第二章02 『深淵の人形師』
大通りから小径に一本入った静かな通り。
一つ横に曲がっただけで、人通りが疎らになるような、近道や抜け道に使われ、意識しなければ早歩きで通り抜けてしまいそうな、そんな小径にその店はあった。
『Clown des Abysses』
ひっそりと、一見見過ごしてしまいそうな、風景にすっかり溶け込んでしまっているような、それでいて、存在に気が付いて目を留めてみれば、重厚な存在感に圧倒されてしまいそうな、しかし不思議と心奪われ迷い込んでしまいそうな、なんとも奇妙な店だった。
小さなビルの一階にあるその店は、西洋の建物を模した外観をしているが窓がなく、中の様子が窺えないため、店であることはなんとなしに察しがつくが、一体全体なにを販売している店なのかは判断がつかない。
壁から道路に向かって突き出した棒に、木製のアンティークデザインの吊り下げ看板が下がっている。店名であろう『Clown des Abysses』の文字。『クラウン デ アビス』と読むのだろうか。
宗馬は看板を見上げてフランス語と思われる店名を、曖昧なまま頭の中で読み上げてみる。
「先輩、ここが目的のお店です」
栞に連れられるままやってきた終着点、それが宗馬の目の前で独特の雰囲気を醸し出すこの店だった。
「一体なんの店なんだここは?」
「入ってみればわかりますよ」
もったいぶらずに教えてくれてもいいもんだが――どのみち栞が命令してしまえば逆らえない。自嘲気味に、殭屍の身である宗馬は大人しく扉の奥に答えを待つ。
「なら早速入ってみようぜ」
「そうですね。行きましょう」
白い扉――ところどころ白が剥がれて下に隠れた木、本来の色味が露わになった、アンティーク調の扉を開いて、とうとう謎に包まれた店の中へと入っていく。
カランカラン。
心地好いベルの音が静かに鳴り響く。
店内は太陽の恩恵を失ったように、またはそれを拒んだかのように暗かった。
開いた扉から忍び込んだ光が、ギィィと小さな音を立てながら再び追い出されていく。
宗馬は唐突に、夜に追いつかれたような錯覚に陥る。
薄闇が覆い尽くす店内の、ところどころに小さな明かりがポツポツと、星屑のように置かれている。
不意に視線を感じた。
振り向くと少女が宗馬を見ていた。
正しくは少女の姿を模した耽美な造形物。
その少女はなにも言わず、ただ瞳のレンズの焦点を、ガラス玉のような温度のない視線を、ジッと宗馬に合わせている。
碧い瞳に金色の御髪。あどけない少女の姿をした、まるでフランス人形を等身大にしたようなマネキン(しかしマネキンよりはやはり等身大のフランス人形のほうが目の前の少女を例えるのにはしっくりとくる)が、薄闇の中にぼうっと佇んでいた。
よく目を凝らしてみれば、薄暗い店の中には無数の人形たちが互いに身を寄せ合うように置かれている。
大小さまざまな人形が数百体、その全ての視線が自分に向けられているような、ジッと監視されているような、妄想染みた錯覚に支配される。
「ここは……人形屋か」
「そうですね。フランス人形やヨーロッパ各地から輸入した人形を販売したり、人形作家でもある店主のオリジナルの人形なんかも売られています」
「なんでまたそんな店に来たんだ?」
「先輩の体の中から腸を取り出して、腹綿を詰めてもらうためです。詳しくは知らないんですけど、取り出すのは腸だけじゃないみたいですけどね」
「綿を詰めるって比喩じゃなかったのかよ!? しかもよくわかんねぇって、当事者の俺にとっては超重要なとこだぞそれ! 一体俺はこれからなにをされんだよ!?」
「言葉だけ聞くと怖いかもですけど、殭屍になった体には必要な処置なんです!」
「はぁ!?」
「先輩の身体は私から送っている氣によって腐敗を止めることができますが、体内の臓器にはその効果が弱くて、通常の腐敗に比べれば遅いんですけど、それでも徐徐に腐敗していくんです。
それに臓器の代わりに詰める腹綿は、特殊な素材でできていて、道士から送られてきた氣を吸収するんです。そして吸い込んだ氣を、じんわりと染み出すようにして、殭屍の体に少しずつ氣を充満させていくんです。
先程話したように、道士は常に殭屍に対して氣を送り続けなければならないのですが、腹綿を詰めることによって、道士から殭屍に送る氣の量を節約することができるんです。
しかも、殭屍の体は生前の頃と筋力は変わらないので、体重が軽くなることで機動力も爆発的に上がるんです」
「理由はなんとなくわかったけどよ、体かっ捌いて中に綿を詰められるなんて、普通の神経を持った人間なら抵抗あるだろうが」
苦苦しい表情を浮かべながら、宗馬はボリボリと頭を掻く。
宗馬の反応を見た栞は、ハッとしたように目を大きく開くと、すぐに長い睫毛を垂れて俯いてしまった。
「すみませんでした、先輩。先輩の気持ちも考えないで私……。ちょっと焦ってたのかもしれません。本当にすみませんでした」
焦り。
それは考えるまでもなく当然のことだった。母親を人質に取られ、闘う相手は栞よりも格上の存在なのだ。
不安と重圧に押しつぶされそうな心を必死に、懸命に奮い立たせて、弱みを見せず、気丈に振る舞っていたのだ。
そんな少女を責め、あろうことか謝らせてしまった。罪悪感がチクチクと宗馬の胸の辺りを刺す。
「いや、謝ることはねぇけどよ。それに、いざとなれば道士は殭屍に命令できんだろ」
「それは……嫌です。絶対に」
柔らかそうな前髪が俯いた栞の表情を隠していた。
真っ直ぐ伸びた両腕の先端で握り込まれた拳。細い指で握られた拳は、武道家がつくる破壊の拳とは別の、力強いなにかが凝縮された塊に見えた。
「ぃらっしゃいませぇ」
突如、不意に、唐突に、宗馬の背後から、店内を包む薄闇から漏れ出たような、消え入りそうな、それでいて間の抜けたような声が聞こえた。
ゼロから臨界点までをひと息に迎えた、超高速の神経の伝達が、宗馬を振り返らせた。
――背後を取られた!? 気配を全く察知できなかった!
思考を支配しようとする焦りと困惑を、理解も納得もできないまま、頭の片隅へと追いやって、全神経を背後の何者かへと集中する。
フランス人形。
胸のあたりまである長い金色の髪を、空気を纏わせたように柔らかく巻き、頭のてっぺんには黒いリボンを結んでいる。
フリルや刺繍をあしらった、ゴシックな漆黒のドレスは、闇の中でも映えている。
翡翠をはめ込んだような、碧い大きな瞳が宗馬を見据えていた。
入口の横で見た等身大の人形が、宗馬の真後ろで、静かに佇んでいた——いつのまにか置かれていた。
――どういうことだ!?
混乱する宗馬をよそに、栞の透き通った声が響く。
「私は二王頭家道士の二王頭栞といいます。人形師の織繊芸さんですか?」
「ゎたしはクロエ」
人形だとばかり思っていた金色の髪の少女――クロエの口が僅かに動き、かろうじて聴き取れる声で応えた。
しかし宗馬の驚きは、関心はもう既にそんなところにはなく、自分があまりにもあっけなく背後に立たれたこと、一体このクロエという少女は何者なのか、疑念ばかりが頭をよぎっていた。
「クロエさん、店主の織繊芸さんはいらっしゃいますか?」
「店主はゎたし、クロエ」
「……? では、人形師の織繊芸さんはいらっしゃいますか?」
「人形師はゎたし、クロエ」
「……えぇと……?? 織繊芸さんはいらっしゃらない……んですか?」
「クロエ」
「???」
栞の思考回路がショートしたのか、機能が停止したように固まった栞の頭からは、今にも白い煙が吹き出しそうだ。
栞がフリーズしている隙に、宗馬はたまらず疑念をクロエへとぶつける。
「あんたいったい何者なんだ?」
「クロエ」
「……」
「……」
人形のような、完成された、創りもののような、人間離れした造形美でできた少女の顔には、微塵の変化も刻まれないまま、からくり人形のように、言葉を発する口だけが微かに上下する。
「なんの気配も感じさせないまま俺の背後に立つなんて、クロエ、あんたいったい何者なんだ?」
「? ぉ客様が来たから声かけただけ。ゎたしは影が薄いとか、覇気がないとか言われるから、ぁんまり気付いてもらえない。ゎたしは人形師でこのお店の店主のクロエ。ぃらっしゃいませぇ」
――影が薄いとかそんなレベルか!? まったく気配がなかったぞ!? まぁ……ちょっと――いや、かなり変わってるけど……どうやら俺達に襲いかかってくる心配はなさそうだな。
小さく息を吐くと、宗馬は身構えていた筋肉を緩ませ、クロエへの警戒レベルを下げた。
「先輩どうしましょう!? 大倭仙人会に認められた由緒ある人形師にしか施術は行えないんです! その人形師である織繊芸さんというかたを訪ねて来たのに、まさかいらっしゃらないなんて!」
フリーズしていたはずの栞が活動を再開したかと思うと、オロオロと頭を抱え、宗馬にすがりつくようにしながら、涙目で訴えかけてきた。
「落ち着けよ二王頭。その人形師とやらは他にはいないのか?」
「人形師の人は探せばいるのかもしれませんが、腹綿入れの施術を許されるような人形師の人は、少なくとも関東には織繊芸さんしかいないんです!」
絶望に打ちひしがれたように、栞は身近な台に手を付き俯いた。しかしすぐに、下唇に親指と人差し指を当て、なにやら思案し始める。
「なぁクロエ。織繊芸さんって人のこと知らないか?」
少しでも情報を得られないかと、玉砕覚悟で宗馬はクロエに尋ねてみる。
「知ってる」
「「えぇ!?」」
宗馬と栞、二人の驚いた声が綺麗に重なり、薄暗い店内に高高と響き渡った。
栞は台から飛び立つように離れると、宗馬の横に並び、クロエと向かい合う。
「どこにいらっしゃるかわかりますか!?」
前のめりな姿勢の栞に対し、まったく変わらない立ち姿のまま、人形が己の意思では動けないように、その場所にあることが宿命であるかのように屹立するクロエの目が、パチパチと二回瞬いた。
二回の瞬きをきっちり終えた後、クロエの右腕がゆっくりと上がり、伸ばした人差し指で自らを指し示した。
「?」
クロエの行動の意味が理解できず、呆然と口をだらしなく半開きにして佇む宗馬と栞。
自分自身を指差しながら、再び人形のように静止するクロエ。
静寂が支配する無の時間が流れる。固まった三人の均衡を破ったのは意外にも、静寂をつくりだした張本人であるクロエ自身だった。
「ゎたし」
「「えぇ!?」」
宗馬と栞の叫びが再びシンクロした。
人差し指は変わらず自身を指したまま、クロエは小首を傾げ、ゆっくりと二回瞬きをした。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
織繊芸家は代代、人形師を輩出している家系で、当代で二十一代にもなる名家である。
初代の頃から大倭仙人会の組織に連なり、人形師として道士や仙人を助力してきた。
そもそも人形師とは、道士や仙人が使役する殭屍の状態を整え、維持させる役割を専門にしている者達のことである。
具体的には、宗馬達の今回の目的でもある、殭屍になった者への腹綿入れや、戦闘で負傷した殭屍の傷の応急処置や縫合をしたりなど、殭屍の医者とも呼ばれている。
殭屍は、道士や仙人などの術者から送られてくる氣によって、ある程度の傷は徐々に修復されるが、切断などによって体の局所を喪失した場合、傷口は塞がるが、喪失した局所の再生はされない。
そのため人形師は、殭屍専用の義手や義足の製作も請け負う。
また、殭屍が戦闘で使用する武具類も、依頼を受けた殭屍に合わせて作製する。
人形師は道士や仙人、殭屍を使役する者にとって、なによりも殭屍にとって、なくてはならない存在である。
織繊芸クロエは二十三歳にして、人形師の名門織繊芸家の当主の座を、父である先代から引き継いだ。
二十五歳となった現在、織繊芸家当主の座を務めながら、人形屋『Clown des Abysses』のオーナーとして店を切り盛りしながら、オリジナルの人形の製作も行なっている。
人形師としての腕は、二十三歳という若さで当主の座を継いだことからも察せられるように、幼少の頃から類い稀なる才能を発揮していた。
道士や仙人の間でも、瞬く間にクロエの腕は評判になり、遠方からわざわざクロエを頼りにやって来る道士や仙人の数は少なくない。
クロエが織繊芸であったという事実——いち度の質問のやり取りがあれば辿り着けるはずの事実に、遠回りに遠回りを重ね、紆余曲折のやり取りの末、宗馬と栞はようやくその事実に辿り着いたのだった。
「つぃてきて」
そう言って一切の音も立てず、静寂が静寂を切り開いていくように、闇の濃い方に向かって歩き始めたクロエの後を、宗馬と栞は慌てて追いかけた。
店内を奥へ奥へと進むと、黒い扉に行き当たった。
宗馬も栞も気付いてはいなかったのだが、クロエがその前で立ち止まったことでようやく、その存在を遅ればせながら察知した。
黒い扉はドアノブまでも真っ黒に塗られ、よく目を凝らさなければ、そこに扉があることさえまったくわからない。
まるでこの扉が店内を覆う闇の始まりであるような、この奥から世界を夜に変えてしまう漆黒が生まれてきているのではないかと、馬鹿馬鹿しい想像までもしてしまいそうな、そんな深い黒色をした扉。
黒い扉の黒いドアノブを、黒いドレスの袖から覗いた細く白い手が――闇の中に手だけが浮いているような、あまりに対照的な色を纏った存在が掴み、躊躇することなく夜を解放した。
クロエは闇と同化していくように、扉の奥へと進み入る。
宗馬と栞も意を決してその後を追う。
意外にも扉の奥にあった部屋は、所所に燭台が置かれているため店内ほど暗くはなく、これまた想像以上の広さを持った工房だった。
扉から入って左奥には大きな作業台があり、人形の製作や、殭屍のメンテナンスに使うのであろう、工具や器具が所狭しと置かれている。
作業台の前の壁には図面やら資料やらがびっしりと貼られ、クロエの抱える仕事量の多さが窺える。
道具の量が多いにもかかわらず、作業台の上は隅隅まで整理が行き届いている。どうやら存外クロエは几帳面な性格をしているようだ。
それは意外にも、というよりはクロエという人物に決定的に欠如しているであろう人間味や情報量の少なさからくる感想、発見に近かった。
右側には分厚い本(専門書だろうか)がびっしりと詰まった大きな本棚や、電子機器類、それとこちらにも工具やら機械やらが置かれている。
床には電子機器類から伸びた配線やパイプが、合流と分流を繰り返しながら、それぞれの終着点に向かって所狭しと這っている。
そして部屋の中央では手術台が異様な存在感を醸し出しながら、鎮座していた。
手術台の左右にはカトリックの教会に設置されているような、美麗な燭台が据え置かれている。
美を競い合うように細かな装飾を施された支柱が闇を貫き、抑えきれなかった奔流が枝分かれしながら闇を駆け、それぞれの美をまだ見ぬ天へと誇っている。
しかしその先端で揺れる蝋燭の火は、驚くほどに柔らかく淡い光を灯している。
寝台の裏側、その中心部分から伸びた一本の銀色の柱が蝋燭の灯りを反射して、十字の艶かしい煌めきを放っていた。
この部屋には椅子が無いので、必然的に三人は立って話すことになった。
「先輩、今日はやっぱりやめますか? 私が無理矢理連れて来ておいて言うのもおかしな話ですけど……」
言葉の終わりが近づくにつれて栞の声は小さくなり、顔も下を向いていく。栞の真紅の前髪の先端が長い睫毛に当たり、小さく弧を描いている。
「ゃるなら、早いほうがいぃ」
クロエがか細い声で栞に助け船を出した。
専門家がそう言うのならばそうなのだろう。
しかし己の肉体を厳しい鍛練によって鍛え上げ、己の肉体だけを頼りに闘ってきた宗馬にとって、自分の体を開き別の何かを取り入れること、そのことが宗馬の身体機能になんらかの影響を与えること、それは過去の自分自身を裏切ることになるのではないか、そんな気持ちになっていた。
答えられずに黙している宗馬を見つめていたクロエの碧い瞳はチラと栞を見ると、再び宗馬へと向けられた。
「この子はぁなたの為を思って言ってる。……多分。ゎたしは他人の感情の機微に疎いから、確信はないけど、そんな気がする」
クロエが表情を変えないまま、淡淡と単語を繋いでいく。
一体クロエは何を伝えたいのかわからない宗馬は、訝しげな表情をクロエに向ける。
「腹綿入れは殭屍には必須。遅いか早いかの違ぃ。ぃまのままだと氣の循環効率が悪いから道士には物凄く負担。それに――」
クロエがそこで間を置いた――実際には間など無く、宗馬にそう感じただけなのかもしれない。しかしクロエが発したその後の言葉は宗馬の内側にゆっくりと流れ込んだ。
言葉を理解する為の処理を脳が嫌がった。
「ぁなたはもう、人間とは違ぅ」
――人間とは違う。
宗馬は自ら望んで殭屍になった。
だが殭屍になることを望むことと、人間をやめることを望むことはイコールではない。そんな当然のことに今更ながらに気付いた。思い知らされた。
クロエの核心を突いた言葉は宗馬に瞬間的な衝撃を与えた。しかしそれを過ぎると不思議とストンと心に落ち着いた。
別物。偽物。まがい物。
宗馬はこれから死してなお、血みどろの闘いに取り憑かれた化け物達と闘うことになる。その舞台へ上がるために自らも化け物へと変わる、それだけのことだったのだ。
過去の自分がどうだとか、要は逃げ腰の心を誤魔化すための言い訳をしたかっただけなのだ。
宗馬は死んで、別物の化け物になった。過去を蔑ろにする必要はないが、囚われる必要もない。
宗馬は一度目を瞑った後、少年らしい無邪気な笑顔を栞に向けて、意気揚々と宣言した。
「いらねぇもん詰まってても無駄だしな。ちゃっちゃと終わらせて、明日に備えてゆっくりしようぜ」
「先輩――っ!」
花が開く瞬間を見たような、そんな笑顔が咲いた。
「落ち込んだり喜んだり忙しい奴だな」
宗馬はフッと微笑みながら、ゴツゴツした手で大雑把に栞の小さな頭を撫でた。
「なっ何を、なっなさりまするか!?」
宗馬の手を慌てて払いのけ、自分の顔の前に両手をかざしながらつっかえるように後退る栞。
「わ……悪い」
いくら年下とはいえ、高校生の女子の頭を無遠慮に撫でたのはまずかった。
「す、すみません。……私も取り乱しました」
両手で前髪を撫でるように整える栞の顔は真っ赤だ。
宗馬は残念ながらラノベの主人公のような鈍感さは持ち合わせていない。照れた栞の姿を目の当たりにして、宗馬自身もなんだか気恥ずかしくなってきていた。
先程の自分の行為を思い出すと、我ながらよくもまぁあんなキザったらしい、背中が痒くなってくるようなことができたもんだと、首を掻き毟って死にたくなってきたが(もう死んでるという事実はここでは問題ではない)なんとか強靭な精神力で堪える。
髪の毛先を弄りながら顔を赤らめ視線を逸らす栞と、頬を右手の人差し指で掻きながら視線を逸らす宗馬。
二人の間に微妙な空気と距離感が生まれる。なんとも焦れったい構図。
「じゃあ、そこ、寝て」
そんな空気も物ともせず、クロエが淡淡とマイペースに割り込む。そんな自由人クロエが手で指し示す先には両側を燭台に挟まれた手術台があった。
二人の世界から現実に舞い戻り、宗馬と栞は弾かれたように振り向いた。
「おっおう――っていきなり!? なんの説明もなしかよ!?」
「スパッとやって、グチュッてなって、モフッてなる」
「擬音のみ!? なんの説明にもなってねぇからそれ!」
「大丈夫。死ぬほど痛ぃけど、殭屍だから、死ななぃ」
「何が大丈夫なのそれ!? つーかなんで痛みは感じんだよ!」
「人格と記憶を保つために定着させている魂が、生きていた時に感じた痛みの感覚を記憶していて、それが外的要因によって呼び起こされるんです。とはいえ殭屍用の麻酔とかがきっとあるんですよね? クロエさん」
「なぃ」
「ねぇのかよ!」
少しも夢を見させてくれなかった。
「私てっきり麻酔みたいな薬があるんだとばかり――っ! 先輩、あのっ、ごめんなさい! 心の準備が必要ですよね!? 今日はやっぱり帰りましょう!」
「大丈夫。血は噴き出したりしなぃから、そんなに、グロくなぃ」
「だからなにが大丈夫なの!? 今のところ不安しかねぇけど!?」
「血液は心臓が停止した時点で循環しなくなっているので、普通は重力で下方に溜まってしまうんですが、死屍奮仁の道術によって血液は細かい粒子状に凝固し、自然と体外に霧散していくんです」
オロオロしながらもしっかりと解説はする栞。
――ダメだ。こいつら揃って天然ちゃんだ。
「大丈夫。ゎたし、天才」
「……」
クロエの碧い瞳には一片の曇りもなく、変わらぬ表情を貼り付けたまま、真っ直ぐに宗馬の瞳を見つめている。
冗談でもなんでもなく、クロエは本気で言っているのだ。
経験と実力に裏打ちされた、決して揺らぐことのない圧倒的な自信、職人としての荘厳な誇りが、瞳に力強い光を与えていた。
「――ったく、清清しい奴め」
宗馬の心にはもう不安や懸念は微塵もなかった。クロエを信じて自分はただ施術が終わるまでおとなしく寝てればいい。
宗馬は覚悟を決め、手術台へと寝転がる。
見上げた天井には豪奢なシャンデリアが吊り下がっていて、オレンジ色の光を放つ無数の電飾が、神神しい光の輪を描いていた。




