第二章01 『大熊猫』
十二月に入り、季節も冬に向かって本格的に移行していたはずだが、撫でるような穏やかな風と、青空の中心から降り注ぐ柔らかな日差しが心地好い昼間。
厳しい冬がやって来る前の休息日であるかのような、そんな昼間。
宗馬と栞は喧噪の中を並んで歩いていた。
早朝の深緑公園のグランドで、二王頭蓬と武蔵坊弁慶との壮絶な戦闘を繰り広げたのがつい数時間前のこと。
赤黒い血溜まりの中で、空虚な抜け殻に、無力で無抵抗なそれでいて絶対的ながらんどう、死骸となった宗馬が、栞の道術――死屍奮仁によって殭屍となったその後。
殭屍となった宗馬は栞と一緒に一度、宗馬の家でもある天竜道場へと戻った。
まず宗馬は栞の怪我の手当てをおこなった。
宗馬は医者に診てもらうことを勧めたが、栞が頑なにそれを拒んだので(医者から怪我の経緯などを詮索されることを避けたかったのだろう)素人知識しか持たない宗馬が仕方なく、止むを得ず、頭の片隅に追いやられたうろ覚えの記憶を引っ張り出して――みても大した知識は持ち合わせていなかったため、潔くネットの世界に全力で助けを求めて、栞の傷を手当てした。
というのも、片手でもう片方の腕を自身で治療するのは難儀そうだったからでもあるし、栞という少女が絶望的に不器用だったからだ。
それはもう救いようのないほど致命的に。
包帯を全身にぐるぐる巻きにして、身動き取れなくなっているのを目撃した時は、さすがに宗馬も目も当てられない思いがして、手当てすることを志願した。
「一昔前の漫画のキャラクターみたいな奴だな。なんだか懐かしすぎて、新鮮さすら感じる」
「先輩に懐かしさと新鮮さを同時に提供出来たのなら、私のこの失敗も無駄ではなかったと言えますよね!? いえ、言えるはずです!」
「……まぁ、前向きなのはいいことだよな」
――とやかくは言うまい。二王頭の奴、耳まで真っ赤にしてやがる。ドジっ子のくせして意地っ張りというか、負けず嫌いというか、なかなか難儀な奴だ。
偉そうに胸を張りながら、湯気が出そうなほどに真っ赤な顔で虚勢を張る、残念な少女。二王頭栞の怪我は、見た目が与えるインパクトほど酷い傷ではなかったようだ。表面を広範囲で負傷したという印象。
宗馬の素人考えだが、これなら傷も残らないのではないかと思った。花も恥じらう乙女の体に傷が残ってしまうのは、あまりに残酷で居た堪れない。
最低限、幸いな――決して最高の結果ではなかったが、最終的にどう落ち着くかは、明日の夜はっきりすることだ。
宗馬が栞の手当てを終える頃を見計らって、栞が切り出した。
「ところで先輩、この後一緒について来てほしい場所があるんですけど、いいですか?」
「? とくに用事はねぇけど、二王頭は今日はゆっくりしてたほうがよくねぇか?」
「お気遣いありがとうこざいます。ですが、なるべく早く済ませるにこしたことはないので、先輩に用事がないのであれば私と一緒に来てほしいです」
「事情はわからんが、わかった。それで、どこに行くんだ?」
「それも含めて色々と、目的地に向かいながら話しましょう。途中で会話に困ると嫌なので」
「嫌なのはお前のその言い種だ」
「なるほど! 私の話しの種にしようという提案に掛けて、言い種というわけですね、さすが先輩です!」
「そんな駄洒落を言ったつもりはねぇ! たいしてうまくもない上に、こじつけにも程があるだろうが!」
そんなくだらない会話を挟みつつ、着替えを済まして少し休憩を取った二人は天竜道場を後にして、栞のみが知る目的地へと歩きだした。
ちなみに、栞は道場で洗濯していた制服を着ている。
乾燥が間に合わず、若干湿っていたのだが、宗馬のダボダボのティーシャツやジャージで街を歩くのは避けたかったようで、渋渋袖を通している。
宗馬は安定の上下をジャージで揃えたスポーティーコーデだ。
宗馬の家から十五分ほど歩いただろうか。
その間宗馬は栞の、「ヨーグルトを開けたときに上蓋についてるヨーグルトって当然食べるじゃないですか? あれ、スプーンじゃなくて舌で舐めとるのって何歳まで許されるんですかね?」「この間テレビで見たんですけど、パンダって一日中笹ばかり食べてるのに、消化器官は笹を食べるのに適してないらしいんですよ。なんだか切ない話ですけど、そこがまた可愛いですよね」「あっ、あそこのタピオカジュースのお店、この前有名なイケメン俳優の笹……岡? 笹山? えーと、笹……笹……パンダの尻尾って白でしたっけ、黒でしたっけ?」etcといった、どうでもいい会話を半分――九割以上聞き流しながら、自身の体になにかしら変化が生じていないかどうか、確認していた。
今のところ、歩いたりといった日常の動作にはとくに異常は感じられない。
一目でわかる変化があるとすれば、肌の色だ。青白いというよりは灰色がかったような、端的に言えばべらぼうに不健康そうな色をしている。
自分が一度死んでいて、道術とかいう謎に満ちた珍妙奇天烈、摩訶不思議な力によって殭屍――栞はそう呼んでいた、非常識な存在に変貌してしまったという実感が現時点の宗馬にはあまりなかった。
しかし、生まれてからこのかた、一度もお天道様を拝んだことのないような、まさに生気の感じられない肌を目の当たりにしてしまうと、自分が一度は世界からつまみ出されてしまった、それでいてのこのこと素知らぬ顔をして戻ってきた、どうしようもない異分子であることは理解できた。
灰色――人が人であることを終え、業火によって焼き尽くされ、最後に残った粉末状の残骸、灰塵、その色。死の残りカス。
死してなお、未練がましく、往生際悪く、まがいものの生にしがみついている、そんな自分にはおあつらえ向きな気がした。
――悪くない。
宗馬は右手の手のひらを眺めると、握りこんだ。宗馬の心には後悔はもちろん、後ろめたさや不安は微塵もない。
あるのは、この先の未来に待ってるであろう、困難や試練に対する覚悟と期待だった。
「パンダって大熊猫って書くじゃないですか。熊はなんとなくわかりますけど、猫はどこからきたんですかね。パンダに猫の要素ありますか?」
飽きもせず一人喋り続ける栞。独壇場。
「なに? なんなの? さっきからなんでちょくちょくパンダネタを挟んでくるの? そういう病気なの?」
「なっ、病気だなんて失礼な! 私は怒りました! もう康康です!」
「それはジャイアントパンダの名前だ! やっぱ病気じゃねぇか!」
「先輩落ち着いて、そんなに声を荒げないでください! 童童」
「落ち着かせる時のどうどうは漢字じゃねぇぞ! その漢字の繰り返しはジャイアントパンダの童童だろうが! わかりづらいボケかましてんじゃねぇ!」
「自分から振っといてなんですが、今のツッコミにはさすがに驚きました。脱帽です。先輩が先輩たる所以の一端を垣間見た気がします」
「随分と大仰な言い方すんな。つか、二王頭は会話に困ること心配してたけど、お前自身がめちゃくちゃ喋んじゃん」
「そうでしょうか。でも確かに杞憂でしたね。先輩はかなり気難しい、相当な偏屈さんだと勝手に思っていたんですけど、実際話してみると、テンポの良いツッコミを返してくれる気さくな偏屈さんだったので楽しくお喋りできました」
「やっぱりお前、俺を立ててるようで実は見下してるよな!?」
「フフッ」
栞が右手を口元に当てて笑った。
光を纏った真紅の髪が揺れる。
大きな目を細めて、笑った。
大人へと変わり始めた、あどけなさを残した、思春期の少女であるがゆえの、青春を切り取ったような、そんな笑顔。
宗馬は一瞬、固まった。そういえば、栞の笑った顔を見たのは初めてだった。
微笑み、程度なら見ていた気がする。しかし笑い声が聞こえるような笑顔、は見ていなかった。
それだけ栞は思いつめていたのかもしれなかった。母と離れ、孤独な闘いに身を投じたこと――つきまとう不安や緊張によって本来よく笑うはずの少女が笑えなくなる程度には。
「お喋りは楽しいですけど、そろそろ真面目な話もしなきゃですね」
栞は前を向いた。宗馬は栞の横顔を一瞥して、それから同じように前を向いた。
家家が整然と建ち並ぶ住宅街を抜ければすぐ、飲食店や服屋、雑貨屋などがひしめく繁華街に出る。
二人が歩く大通り沿いは店が数多く並んでいるため、人通りはわりと多い。前から歩いて来る人とかぶった動線を、体をずらしてかわしながら、栞は宗馬に話し始める。
「先輩、体の調子はどうですか? どこか違和感を感じたりはないですか?」
「まあ、今のところ特にはねぇな。強いて言うなら肌の色がえげつないくらいに不健康そうってとこか」
「たしかに、ただでさえ凶悪な人相が、より凶暴性を増して見えます」
「俺は肌の色が健康的かどうかを言ったのであって、人相の悪さの話はしてねぇぞ」
「フフッ、冗談ですよ先輩」
「真面目な話をするんじゃなかったか?」
「勿論。これからするんですよ」
宗馬は小さく嘆息した。話がなかなか前に進まないことに若干苛立ちながら、主導権はあくまで栞にあるので、不承不承ペースを合わせる。
「殭屍の身体はもはや人間とは根本から、何から何まで別ものなんです。器が同じだけ。見た目が似てるだけ。先輩を先輩たらしめる魂はそのままなので、実感が薄いかもしれませんが、もう以前のような生活に戻れないことは覚悟しておいてください」
「別もの、ね。具体的にはどう違うんだ?」
「そうですね……身近なところで言うと、内臓が機能していないので当然食事ができません。あとは睡眠を取ることもできなくなりますね」
「食事と睡眠か。人によっては喜ばれそうだけどな。一分一秒が惜しい実業家とか。――にしても、睡眠は良しとしても食事がとれないのは結構ショックだな。まぁ言われてみれば、考えるまでもなく当然のことと言えば当然のことだよな」
生前の宗馬にとって食事は、生物として生きるための手段であったのは勿論のこと、個人の趣向として、毎回の食事に享楽を見いだしてもいた。それは武術以外において唯一の趣味、楽しみであった。
しかし、宗馬は自身の中で眠っていた本能、修羅の存在に気づいてしまった。知ってしまった。認めてしまった。
宗馬を苛むものは胃袋の飢えではない。
血。
血に飢えている。渇いている。どうしようもないほどに、渇いている。
宗馬の欲求を満たす快楽は、食物の摂取からは決して得ることができない。命を削り合うような衝突、闘争、死闘に身を置いたもののみが享受できる、赤黒い至高の美酒。
人ならざるものとなった宗馬にとって、食事の禁止云云は、すでに些細な問題に過ぎなかった。
「とはいえ、その程度の変化なら問題ねぇよ」
「それはひと安心です。ですが、ここからが重要なところでして」
「なんだよ。随分と勿体ぶるじゃねぇか」
栞は気まずそうに横目でチラチラと宗馬の様子をうかがっている。やがて意を決したのか、宗馬のほうへ体ごと振り向いた。
「殭屍の体は人間と異なるとはいえ、そもそも死体なので、何もしなければ徐々にではありますが腐っていくんです」
「マジかよ!? 俺もいずれはゾンビみたいになっちまうってことか!? ……いや、でも待てよ。弁慶が現代まで存在できてるってことは猛烈に腐敗が遅いのか? でもあいつ、頭巾で顔を覆ってたし、体もほとんど服で隠れてたし、腐敗に気づかなかっただけなのか?」
「落ち着いてください、先輩! 童童」
「だからそれはトントンだろうが! ――ってそれはもういい!」
「すっすみません、つい! でも、違うんです。説明させてください。えっと、たしかに放っておけば腐ってしまうんですけど、死屍奮仁――死体を殭屍に変える道術ですが、その行程で殭屍の体に、道士から氣を受け取れるようにするゲートというか、そういうのを作るんです。そのゲートによって殭屍の体には常に道士から氣が流れこむようになります。そして、氣が殭屍の体に充満することによって、腐敗を抑制できるんです」
「……つまりは、二王頭からその、氣ってやつを受け取っていれば俺の体は腐らないってことだよな。なんだよ、脅かすんじゃねぇよ」
「それはそうなんですけど……」
「? なんだよ、まだなにかあんのか?」
「道士から氣を送れる距離には限界がありまして……私の今の実力ではおそらく十メートルくらいが限界なんです」
「……それはつまり、俺は二王頭から十メートル以上離れられないってことか!?」
「そう……なりますね。えへっ」
宗馬の見た栞史上、最高の笑顔だった。
「うわぁ、マジか……きっつ」
「その反応はちょっとひど過ぎませんか!? 私これでも華のJKですよ!? 甘酸っぱいたわわな果実ですよ!? 魅惑の美少女と常に十メートル以内にいられるなんて、世の男性達からしたら、それこそ涎ものですよ!?」
「その表現は華のJKがする比喩としては最悪だからな! それに美少女ってのは他人からの評価であって、自己申告する称号じゃねぇ!」
「と、とにかくもう、諦めてください! 先輩は私なしでは生きられない体になってしまったんですよ!」
「あらぬ誤解を生むようなことを声高に叫ぶんじゃねぇ!」
響き渡る声。通り過ぎる人々が横目に二人を見る。
肩で息つく宗馬と栞。痛み分け。両者共に決して浅くはない傷を負っての痛み分け。
「殭屍にするように頼んだのは俺だからな。あーだこーだ言ってもしょうがねぇし。ま、とりあえずよろしく頼むぜ」
「はい! よろしくお願いします、先輩!」
はじけるような笑顔。屈託のない笑顔。
柔らかな太陽の光を反射した瞳に、光の欠片が散りばめられて、栞の笑顔に輝きを添える。
色色と不都合や面倒事も起こりそうだが、それはその時考えて、相談して、一つずつ解決すればいい。
今はとりあえず、お互いによろしく――それでいい、それくらいが丁度いい、そう思う。
「あっ、そうでした。もう一つ言い忘れていました」
落ち着いたところで、思い出したように栞は人差指を一本立てる。
「?」
「殭屍は術者である道士――先輩の場合は私ですが――の命令には絶対に逆らえないようになってます」
「は……?」
栞は相変わらずの瑞瑞しいJKスマイル。
――こいつ、とびっきりの笑顔で恐ろしいことをサラッと言いやがった。
「二王頭さん? それはつまり……今後俺は二王頭さんの側から十メートル以上離れられないし、命令にも絶対服従ということでしょうか?」
「二王頭さんなんてやめてくださいよ、せ、ん、ぱ、い。今まで通り呼び捨てで大丈夫ですよ。うふっ」
――いや怖えよ。恐え。こいつ、とぼけたフリしてその実、めちゃくちゃドSじゃねぇのか?
ゾワリと宗馬の足先から旋毛までを悪寒が走り抜けた。腕を見てみると、プツプツと鳥肌が立っていた。
殭屍にも鳥肌って立つんだな――残酷な現実を前に、妙に感慨深い気分に浸っている自分、これも一種の逃避なのだろうか、そんなことを思うとなんだかやるせない気持ちになった。
「結局、今回の目的ってなんなんだよ?」
過酷な事実は一旦、忘却の彼方へと葬り去り、本来の目的を確認する宗馬。
「そういえば、まだお伝えしてませんでしたね」
栞が腕を後ろで組みながら、一歩二歩と宗馬の前に出る。漆黒の中に真紅を落としたような鮮やかなセミロングの髪を揺らしながら、腰を少し曲げた上目遣いで振り返る。
「先輩の体に綿を詰めに行きます」
「……は?」
質問に返ってきた答えを聞いて、さらなる新しい謎を抱えてしまうという不可思議な現象に、殭屍になった宗馬の、働いてるかも怪しい脳が停止した。




