第一章12 『鬼は死して尚、』
寒い。
凍えるように寒いはずなのに、噴き出す汗はいっこうに止まる気配がない。むせ返る度に鮮血が喉を灼きながら吐き出される。
身体から体温が失われていくほどに、宗馬を苛む苦しみは遠のいていき、思考が冷静さを取り戻していく。
とうとう手で体を支えるのも億劫になり、仰向けに寝転がる。薄眼を開けると渦を巻くような景色は収まり、霞がかった、ぼやけた世界が映った。
栞が宗馬の顔を覗き込んでなにやら必死に呼びかけている。耳鳴りもいつのまにか治まり、栞の発する言葉もはっきりと聴こえているのだろうが、宗馬の思考はその処理を怠っていた。
宗馬は思考の沼へと沈んでいく。
死に捕まってしまった。
受け入れた――わけではない。宗馬が宗馬であることを認識しているうちは、生への執着からは逃れられないし、必死にもがいてでもしがみつくべきだと思っている。
たとえどんなに抗おうとも、非情に、冷酷に生命を狩っていく死という絶対的なシステムは、瑣末な反抗に対していちいち頓着してはくれない。
ではなぜ人は抗うのか、抗うべきなのか、たった十七年生きただけの宗馬にその答えが出せるはずもない。
単純に自分の心の奥深くにある生命の核が死にたくないと訴えている、だから生きる、生き抜く。宗馬が死を否定するのにはそれだけで充分だった。
余命が残り僅かであることを知ってから、恐怖が絶えず宗馬の全身を這いずるようにまとわりついた。
液体が布に染み込んでいくように少しずつ宗馬の精神を蝕み、焦燥感と無力感が恐怖を招き入れようと内側から宗馬という外殻を壊していくようだった。
抵抗する術も、逃れる手段もあるはずはない。しかしそれを知っていたとして到底理解などできるはずもない。
心臓が拍動し、律動が宗馬の生命を刻む度に、確かな熱が全身を駆け巡るのだ。鼓動が停止することの恐怖は脳が、生を持つ者の本能が想像させる幻影でしか宗馬は知らない。
人間の持つ豊かな想像力は、忍び寄る死の足音を鼓膜に届け、肌を撫ぜるようなまとわりつく気配を創り出す。
恐怖に追われながら生にしがみついていた宗馬は、栞を探してやってきたグランドで伝説の僧兵、武蔵坊弁慶と相対した。
相手を圧し潰すような強烈な圧迫感は、宗馬に経験したことのない未知の脅威を与えた。
粟立つ肌と高鳴る鼓動。
宗馬の爪先から脳天までを一息に駆け昇った震えの根源は、恐怖ではなく歓喜だった。そして一抹の安堵だった。
ようやく自分の内側に押し込められていた修羅の本能を、破壊の衝動を、存分に解放できる相手に出会えた。武の真髄を追い求め積み重ねた一秒は、一打はこの瞬間、この打ち震える歓喜のためにあったのだ。
そして同時にじわりと滲んできた感情は、自分の歩んできた道のりが、武に懸けた想いの重みが無駄ではなかった、最後の最期に報われるのだという安堵だった。
弁慶は宗馬の希望となるはずだった。
文字通り宗馬の生命を宿した拳はしかし、いくら打ちつけようと弁慶の魂にはとうとう届くことはなかった。
人生を懸けて鍛えあげた宗馬の拳は、一人の漢の燻った魂を燃え上がらせることすらできなかった。それが悔しくて、なにより情けなくて堪らない。
弁慶の感情を押し殺したような無の斬撃は、宗馬の昂ぶった感情など気にも留めずに淡々と繰り出された。
弁慶の双眸、漆黒が穿った二つの空洞は果たして宗馬を見ているのかいないのか、焦点の合わない視線を宙に彷徨わせながら、斬撃だけは正確に宗馬を引き裂こうと黙黙と振り下ろされていた。
まるで見えない糸で操られた傀儡のように。
傀儡は傀儡師の描く理想のなかでしか踊ることはできない。
喜びも怒りや悲しみも、溢れ出す感情の一切を押し殺して――否、感情の奔流は抑圧によって一層強く、激しくうねり束縛から逃れようと暴れまわる。
荒ぶる龍のような激情を内に抱いたまま、抑圧と強要が螺旋を描く透明な糸が命じるままに、道化を演じて舞台の上で踊り狂う。
弁慶の無の斬撃の奥の奥、無理矢理に押し込められた感情のその一端を宗馬は感じ取っていた。
感情の欠片。
深い深い哀しみの碧。
怒りでも闘争心でもなく、痛いほどの哀しみだった。風の音にもかき消されてしまいそうなほど小さい、それでいて悲痛な叫び。もしくは――。
――祈りだったのかもしれない。
弁慶にとっては宗馬こそが希望だったのかもしれない。己の肉体を破壊し、抑圧された精神を解放してくれる誰かを待っていた。
蓬という男に宗馬を斬り捨てるように命令を受けながらその実、宗馬の拳によって打ち砕かれることを望んでいたのだ。
だとしたらそれはあまりに身勝手だ。独善的だ。利己的だ。自慰的だ。独りよがりな妄執を他人に無理矢理押しつける野蛮な行為だ。
しかしそれは宗馬も同じことだ。死という恐怖がすぐ真後ろに迫っていたことで焦り、動揺し、困惑し、只只自分の荒みきった感情をぶつけていただけだった。
このまま終わらせてはいけない。二人の間にはなんの決着もついていない。それどころか始まってすらいなかったのだ。
宗馬の拳は弁慶の魂を奮わせることなく、骨の軋む空虚な音と鈍い痛みだけを残した。互いに顔を合わせながら、どちらも見ていたのは自分だけだったのだから当然だ。
死に追いつかれ、蝕まれ、苛まれ、蹂躙され、朽ち果てようとしている宗馬の肉体。肉体同様に追い詰められ憔悴しきっていたはずの心の奥底から、熱を帯びた感情がジリジリと込み上げてくる。
満身創痍の肉体をも突き動かそうとするこの熱は情熱だ。心を満たしていく情熱は、死に捕らえられて尚、足掻きもがくための活力になる。
だが急がなければならない。今まさに宗馬という概念は世界の認識から除外されようとしている。
底に沈んでいた意識が急浮上して、宗馬と世界とを再び繋ぐ。
必死に呼びかけている栞の細い手首を宗馬の手が掴んだ。
「! 先輩っ!」
「に……おう、ず……」
宗馬は残された生命の残りカスをかき集め、最後の力を振り絞る。か細い手首を握る筋張った手は小刻みに震え、栞の華奢な腕以上に弱々しく見えた。
宗馬の震える手の上に栞の掌がそっと重ねられる。包みこむように添えられた掌からはじんわりと温もりが伝わり、ゆっくりと全身に染み渡っていく。
「良かった。返事してくれないから……」
「二王頭……俺はもう、死ぬ。だから……」
「そんなっ! 先輩、やっぱり救急車をっ!」
「待て。……頼むから、俺の話を聞いてくれ」
「でもっ……先輩」
栞の潤んだ瞳には満身創痍の肉体とは裏腹に、強い決意を宿した宗馬の姿が反転して映っている。
言葉を繋げなければならない。
伝えなければならない。
宗馬の願いを叶えるためには栞の力が必要なのだ。宗馬の想いをできる限り正確に明確に実直に真摯に言葉にして栞に伝えなければならない。
使命感にも似た感情が宗馬を衝き動かす。
「二王頭……頼む。俺を……弁慶みたいに、動く……死体にしてくれ」
「!? そんなっ先輩を殭屍になんて、そんなの無理です!」
「道術……とかいう力を使って……死体を、殭屍とやらに……できるんだろ? それを、俺に……使ってくれ。頼む、二王頭」
「先輩は殭屍になることが、どういうことかわかってないんです! それに……先輩はまだ生きてるじゃないですか。死ぬなんて……そんな悲しいこと言わないでください」
「俺の、体なんだ。俺が一番……わかってる。俺の体はもう……とっくに限界だったんだ。医者にも……言われてたんだ……もう長くはないって。終わりがきた……それだけのことなんだ。だから……お前が悲しむことでも、責任を……感じることでも、ねぇんだ」
「そんな……」
「けど……やんなきゃならねぇことができたんだ……。だから、死んだとしても……寝てる場合じゃ、ねぇんだよ」
「やらなきゃ……ならないこと」
「そうだ。……お前にも、あるんだろ? 夢が、目標が。……俺は……あいつを、弁慶を……解放する。あいつは……俺が、最後に……全力を出して闘り合いてぇって、そう思えた……相手だったんだ。そんな奴の……太刀筋が哀しみに満ちて、たんだ。……俺は、あいつを……あいつの心を解放して、本気でもう一度……闘いたいんだよ。それを……弁慶も、きっと待ってる。それが、俺の役目だって、そんな……気がするんだ」
「弁慶を……解放する」
「弁慶の願いを……叶えてやれるのは、きっと……俺だけだ。……弁慶ともう一度……――」
宗馬の言葉を紡いでいた口から突然、言葉ではなく真っ赤な血が激流となって大量に流れ出た。
寝返りを打つようにうつ伏せになった宗馬はむせ返りながら、その度に血を吐き続ける。
「先輩っ!」
地面を赤く染めあげ、血溜まりの中で蹲る宗馬は苦しそうに肩で息をしている。唾液混じりの粘性のある血液が地面とを繋ぐ糸のように口から垂れている。
出すだけの血が残っていないのか、吐血はどうやら治まった。
急がなければ。
「頼む……二王頭。俺を……殭屍に……してくれ」
栞を説得するような言葉はもう宗馬の頭には浮かんでこなかった。脳を働かせ思考するほどの生命力さえ宗馬には残されていない。
願いは、祈りは、心が唱えるものだ。想いだけがかろうじて宗馬と世界を繋いでいた。
「……殭屍には様々な制約があります。殭屍はあくまでも動く死体であり、今までのように人間として、人間らしく生きていくことはできません。それでも……それでも先輩は後悔しませんか」
「……あぁ」
栞が何を言っていたのか、宗馬の脳には言葉を読み解き解釈するだけの機能は残っていなかった。
かろうじて聞き取れた後悔という言葉。大半の言葉を理解できないまま頷いた宗馬だが、それだけは決してしないという強い確信がある。
「……わかりました。私の道術で先輩を殭屍にします。必ず。約束します。だから先輩……――」
宗馬の世界がぐにゃぐにゃに歪み、音は間延びしたように緩慢になって全く聴き取れない。栞の口が動いていることだけはなんとなくわかった。
瞼が急激に重たくなって目を開けていることが難しくなってきた。宗馬の視界がゆっくりと闇に覆われていく。
――とうとう終わる。何がオワル。オワルとはなんだ。
宗馬の思考は溶けていくように色々なものが不明瞭に不鮮明になっていく。
果たして栞を説得することはできたのか。もう何もわからない。何も……――。
――あとは起きてから考えればいい。
瞼が完全に閉じて世界は黒一色になった。
ソウマは黒の中に溶けていく。
*ウマを構成する要素の総てが溶けきり、**マは世界と一つになる。
***は世界になった。
「――必ず戻ってきてください」
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
誰かに電源を落とされてしまったように、宗馬はあまりにも唐突に突然に宗馬ではなくなってしまった。
栞とたいして歳の変わらない少年の命さえも容赦なく奪ってしまう死の理不尽さ、残酷さ、人間という器の無力さ、そんな当たり前の常識を改めて実感させられる。
人間が目の前で死んだのだという現実、人間が人間ではない別のなにかに変わってしまったという現象、それらは想像以上に栞を動揺させた。
道士が使役する殭屍とも違う、死体という無機質な物質には独特の、なんとも言えない存在感がある。
死には慣れない。
きっとまた誰かの最期に立ち会えば同じように世界を構築する法則の絶対的な力を思い知らされてしまうのだろう。
取り残された栞を静寂が襲う。栞が握っている宗馬の手からは体温が失われ、冬を匂わす外気と一体化したように冷たい。
宗馬は弁慶を解放すると言っていた。それは栞の望んでいることでもあった。
弁慶は栞にとって家族同然であり、かけがえのない大切な存在なのだ。
そしてそれは栞の役目、責務であると思う。その責務を無責任に、放りだすように宗馬へと押しつけてしまっていいはずがない。
宗馬という少年は一見素っ気なくぶっきらぼうに見えるが、実は優しさと包容力を持っているのだと、短い時間だったが一緒に過ごして知った。
ゴミ箱にはまった自分を見捨てずに助けてくれた。出会ったばかりの他人に服と風呂まで貸してくれた。そして何より、そんな他人のために闘い傷つくことを厭わずに駆けつけてくれた。
栞は覚悟を決めて、母を残し家を飛び出してきた――そう思っていた。勘違いしていた。自惚れていた。
目的や夢に懸命に歩いていると意識することで目を背けていた。強くなれていると思い込んでいた。
一人は怖かったのに、一人で闘うことに怯えていたのに、一人で歩く夜は心細かったのに、その全部から目を逸らしていたのだ。
宗馬の親切に逃げ込んだ。弱さを認めないで済むように利用した。その甘えが関係の無い宗馬を巻き込み、あろうことか死へと追いやった。
自分の弱さが宗馬を殺した。
その宗馬を殭屍として使役して、弁慶を解放するために利用する。
自分が今からすることはそんな醜く下劣な、下卑た行為なのではないのか。たとえそれが宗馬の願いだったとして、それすら、その想いすら利用しようとしている。
自分はこの未来、自分の夢を胸を張って語れるのだろうか、誇れるのだろうか。
そんなに自分を卑下するのならば、一人で闘い蓬を蹴散らし弁慶を解放し、母を助けだせばいいのだ。
昨日までの栞ならばそう考え決断し、行動に移していただろう。
しかし栞は自分自身の現時点での力量を、無力さを、脆弱さを思い知ってしまった。蓬一人に対しても勝算は半分以下であり、そこに伝説の僧兵、武蔵坊弁慶が加わっているのだから、栞一人では万に一つも勝ち目はない。
なんとかなると、どうにかできると高を括っていた。しかし現実はどこまでも平等で、残酷なほど公平なのだ。栞に忖度などしてくれるわけもなく、蓬を強くするわけでもない。経験や技術の差が値となり、明確に戦力差となってあらわれる。
宗馬という少年にはその戦力差を覆すほどの圧倒的な武力がある。人間離れした鬼神の如き武は弁慶をも寄せつけず、己の肉体を武器に伝説を捩じ伏せてみせた。
現在の窮地を打開するには宗馬の助力が必要不可欠であることは誰の目から見ても明らかである。
母を助けるために、弁慶を解放するために、自分の夢を叶えるためにはどうすることが最適か。栞の脳はすでに結論を出している。
悔しくて情けなくて自分が嫌になる。
誰にも迷惑をかけることなく、全てを背負えるほどの実力が栞にはない。自分一人でできることなどたかが知れていると言葉では分かっていても、その範囲があまりにも小さかったことを思い知らされてしまうと情けなくて仕方がなくなる。
嘆いても喚いても力が無ければ掬える感情には、救える人には必然的に限度がある。
一人の力ではどうにもならない事態に陥ってしまったとき、助けてくれる誰かがいたのなら縋ったっていい。
辛い時に手を差し伸べてくれる誰かがいることはとても恵まれていて幸せなことだと思うから。けれども甘えてはいけない、甘えていたくはない。
――強くなりたい。守られるのではなくて、誰かを守れる人間になりたい。
宗馬を殭屍に変え、力を貸してもらう。全てを選びとれないのなら選択するしかない。
幼稚で卑俗なプライドは持っていても邪魔なだけだ。
弁慶の解放は宗馬に任せて、自分は蓬を倒し母を救いだす。その役割だけは譲れない、譲ってはいけない最低限の線引きだ。
死期を早めるきっかけを作ってしまった栞と共に闘ってくれるという宗馬には感謝をしてもし足りない。一生を懸けてでもこの大恩に報いるため、今度は栞が宗馬に力を貸せるように、強くならなければならない。
血溜まりに突っ伏している宗馬をなんとかずらし、仰向けに寝かせる。
ここからは時間との勝負だ。
魂が宗馬の身体を抜け出てしまう前に、屍体を殭屍へと変える、死屍奮仁という道術を施さなければならない。
栞は三枚の札を使い、宗馬と自分を覆う程度の小規模な結界を新たに展開させる。薄い透明な膜が三角錐の形に広がり、栞と宗馬の二人を世界から隔絶させる。
死屍奮仁は殭屍を使役して闘う道士にとって必要不可欠であり、どの流派でも必ず会得する根本的な道術である。
しかしそれ故に公に認知されていない道術や仙術の中でも特に秘匿性の高い秘術とされ、一般の人間の目に触れさせてはならない道術として、道術を習得しようとする者にはまず最初に教えられる。
栞はこの瞬間のために毎日練習もしてきたが、実際に術を使うのは当然これが初めてだ。栞は道術を行使する手順を頭の中で何度も反復しながら、同時に下準備を整えていく。
鼓動が高鳴り、栞を焦らせるように速い律動を刻む。
神経の伝達が道に迷っているかのように遅くなり、手足の感覚が鈍麻になっている。
ゆっくりと息を吸って大きく吐き出す。深呼吸を数回繰り返し、浅くなっていた呼吸を無理矢理に戻していく。
――大丈夫。練習通りにやればいいだけ。約束したんだ。先輩を必ず殭屍にする。
一度目を閉じて天を仰ぐ。
閉じられた瞼を通り抜けて太陽の光が届き、オーロラのような幻想的な景色を瞼の裏側に描く。
首を下げてゆっくりと目を開くと、いつのまにか栞の心は落ち着きを取り戻していた。精神が体を抜け出して、上空から自分が自分を見下ろしているかのような不思議な感覚。
栞はホルダーから札を一枚抜いて顔の前にかざす。ブツブツとお経に似た祝詞を唱えながら左手で素早く印を結んでいく。
戦闘で使う道術よりも長い祝詞と印を結び終えると、顔の前でかざしていた札を両手で丁寧に折りたたむ。
二王頭家の道術は柳宋流と呼ばれる流派に属していて、栞の札の折りかたは柳宋流の車懸折りである。札の折りたたみかたには幾通りかあるのだが、どのたたみかたを用いるのかは流派によって異なる。
車懸折りで飴玉くらいの大きさに折りたたんだ札を、今度は宗馬の口の中へと押し込んでいく。指を深く突っ込んで喉の奥へと入れる。
それが済むと再び祝詞を唱えながら両手で印を結び始める。何通りもの印を結んだあと、人差し指と中指の二本を伸ばした右手を上空に高く突き上げ、それを勢いよく振り下ろした。
その直後、宗馬の全身が淡い光に包まれたかと思うと、やがてその光は空気に溶けていくように消えてしまった。
栞は軽く息を吐いた。
ここまででようやく半分の行程が終了したのだ。どうやら宗馬の魂を身体に定着させることには成功した。ここからは宗馬の人間の身体を殭屍の身体へと変えていく。
栞は再び集中力を高めるとすぐさま次の行程へと取りかかった。
二枚目の札をホルダーから抜き、右手に持って高く掲げる。先程と同様に祝詞を唱えながら左手で印を結んだ。次に右手で掲げていた札を前回とは違う折りかた、方円折りで両手を使い丁寧に折っていく。
飴玉よりも一回り大きい玉を作り終えると、その玉を親指と人差し指、それから中指との三本でつまんだ。
それを宗馬だったモノの臍の少し下、丹田の辺りに置き、そのままゆっくりとめりこませる。祝詞を淡淡と唱えながら、右手は躊躇することなく皮膚の内側へと突き刺していく。
三本の指は玉を握ったまま、みるみるうちに宗馬の体内へと吸い込まれていった。
第二関節くらいまで深く突き刺すと、栞は玉を残し、右手だけを宗馬の体から引き抜いた。
すると突然宗馬の全身にお経のような文字の羅列が隙間なくびっしりと浮かびあがった。
宗馬の体が跳ねるように仰け反る。
青白かった肌は灰色味がかった色に変色していく。
栞は両手で目まぐるしく印を結びながら祝詞を唱えている。
額にはうっすらと汗が浮かび、上気した頬は淡い桜色に染まっている。火照った体は高揚した感情に呼応するように次第に熱を上げていく。
唐突に宗馬の両目が勢いよく見開かれた。真ん丸く開かれた両目は白眼をむいていて、今にも飛び出してしまいそうだ。
大きく仰け反ったままの体には血管が稲妻のように浮かび上がり、顔面には恐怖や絶望、あらゆる苦しみをぐちゃぐちゃに攪拌したような地獄が刻まれていた。
「ひっ……――」
栞の口から息を吸い込むような小さな悲鳴がこぼれた。生命の連続性、世界の理に背いてしまったことへの恐れや畏れ、禁忌に触れてしまった咎人のような後ろめたさ。形容し難い何か、世界を操る何かへの畏怖が栞の全身の筋肉を硬直させた。
祝詞が途切れる。
宗馬の身体が小刻みに痙攣し始めた。白眼をむいた両目がいっそう大きく見開かれる。仰け反った身体が上下に激しく揺れる。
「先輩っ!」
玉になった汗が重力に負けて栞の頬の上を走るように流れた。
栞は慌てて祝詞を再開する。
全身を石に変えるような畏怖の念をかろうじて抑え込み、必死に印を結んでいく。
するとだんだん宗馬の痙攣は治まっていき、仰け反っていた身体も仰向けの寝姿勢へと戻っていく。
宗馬の全身を埋め尽くしていたお経のような文字も徐徐に薄くなっていき、やがて消えた。
大きく見開かれていた両目もゆっくりと円を小さくしていくと、半円になり最後には完全に閉じられた。
いつしか宗馬から苦悶の表情は消え、穏やかな寝顔のような死相だけが残された。
穏やかになっていく宗馬の容態に合わせるように栞の声も徐徐に小さくなっていく。
囁くような祝詞は風に攫われて途切れた。
栞は大きく息を吐いて両手を地面に着く。落ちた汗が土を湿らせた。
疲労感がドッと押し寄せる。全身が鉛になったように重い。
やれるだけのことはやった――はず。栞は宗馬に施した行程を頭の中で思い出しながら、昔教わった死屍奮仁の行程と照らし合わせていく。
ひとつ懸念があるとすれば、途中で一度、祝詞を途切れさせてしまったことだ。そのことが死屍奮仁の結果にどれほどの影響を与えるのか、経験のない栞には予想もつかない。
――先輩、戻ってきて!
栞はギュッと目を瞑り、心の中で強く叫んだ。
地面に着いた両手にも自然と力が入り、指が地面に轍を作りながら握りこまれる。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。たかだか数秒だったような、数時間にも及ぶ間だったような。栞の握った砂つぶは体温で温められ、掌と一体化してしまったように馴染んでいた――少なくともそうなるのに充分な時間。
目を閉じた栞の頭の上になにかが乗せられた。
冬を匂わす冷気が実体を伴ったような、ひんやりとした、それでいてどこか親しみのあるようななにか。
栞はゆっくりと目を開ける。
少年が微笑んでいた。
生けとし生ける者、その誰よりも生気をみなぎらせた力強い瞳が、栞を真っ直ぐに見つめていた。
栞の頭の上に乗せられたなにか――少年の掌が左右に動いて栞の髪の毛を無造作に擦った。
「なに泣いてんだよ」
「……っ先輩!」
栞の全身を温かいものが急速に駆け上がっていくのを感じる。唐突に気持ちのいい脱力感が栞を襲う。
弾むような興奮と、眠気を誘う安堵が混ざり合ったような、不思議な感覚が栞の全身を満たしていく。
緊張が緩んだせいか、栞の両目にはいつのまにか大粒の涙が溜まり、視界をぼやけさせていた。
指摘されたことでなんだか急に恥ずかしくなって、栞は両手を使ってゴシゴシと目を擦った。
「泣いてなんかいません!」
「そうかよ」
「そうです!」
良かった。本当に良かった。
宗馬を殭屍に変えたことは本当に正しかったのか。今の栞にはその答えなどわかるはずもない。しかしこの先、栞にも宗馬にも数々の困難や試練が立ちはだかるであろうという予感はあった。
それでも今は、今だけは。
宗馬が戻ってきてくれたことを喜びたかった。
「先輩」
栞の声に宗馬が目線を向ける。
「戻ってきてくれて、約束を守ってくれて、ありがとうこざいます」
宗馬がもう一度微笑んだ。
「お前の母ちゃんも、弁慶も、俺たち二人でサクッと助けてやろうぜ」
「はい!」
気がつけば涙も乾き、漲る意志の力が栞という器を満たしていた。
公園内にもいつのまにか人が増えてきた。通勤途中のサラリーマンや、ジョギングをする女性。
鳥のさえずりがあちらこちらで心地の良い旋律を奏でている。
二人が踏み出した新しい旅の無事を祈るように。
広いグランドの中心の小さな二人。
柔らかな太陽の光が二人を包みこんだ。




