこみ上げる。
栞は嫌悪と不調を耐えながら、堪えながら必死に祈る。
祈る――誰に?
それは差し出された生贄を貪り喰らう神の名を冠したなにかだろうか?
わからない。だが無力な栞は他に術を知らなかった。
だから祈った。
金色の髪を煌めかせ、漆黒のドレスに身を包んだ黒衣の天使に――。
空っぽだったはずのトレイはいつのまにか赤黒い臓物で溢れかえり、とてもじゃないが直視出来ないような凄惨な光景が作り出されている。
クロエは臓物の山を積み上げ終えると一度大きく息を吐き、ゴム手袋を外してゴミ箱へと放り込んだ。
その後音もなくどこかへと消えてしまった。
未だ手術台の上に固定されたままの宗馬は白目を剥き、喉が詰まったように苦しそうな音を出しながら、時折思い出したように跳ね上がる。
引いてはおし寄せる波のように痛みの残滓が宗馬を絶えず苦しめていた。
空っぽになったはずの菱形の地獄の中で悍ましい何かが蠢いているような、気色の悪い嫌悪感も相まって宗馬の消耗は激しい。
またすぐに別のトレイ付きの台車を転がしながらクロエが戻ってきた。
トレイには新しい道具が乗せられている。
一つはいわゆる裁縫道具だ。といっても、針は通常の裁縫で使用するものよりも明らかに太く長い。針の穴に通っている糸も太く頑丈そうである。
もう一つは透明なビニールの袋にパンパンに詰められた白い綿だ。ぬいぐるみの体の中に詰められている、ふわふわと柔らかく、空を漂う雲に似た、あの綿だ――正確には素人目には綿にしか見えない、変わらない、殭屍の体の中に詰められるという腹綿だ。
「これから、腹綿を詰める」
相手の耳まで声を届ける意思があるのかないのか、宗馬の呻き声にかき消されるほどのか細い声でクロエが次の工程を告げる。
当然宗馬の耳にクロエの声が聴こえるはずもなく、クロエ自身もそのことを気にする素振りもなく、新しいゴム手袋を両手にはめて、つい今しがた運んできた腹綿をビニール袋から取り出し始めた。
程よい量を手に持つと、宗馬の菱形に開いた空洞の中へと詰める。新しい腹綿を取り出す。詰める。取り出す。詰める。その工程をひたすら繰り返す。
ある程度の腹綿が詰められてくると、宗馬の体に変化が生じ始めた。
体の奥から温かいものが滲み出てきて、全身に少しずつゆっくりと染み渡っていくような、心地の良い感覚がして、その温もりが地獄から沸き起こる苦痛を和らげてくれるのだ。
内側から温もりが生まれ、全身を包みこんでいく。灼熱を伴う地獄がその勢いを失い収縮していく。
悶え苦しんでいた宗馬の状態は徐々に落ち着き、朦朧としていた意識もはっきりとしてきた。
「……なんっ……だか、急に体が、楽になってきたんだが……終わったわけじゃ……ねぇみたいだ、な」
満身創痍の宗馬が自分の胴体の方へ視線を向けると、未だにクロエによる腹綿を詰める作業が続いていた。
あんなにも悶え苦しんでいたというのに、一滴の汗も体から出ていないのがなんとも奇妙だ。
そういえば呼吸の乱れもない――というよりも、自分の口と鼻共に息を合わせたように呼吸をしていないことに今さら気づいた。
やはり肺も取り出されてしまったのだろうか。理屈はわからないが、どうやら殭屍という存在は呼吸すらも必要としないらしい。
――人間とは違う。
宗馬自身の体が変化したことによって、より強くそのことを実感させられる。
身も心も化け物へと変わったのだと。
「ぁの子の氣が効率良く、君の体に流れるよぅになった」
「そうか……二王頭の……」
殭屍は道士が居なければ存在を保つことすら出来ない。不完全な化け物。
死という絶対的な理に背いた咎人に与えられる罰。だが様々な不都合の全てを鑑みても、随分とぬるい罰ではないのか、宗馬にはそんな気がしていた。
強い奴と、闘うことに魅入られてしまった化け物達と闘いたい。そんな低俗な欲に取り憑かれ、死を否定した自分の罪はそれほどに重たく救いようのない願いに思えた。
一連托生。
栞はそう言ってこの部屋に残った。
栞が共有したいと言った未来は、この空間を蹂躙した地獄を一息に呑み込むような途方もない地獄だろう。それでもきっと、真紅の瞳は力強く輝き、宗馬と同じ景色をそのレンズに刻み込むだろう。
逃げずに向き合ってくれた、苦しんでいた宗馬に寄り添い助けてくれた。
嬉しかった。
一人で、己の武のみを頼りに、信じて闘ってきた、勝利を掴んできた。そんな宗馬にとって誰かの存在が有り難く感じること、必要不可欠であると感じること、そのどちらの思いもが初めての感情だった。
ほんの一つの出来事や、気づきでこうも人は変わっていくものなのかと、妙に感慨深い気持ちになっている自分が、今の場面にはひどく不釣り合いな気がした。
気が付けば苦笑いで引きつった表情が宗馬の顔に貼り付いていた。
「腹綿は詰め終ゎった。傷口を縫合する。」
「あぁ……頼む」
「糸。何色がいぃ? ぉすすめはピンク。可愛ぃ」
「可愛いは別に求めてねぇ……つうかもう針にピンクの糸通してんじゃねぇかよ。……ってダメだ。今は突っ込むことすらしんどい……。もう好きにしてくれ」
「ゎかった」
やはりというか、最早わかりきっていたことだが、そのままピンクの糸で作業を開始する模様のクロエ嬢。
潔く諦めて運命に身を任せる宗馬。
鋭い痛みと共に極太の針が薄皮を容易に貫き、その内側の肉をも易易と貫いていく。
針が貫通させた穴をそれよりも少し太めの糸が肉を押し広げながら、先を走る針の後を実直に追いかけていく。
臓物を引き千切られる痛みに比べれば我慢出来ないほどではないが、痛いものは痛い。
針が穴を穿ち糸が洞を拡張する度に宗馬の体は小さく跳ね、手術台を僅かに揺さぶる。
「ピンクのバッテン。可愛ぃ」
クロエの恍惚とした艶っぽい呟きがマスクの奥から漏れ聞こえてくる。
一切表情を変えることのなかったクロエの目が細められ、頬を少し赤らめているのがわかる。
そんなクロエの様子を下から見上げながら苦笑いを浮かべていた宗馬は、腹部の表面を規則正しく突貫していく針仕事の進捗具合を痛みで推し測りながら、息の漏れない溜息を吐き出して真上から迫るシャンデリアの煌めきに虚ろな視線を向けた。
光の粒は反射の変化に合わせて大小を変え、まるで降り注ぐ雨のように遠近を錯覚させる。
大きな鋏で糸を断ち切った歯切れの良い音が部屋全体に響き、それと同時に宗馬を絶えず襲っていた痛みが一応の落ち着きを見せた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
ピンク色のバツ印の羅列が見事な一直線を描きながら、宗馬の胸の中心から臍の下まで並んでいた。
縫合された糸の奥には縦に切り裂かれた傷口があり、さらにその奥には白い綿がギュウギュウに詰められている。
ぬいぐるみのような身体に変貌してしまった宗馬はしかし、正常に自らの意思で動き違和感なく動作している。
鏡の前で自分の上半身を派手に装飾している傷口を眺めながら、宗馬は改めて殭屍という存在の出鱈目具合を痛感して、ある意味感心すらしていた。
「ピンク可愛ぃでしょ? 満足の仕上がり」
表面に表れている表情は相変わらずの無表情だが、どこか誇らしげな雰囲気でクロエが話す。
ごく稀にだがクロエの感情に微妙な変化が表れていることに気づく。
「だから別に可愛いは求めてねぇんだよ。……とはいえクロエのおかげで腹綿入れ? は無事に成功したみたいで助かった。ありがとな」
「当然。ゎたし、天才」
「このヤロ……言っとくけどすげぇ痛かったからな」
「それは最初にちゃんと、伝えた。つまり、ゎたし、天才」
「ホント清清しい奴だよ!」
無表情のまま右の口角だけをニヤリとつり上げるクロエを冷めた目で見た後、宗馬は部屋の隅でへたり込んでいる栞に近づく。
「大丈夫か?」
「はい……もう大丈夫です。ご心配をおかけしてすみません」
やはり栞には刺激が強すぎたようで、憔悴しきった様子で宗馬を見上げながら弱弱しく微笑んだ。
それでも最後まで逃げることなく、自分が宣言した通りに宗馬の腹綿入れが終わるまでを見届けたのだ。
信頼を証明するように、絆を培っていく為の礎を固めるように、二人のこれからの道のりを約束するように、指切りげんまんの小指を差し出すように。
宗馬も信頼を証明しようと決めた。闘いの場にはきっと、宗馬が栞の為に振るえる拳があるはずだから。
「ありがとな、二王頭」
だから今は感謝の気持ちを、想いを、ありきたりな言葉にして伝える。他に言葉を知らなかったし、他の言葉は必要ないような気がした。
「私はなにも――頑張っていたのは先輩で、私は近くで狼狽えてただけで、なにも力になれなくて……」
「二王頭が氣ってやつを俺に送り続けてくれるから俺はこうして存在できる! 俺は気兼ねなく闘える!」
「……」
「持ちつ持たれつ。難しく考えず気楽にいこうぜ」
「……はい、先輩!」
ようやく栞の顔に少女の無邪気な笑顔が輝いた。
笑顔で向き合う宗馬と栞――の間にいつのまにかクロエが立っていた。
「うおぉっ!?」
「ひえぇぃ!?」
――いや、ひえぇぃて……。
突然登場したクロエに驚いた宗馬と栞が叫び声を上げた。ちなみに最初の声が宗馬でその次が栞だった。栞の個性的な叫び声に、宗馬も思わず心の中でツッコミを入れてしまった。
「なにか声掛けろよ。びっくりすんじゃねぇか」
心を落ち着かせつつ、クロエに抗議の声を上げる宗馬。
驚きの余韻が残っているのか、栞は目を大きく見開いたまま顔を赤べこのように上下に振って宗馬の主張に同意する。
「ぉ会計」
なるほど、プロに施術してもらったのだから、仕事に見合った報酬を支払うのは当然のことだ。
しかし、そもそもどこに何をしに行くのかも聞いていなかった宗馬の持ち合わせは心許ない。おそらく財布の中には入っていても数千円だろう。
最悪昨夜地下闘技場で倉持重蔵から受け取ったファイトマネーを家に取りに行くしかない。いくら入っているのか封筒の中身は確認していないが、普通のバイトより少ないということはないだろう。
「大丈夫ですよ、先輩。道士会に加入している一門は道士会から支援金を出してもらえますし、殭屍に必要な施術や諸諸の準備金に充てられる積立金制度も用意されているんです。私の両親も私の万が一の時の為にと積立ててくれていたのです。だからここは私に任せて先輩は体を休めていてください!」
左手を腰に当て、右手は顔の横に持ってきて人差し指を立て、胸を張って満面のドヤ顔で栞が宗馬に高高と宣言してみせる。
「いや、そんな大切な金を使わせるわけにはいかねぇだろ……どう考えても」
両親が大事な娘の為にコツコツと貯めてきたものをこんなところで使わせてしまえば、流石に両親の呵責――もとい良心の呵責に胸を傷めることになるだろう。
そもそも宗馬は栞に無理を言って、無理を押し通して自ら殭屍という存在になったのだ。
ただでさえ常に栞から氣を送り続けてもらわねば生きることさえできないこの身体は、相当な負担を術者である栞に負わせている。
ならばせめて自分が腐り朽ち果てない為に必要だった処置の費用くらいは自分自身で負担すべきだ。
「先輩、そんなに重たく考えないでください。そもそも私が殭屍と契約した時の為のお金なんですから、むしろここ以外のベストタイミング無いぞっていうくらいなもんです。それにお母様も……お父様も絶対に納得してくれます」
「俺は二王頭に無理矢理俺を殭屍に、契約者にさせたんだ。だからこれ以上の迷惑をかけるわけにはいかねぇ」
「無理矢理なんかじゃ……ありません」
「!」
栞は俯きボソリと呟いた。
しかしすぐに顔を上げると力強い真紅の瞳で宗馬を真っ直ぐに見据えた。
「私は私の意志で先輩を殭屍にしたんです! 先輩の力が必要だったから! それは私の決断です! 私の覚悟です! 先輩のせいでも、先輩のおかげでもありません!」
「二王頭……」
「先輩には私が、私には先輩が必要なんです。私達一連托生ですから。持ちつ持たれつ、ですよね?」
上目遣いで宗馬を見上げる栞がからかうような悪戯っぽい笑みを浮かべながら、ついさっき発せられたばかりの宗馬の台詞を引用した。
なんだかしてやられた感の拭えない宗馬は苦苦しい表情を隠せない。
「ここは大人しく私に任せてください」
人差し指をピンと立てた右手を宗馬の顔の前に突き出し、まるで駄駄っ子に言い聞かせるように話す栞。
「……わかった。この場はとりあえず二王頭に任せる」
宗馬は若干背中を後ろに反らしながら渋々了解する。
「はい! 任されました、先輩!」
栞は背筋をピンと伸ばし、掌をおでこの前に掲げ敬礼のポーズを取る。
真夏の太陽の煌めきを散りばめたような、刹那の無垢を包含するサイダーの泡のような笑顔が弾けた。
「だけど後で必ず返す。貯金を引き出しても足りなければどうにかして金を作って、何年掛かったとしても必ず返す。今は手持ちがねぇから立て替えてもらうけど、俺の身体のことなんだ。他人任せにはできない。それは二王頭に頼りたくないとかそういうことじゃなく、俺のけじめとして、だ。」
それは言ってしまえば宗馬のくだらない、ちっぽけな意地だ。
とてもじゃないが格好つくはずもない、どうしようもなく独りよがりで身勝手な言い分であることは理解しているが、宗馬にとっては譲ることのできない一大事だ。
「先輩……もの凄く意固地なんですね」
栞が大きく息を吐き出しながら呆れた様子で項垂れた。
――二王頭もなかなかのもんだぞ。
宗馬は漏れそうになる心の声を辛うじて呑み込んだ。
頬を膨らませながらむくれる栞はしかし、なんだか心なしか嬉しそうである。
施術の間自分に出来ることがなかったことを余程気にしていたのか、ようやくの出番に張り切っている模様。
栞のそんな様子を微笑ましく思いつつ、宗馬はクロエと栞のこれから行われるであろうやりとりを静観する構えだ。
「二十万円」
「にっ――!? やっぱ結構すんだなぁ」
相場のわからない宗馬には高いのか安いのか判断がつかないが、専門的な知識と技術を必要とすることだけに、安くてもそのくらいして当然なのかもしれないとも思った。
「積立金からの支払ぃには当主の署名が書かれた申請書が必要」
宗馬はクロエの説明を聞きながらなんとはなしに栞の表情を窺う。
「…………」
なんだか心なしか栞の顔が青ざめて見える。
顔は笑っているが、笑ったまま石にでもなったように固まっている。
「あのー、二王頭さん?」
いやいやまさか、そんなはずはない、と嫌な予感をビンビン感じさせる宗馬の第六感に宗馬は笑いながらそう言って肩を叩いてやる。
わかっている。宗馬にだってわかっている。ドジっ子とはこういう時必ず期待に応えるからこそのドジっ子なんだということくらい。
「……先輩、どうしましょおぉ!? 二王頭家の当主は今、空白になっていて、しかも父の推薦状を蓬さんが持っでるんでずうぅぅぅ」
言い終わる前にもう泣きだしていた。
流石の二王頭さんだった。
「期待を裏切らない奴め」
「だんどごどでずがぁぁ」
「……こっちの話だ、気にすんな」
あれだけ啖呵を切っていたのにこのザマなのだ。宗馬も鬼ではない。心中を察してやる。
「当主のサィンがなぃと支援金も出なぃし、減額対象から外れる。全額自己負担になる」
「……そうなると……――?」
「三百万円」
「「えぇぇぇぇっ!?」」
宗馬と栞の叫びにも似た悲鳴がシンクロしながら部屋中に木霊した。
「道士会のありがたみっ!」
「腹綿は特殊素材。殆ど材料費」
「急に体が重いっ!?」
まさか弱冠十七歳にして三百万円もの借金を抱えることになるとは、さしもの宗馬も想像すらしていなかった。
臓物が体内からなくなり、大幅に軽量化されたはずの宗馬の体はしかし、むしろ重くなったような気さえしてきた。
「よし! 蓬って奴をぶっ飛ばすついでに申請書にサィンさせよう!」
こうして拳を握りしめ、固く誓う宗馬にもう一つ負けられない理由が出来たのだった。
「そういえば……どうしてお父様が事故で亡くなる前に急に当主の座を、弁慶を蓬さんに譲ることにしたのか、その理由を確かめないと」
栞は下唇を人差し指と親指で軽く摘みながら、宗馬とクロエの二人には聞こえないほどの声量で一人確かめるように呟いた。
「申請の有無は一週間くらぃなら待てる」
「それは……とても助かりますけど、大丈夫なんですか?」
「二王頭家は名門。信用もあるし、名門だからこそ逃げることも出来なぃ」
無表情に真っ直ぐ栞を見つめるクロエの瞳には言葉では形容し難い凄みが宿っている。
逃がすつもりはないと暗に示すクロエという女性は、若くして当主の座につくだけあって思いの外肝の座った人物なのだろう。
もっともクロエがどうこうと言うよりは、どの組織でも上に立つような人物とはそういうものなのかもしれなかった。
「とはいえ今日一円も払わないというのは流石に……――あっ、そうだ」
宗馬は昨夜手にしたお金の存在を思い出す。
この後クロエに平謝りして、二人で宗馬の家まで宗馬のファイトマネーを取りに戻り、とりあえずの頭金を支払った。
封筒の中には十万円が入っていた。
興味本位で行っただけの地下闘技場だったので、ファイトマネーの相場なんてものは宗馬にはさっぱりなのだが、倉持重蔵のことだ、相場より多いということはないだろう。
兎にも角にも、とりあえず十万円の支払いは完了した。
支払い残額が十万円になるのか、はたまた二百九十万円になるのかは明日の結果次第となる。
そこに数字上の大きな差はあるが、宗馬にとっては闘いに掛ける想いの強さに比べれば微々たるものにすぎない。
そもそも弁慶との勝負の間にそんなくだらない、浅ましい感情を差し挟みたくはない。
宗馬の内側を流れる修羅の血は、直情的で無邪気で愚かなほど純粋に形ないものを妄信しているのだ。
弁慶との決着がつくまでは綺麗さっぱり忘れることにする。
そう決めた三秒後には本当に忘れてしまう。
あまりにも早すぎる切り替えは宗馬の長所であり、短所でもあった。
宗馬と栞の二人が再び道場に戻った頃にはすっかり夜になっていた。
栞はクロエの店から宗馬の家の道場に到着するなり倒れこみ、子供のような寝息を立てながらぐっすりと眠ってしまった。
思えば宗馬も栞も昨夜は一睡も出来ていなかった。それに加えて今朝の戦闘から宗馬の腹綿入れの凄惨な光景と、休む暇もなかったため疲れが溜まっていたのだろう。
宗馬が運んできた客人用の布団の上で気持ち良さそうに眠る栞を後ろに、宗馬は道場の引き戸を開けて外の空気を吸いに出る。
肺も無いから空気は吸えないのだが、こういうのは雰囲気が大事なのだ。
――殭屍は眠らない――眠れない。
宗馬が殭屍になって初めての夜を迎えようとしていた。
死が怖くて眠れなかった夜とは違う、死んだ後の夜。
しかし仮に眠ることの出来る体だったとしても、今夜はどうせ眠れなかっただろう。
弁慶との再戦。
ようやく同じ土俵で化け物同士、気兼ねなく壊し合いが出来る。
そう思うと宗馬を宗馬として存在させる魂が熱を宿し、修羅の本能が暴れだそうとするのだ。
先祖代代受け継がれてきた修羅の血を失った今、だが修羅の本能は失われることなく宗馬の中心で燃え続けている。
時を超えた想いは魂に刻み込まれていた。
点点と光の粒を散らした夜空を見つめ、宗馬は想いを馳せる。
夜空は宗馬の瞳になにを映しだすのか。
無限に広がる空を塗り潰すほどの果てしない漆黒か。
漆黒に埋もれながらも懸命に輝き地上にその光を落とす星星か。
いずれにしても、答えは漆黒の中にあるようだった。




